昨日今日と、たぶん日本中でいろんな人がいろんな事を言ってるのだろうけど、先日の沢尻エリカ
の舞台挨拶での振る舞いはなかなかインパクトのある見モノだった。あそこまで直球で「不機嫌
」をさらけ出す大人というのも、昨今そうは見れないものである。
「エリカ様」だの「女王様」だのと呼ばれているようだが、きっと本人は自分のことを「~様」などと高く見積ったりはしていないだろう。ましてあの個性が、「芸能界でナメら
れないために」とか、「見聞集めのため戦略的キャラ作り」とか、そういう作為のあるディレクションによるものであるとも思えない。
ではあの舞台挨拶の一件をどう読み取ればよいのか?
答えはカンタン。
単に沢尻の「甘えん坊が露呈された一幕」だと、ボクは思う。
あーゆー風に自分の機嫌を何よりも優先させてしまう人って、たまにいる。度が過ぎるとハタ迷惑とか面倒くさいとかそういう感情を通り越して、ただただ「恥ずかしくないのかな?」と思う。きっと、そーゆーときの自分の態度が周囲にどんな影響を与えているのか、周囲にどう映っているのかにまで、考えが巡っていないのだろう。その了見の狭さこそ、まさしく「子供」であることの証拠だ。
自分の機嫌を優先して悪態をついて、時には誰かを傷つけて、それで自分の機嫌が直っちゃえば、また平気で自分は周囲に受け入れてもらえる存在なんだという、圧倒的な甘えの精神。
カンチガイするなよ。アンタの周りにいる人たちは、アンタの親兄弟じゃないんだ。他人様なんだよ。
今回の報道を受けて、沢尻の母上殿(リラさん)は一体どんな心持か?きっと「恥ずかしい」と思っていることだろう。
沢尻はその後ブログなどで謝罪のコメントを載せたらしいが、そんなことで今回の一件を棒引きにしてくれるほど世間は寛容でない。「どうせ事務所が今後の芸能活動への影響を考えてむりやり書かせたんだろう?っていうかホントに沢尻が書いたのか?」ってな程度に思われるのが関の山だ。染み付いたイメージを覆すのは容易でない。それが沢尻に回ってくるツケであり、自己責任ってことの意味だ。
自分の内的世界と外の世界とを隔てるのは、その人自身の想像力だという。この場合の想像力とは経験や教養によってのみ育くまれるもので、これが未熟であるということはつまり、その人がまだ「子供」であることの裏づけだ。子供だから甘える。そう、機嫌を丸出しにしちゃってる人ってのは、結局世間に甘えているのだ。想像力が未熟だから、世間への見立てが甘いのだ。だから周囲はそんな態度を見て「うわぁ恥ずかしい~」と感じるわけである。
世間は甘くない、いつでも自分の気分をさらけ出して通用するほど都合のいいようにできていない。それを教えてくれる大人が沢尻の周りにはいなかったのだろうか?しかしもういい年齢こいてるんだから、いいかげん自分で気がつかねばならないだろう。
多くの人々が愛するステキな俳優というのは、ルックスや芝居の上手い下手だけではなく、その向こう側に優れた人間性がうかがえる人、なんだと思う。
がんばれ、沢尻。