私は、小学校の頃から父に連れられたりして、大阪府下や高野山や奈良や宇治川や京都周辺に行っていたので、古代史にもかなり関心があり、小学校6年には同じクラスの増田君とも信貴山に行っており、中学校で歴史を習った時にも、同級生の津田君らと自転車での日帰りで京都中心部の寺社などを回って帰って来た事もあり、天王寺高校でも音楽部の仲間と薬師寺唐招提寺を見に行ったりした事もありましたが、東大理学部物理や名大物理大学院の時や阪大医学部に入った頃には、妻も出来た事もあって、古代史には殆ど関心が無くなっていたので、本屋で古田さんの「邪馬台国はなかった」を読んでその「文献考古の史料事実からの推論」の正確さに本当に驚き、その後古田本などを買い求めて読み続け、「古田さんを囲む会」が出来たのでそれに入れて貰って時々後ろの隅の方に座って皆の話や議論を聞いたりしておりましたが、明石に「やな川診療所」という救急診療所を開業してからは、忙しくなって、古田さんの本や「古田史学関係の本」を買って読むだけが中心になり、その後「東日流」の問題で安本派との議論が始まって騒ぎになり、(理由はサッパリ分からなかったんですが)古田説派でも九州組や東京組らの分裂も起きてしまい、その中の九州組の「室伏」さんの本を買って読んで、びっくりしました。室伏さんは、「松野氏姫氏系図」を紹介しておられ、そこに呉王夫差の子の「公子忌」が「火の国山門」に渡来して来て、その一部が委奴の地に別れ、更にそこからまた一部が大野の地に別れ、その大野の地に移った後の6代位後の「刀良」という娘に「卑弥呼姫氏也」という右注が書かれていたんです。そして委奴の地に残っていた姫氏の後裔の「熊鹿文」にも「姓姫氏称卑弥子熊津彦」という右注が書かれ、その人の孫に当たる人に「市鹿文」という女性がいてその下注の中に「被称壱歟」という注が書かれており、だからこの方は「壹與」そのものでしょうね。つまり、それまで卑弥呼はどこのだれっか?で、古代史学会は喧々諤々していたんですが、ここでほぼ決着がついていたのでした。しかし、古田さんを始め古田説派の人々は、松野氏姫氏系図の事を一切触れないままでの議論をされ、勿論学会や文部省系のヤマト説者らは、絶対に触れる事をせずに世間の人々を騙して胡麻化しているままですね。また卑弥呼の墓についても、宝賀さんが、高良山の西山麓の下の方の(九州自動車道のすぐ上の所にある)祇園山古墳群を比定されており、魏氏倭人伝の「卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人」の説明にどんぴしゃりであり、殆ど確定していますね。しかし、宝賀さんは「古田史学の会」にも一度参加して、終わってから古田さんに挨拶されたそうでしたが、古田さんは「全く知らないお人だ」というお顔をしておられた、と書いておられました。古田さんや古田史学会の人々は、宝賀さんの論文を読んでおられず、ずっと知らなかったようでした。