まず、(「天皇」という文言の始原ではなく)中国での「皇帝や天子や年号」などの文言の始原は、やはり紀元前3世紀の秦の始皇帝が大体最初であり、漢代になって、それまでは北方周辺やインドや中近東の王や支配者がそれと意味の近縁する文言を使った事があったらしい、という事のようでしょうね。そして東アジアや列島では、地域支配者は、「天子や皇帝や天皇」という文言を使わずに「王」止まりであったようであり、年号も中国の年号をそのまま使っていたようですね。まず、(「天皇」という文言の始原ではなく)中国での「皇帝や天子や年号」などの文言の始原は、やはり紀元前3世紀の秦の始皇帝が大体最初であり、漢代になって、それまでは北方周辺やインドや中近東の王や支配者がそれと意味の近縁する文言を使った事があったらしい、という事のようでしょうね。そして東アジアや列島では、地域支配者は、「天子や皇帝や天皇」という文言を使わずに「王」止まりであったようであり、年号も中国の年号をそのまま使っていたようですね。そして、列島では地域支配者は「王」を名乗っていたようであり、その部下の将軍たちは、「~命や将軍」などを名乗っていたようであり、こういう状態は、6世紀初頭の「松野氏姫氏系図の最後の倭國王哲を倒した(糸島の伊都国の阿毎氏系の)磐井が倒して、磐井は(百済本に依れば)初めて日本国天皇を称して継体という年号を開始した事で終焉し、しかしその後また「(倭の五王らがいた高良山にいた)磐井は、ヤマト王権のヲホド継体の物部アラカヒの軍に突然三井まで入られて、豊前にまで逃げてそこで亡くなり、半島や地方からの磐井の軍が戻り始めたので、ヲホド磐井の物部軍が諦めて磐井の末子の葛子が継承する事で妥協し、その後、葛子後の政権は、ヤマト政権を九州倭國政権の将軍や執政や太宰や秦王?や「天子の弟?」などの地位になり、九州倭國(俀國)でも、葛子の後裔は「天子の阿毎タリシホコにまでなっていたようであり、新唐書に依れば、ヤマト政権は、欽明が独立國として梁に遣使したが巧く行かず、用明が(九州倭國俀國の)天子のタリシホコの執政の「目タリシヒコ」の身分になったようであり、またヤマト王権の年号は元々なかったのであるが、(とっくに亡くなった筈の)聖徳太子が長野永平寺への手紙に(九州俀國年号の)「命長」を使用していた事がバレており、また日本書紀によれば7世紀末である筈の「大化」年号を蘇我氏征伐の時であったように書いており、ヤマト政権の年号も8世紀初頭からである筈なのに、突然斉明が「白雉」という逸年号の九州年号を使わせており、これらは、ヤマト政権の王たちが、実は九州倭國(俀國)政権内にいて、九州年号を使用していた、という事の痕跡であった事になってしまっているんですよ。