母の介護、体制つくり、姉のこと、次女くんの心配…そして、追い討ちかけるように書類作成(長女関連)も加わった。


そんな矢先、姉が入院になり、有明通いも始まった。



母の拠点をうちに、急ピッチで移す話しでケアマネさんと一致した。


なのに、1日1日過ぎて、深夜1人になる母が心配で、早く移したいと伝えると、「訪看事業所があたってるけど見つからない、お母さんの状態も良いし今の体制でうまくいってるから、8月過ぎてお姉さんの治療方針が決まったあとでないとハルコさんも大変…」と言われた。


深夜2時3時まで後ろ髪ひかれて帰れないから、毎日の実家通いも負担だったけど、まだ点と点で繋いでもらい、日中動けた方がいいのかと思った。


結局、姉が退院し、母が弱ってきたことで拠点を移した。


酸素の状態が不安定な時あるから移動が危険、お姉さんに実家に来てもらったら…と反対されたけど、この時はゆずれず、翌日、酸素ボンベと看護師のいる救急タクシーを手配してもらい母を移した。




「8月14日、母が他界して」


姉もいて、火葬まで慌ただしく、その後も実家のレンタルベットなどの回収、片付け、不用品の見積もり、粗大ゴミ…  まだまだ終わらない。


実家と姉の病棟を往復しながら、毎日時間に追われ、休む間もなく動いていた。


そして、3日前に私はぎっくり腰で動けなくなった😢 きっかけは整形外科で受けたリハビリだと思う。


私は骨粗しょう症の薬ビタミンDのエディロールを3年前から飲んでて、薬が切れてたため、新宿についで処方してもらおうと整形外科へ。


採血と尿検査をして体のことを聞かれた。「腰が時々痛くなりそうで、マッサージに行きたいと思っている」そう話したら「時間があるなら、今日リハビリ受けていく?」と言われたため、受けることにした。



腰痛がどんな時に出るのかなど、問診を受け、うつぶせになって腰を反らして伸ばす動きと、立ったまま、後ろに反らす動きを教えてもらい、1日5回やってくださいと言われた。理にかなった動きだと思う。


ただ、私の心身は既に悲鳴をあげていたから、いきなり腰を反らす動きをしたことが、負荷になったと思っている。翌朝、左の背中がまっすぐ伸びたまま固まったような感覚があった。それでも予防になるのかなと思って、朝から腰を反らした。固まった感覚は時間とともに消えた。


その日は、姉のことで駒込病院へ面談に行き、姉に頼まれた水彩、絵の具などを世界堂へ買いに行った。そして、チャリで病棟へ行き、姉を外出させ、車椅子を押し坂道をこなし、次女くんと一緒に食事をしてまたチャリで長距離を走って帰宅。


なんでもなかったのに、翌朝、起きたら腰にきた。家事をして、チャリで駅近くまできて、動けなくなった。そこで諦めて帰ればいいのに、チャリを置いてUberで姉の病棟に向かったものの歩けず、次女くん呼んで車椅子に乗る始末。そのまま姉のベットで夜まで休ませてもらい、次女くんと帰った。



わたしの腰の話しになってしまった🥹🙇‍♀️



ここから、母の話し



母は、実家でデイサービスのお迎えを待ってる時、姉がベットから足をおろした座位にして、目を離した隙に転落した。


それがきっかけで、誤嚥性肺炎が分かり、入院した。入院してから手に力が入らなくなった。



退院してうちに来たものの、1週間で尿路感染になり、また入院。



退院前の「1拠点問題」から、小規模多機能に期待し退院した。


小多機と訪看事業所の代表である訪看さんと、そこのケアマネさんによる新たな体制が始まり、訪看が毎日入り、バルーンにもなった。



この退院を堺に、母は寝たきりになった。



自分で身体を動かすことができず、毎日、誰かに体を動かしてもらう生活になった。姉は介護に限界がきていて、そんな母に暴言を吐いてしまうこともあった。



そして、姉が入院してからは、母を1人にする時間も多くなった。


どれほど辛い数ヶ月だったろう。それでも母は、「大丈夫」と言った。そして、笑顔になった。


わたしは母を、神さまのように思う。



「みつ、ババと会えたかい?」



2年前、光来が急変したあとの動画を見返した。



画面の中の私は、残酷な現実を前に、「みっちゃん、ママだよ」「ママいるよ」「がんばって」と、何度もなんども同じ言葉を繰り返していた。


なんで、あの時、こんな言葉しかかけてあげられなかったんだろう。


もっと言ってあげたかったし、もっと安心させてあげたかった。



今の私なら、こう声かける。「みっちゃん、ママだよ。もう大丈夫。ずっとそばにいるからね。」

「安心して。みつはたくさん頑張った。本当に偉かった。ママの誇りだよ。」



寝たきりの母には、想いを伝えることができたけど、ぜんぜん足りないな。もっと早くにうちに連れてきてたら…とも悔いる。



ババは、ジジやお母さんと会えたかな。 



「ありがとう」しかない。




⭐️アルバム7



よみうりランド みつが幼い頃、私の姉のことを「アッくん」って呼んでた。


元フジテレビの近くに住んでいた頃、長女と毎日、四谷3丁目の丸正にでた。カート乗せると喜んでた。


警戒心や怖がりだった。私の小学校からの友達のお父さんにも人見知り




新宿の玄海で食べた。七五三の日


四谷三丁目のアンパンマンショップよく立ち寄った。


仲之公園


ヤマハ音楽教室

何組かの親子と教室のあと、三栄町公園で遊んだり、ランチしたり。うちにもお友達が来てくれた。楽しかった。


ゆみ先生にはみつのこと相談し救われてた。


⭐️アルバム8


サンリオピューロランド


楽しくて遊んでても光来はお友達に神経使ってた。この頃、幼稚園から帰ると肩を痛がった。病院で脊椎空洞症の検査したけど問題なく、肩の痛みは原因不明だった。でも、痛がるのは、運動会の練習の日だったり、友達が来た日だったから、メンタルだと思った。





旅行とかで移動時、長女を抱っこしてると「ハルちゃんはいつも抱っこしてるんだからパパ(私の父)に抱っこしてもらいなさい」と母が言った。「ハルコのカバン持ってあげて〜」とも。


私も自分の子供が寝てると幼稚園や学校に遅れようが起こしたくなかったり、重いカバン持たれるのイヤなタチ。母譲りの甘やかし






小学校4年辺りまでは、杖歩行のリハビリ







軍手とレギンスの替えを用意し、汚れてもいいから自由に動いてもらいたくて、入院中、病室や病室の外の床をずり這いで動いた。


それを見た男の子が「ワニだ」と言うときや、看護師が「あら〜廊下を掃除してくれてるの」と言ったけど、全く気にしてなかった。私はみつにぴったりついてたから、そんなクソ声、みつにも聞こえなかった。


この非日常が充実感だった








⭐️アルバム9


幼稚園3年間担任、岡田先生と。


上智の帰国子女で、英会話の先生として来てもらってた。なんににもならんかった




サンリオピューロランドに姉と行ったり。


ヘリ




デパートの玩具売り場や人のいない本屋の奥、表参道のクレヨンハウスでもよく床におろしずり這いで遊んだ。


神宮のプール




写真は女子医大の仁志田教授、みつが生まれた時からみてもらってた。


ある時「脳外科だけはここより◯◯◯に変えた方がいい」と勧められ、受診したのが2歳の頃。まさか、最期がこんな結果とは。


初めての受診時、当時の院長であり脳外科教授から言われたこと忘れないわ。診察室をでて、看護師に話しかけられた時、自然に泣けたし。



そのあと、女子医大に行き、その話しをして「やっぱり日赤がいいかな~?」と言うと「どこへ行っても同じ」「変わった人で口は悪いけれど腕は確か」と言われた。


でも、既に歳とってて執刀はしてないから関係ないと思ったけど、言われるがまま転院した。


私がそんな気持ちで転院したせいか、半年後にみつはシャント不全→初耳だった第三脳室解放術→半年で閉じて私は反対したのにまた第三脳室開放術(教授の指示だわな)→半年後オペのループに。


日赤っていつも候補にあがるけど縁ない。


みつ他界前の2024年2月、脳外科を日赤にするって光来から言った。長女が幼い頃に、女子医大で私から、やっぱり日赤がいいかなって根拠なく言ったのとなんかリンクした。


長女他界後、次女くんのかかりつけを変更するのに、最初、日赤に行ったけど、結局、東京医大になったし。姉の緩和ケア病棟も日赤オジャンになったし。


園のお友達



2歳の頃、二分脊椎の会に入った。幼い頃は、オペのこと、就学の頃は、車椅子で普通校に通ってる子の情報が得たくて、名簿見てかけまくったもんだけど得られず。2023年に胸腔シャント術した時もなんも得られず。クリスマス会


おもてなし懸命


初めて車椅子オーダーしたのは幼稚園年中の頃


青山のイデーで偶然、カラフルで可愛い車椅子の展示をみて、そこに記載されてたパムックに電話した。


展示されてた車椅子は大人用しかなく購入出来なかったけど、朱赤のような赤いパイプに可能な限り塗ってもらい、カバーとか手作り、拘ってオーダーしたこの車椅子は気に入っていた。↓

(ディズニーホテル泊して2日間遊んだ時)


幼稚園の頃、お互いの家でよく遊んだ


よく利用してた曙橋のカメラ屋さん前


退院は嬉しいようで寂しかったね


入院生活は思い出いっぱい



当時、脳外科病棟、小児の部屋で母子入院できたからお友達と遊べた。



アルバム写真ここまで!



みっちゃんのbirthday


みつとママ いつでも一緒 離れられない関係 一心同体 愛してる💕


2026年 神宮外苑花火大会のラスト


姉と国立競技場 長女の車椅子使用




姉の誕生日を看護師さんたちがお祝いしてくれたヨ


姉が長女のベットを使ってたので、母はリビングにベットをレンタルしてた。ババ 目をあけて


またね!