私は古田説派の初期の頃から「古田さんを囲む会」に入って、時々例会にも端っこの方で時々参加していたんですが、結局古田さんらは、「東日流外三郡誌」での安本派との議論に忙殺されて、古田説派も分裂してしまい、九州説派であった室伏さんの「松野氏姫氏系図の紹介」に気付かれずに亡くなってしまわれた、という事であり、だから、卑弥呼や壹與や倭の五王や東海姫氏國の最後の倭國王哲が(糸島の伊都国系の)磐井に倒されて磐井は(百済本記?に拠れば)「日本國天皇を称して継体年号を開始した」という事も古田さんは知らずに亡くなられ、そして(ヤマト説者らが無視する事は分かるんですが)古田さんの後継の古賀さんらも、私が何度も紹介記載した事にも全く反応されなかったんですね。そして磐井の末子の葛子が「日本國天皇」を継承して、新唐書にも、ヤマトの欽明が梁に王権を主張したが失敗した事と用明が「目タリシヒコ」という「九州倭國王のタリシホコの目付役」になっていた事が記録され、磐井没後の50年後位になって、隋書に九州倭國(俀國)に「天子の阿毎タリシホコの存在だ記録されていたんですね。古田さんは、本当にお気の毒でしたね。