今日のニュースでもありましたが、


沖縄が本土復帰してもう50年になるんですね。


僕が初めて沖縄へ行ったのは、


ちょうど50年前の1972年9月でした。


当時僕は16歳でしたが、


母親の勧めで気がつけばPL教団日田教会にいました。


そして九州地区の青年部で船を貸し切り、


沖縄へ美化運動のボランティアへ行くというイベントに参加することになりました。


早朝に博多港を出発し、


割り当てられた部屋へ荷物を置くと、


直ぐに甲板へでて海を眺めていました。


僕等の部屋は一番下の船底に近かったので、


揺れも少なく上の階の部屋で船酔いするという人たちが僕等の部屋へ降りてきました。


夜になり、やがて朝を迎えると、


沖縄の港が見えてきました。


船から降りると、


迎えに来ていた十数台のバスにグループ毎に別れて乗りました。


その時のバスが、


※⬇こちらです。


しかし、

右から乗ると左ハンドルで、

走るのも右側通行でしたから、

何だかアメリカにでも来たような感じでした。

※⬇この写真は美化運動のメイン場所である首里城です。

赤丸で囲んであるのが当時の僕です。

9月だというのに暑くて、

もともと肌色の黒い僕が更に黒くなってます。(笑)

沖縄では初日にボランティア活動や、

市民会館だったかな?

沖縄民謡など沖縄の人たちの歓迎のイベントを楽しみました。

夜は一旦船で休み、

翌日はまた沖縄の嘉手納基地やひめゆり屋の塔?だったかな、

沖縄本島南端の悲惨な事件のあった馬所などの見学もありました。

沖縄での行事を終えての帰り、

当時はまだお土産を買うのに税関を通さなければならないということでしたが、

港で販売されていたパイナップルだけは税関を通さなくても良いということでした。

そして帰りの船の大ホールでは、

最後のイベントとして皆が集まり、

フォークソングをはじめ歌をはじめ様々なイベントが行われました。

その時僕は、

教会から持ち込んでいたリール式のテープレコーダーを準備して、

皆の歌声などを録音していました。

※しかしこの録音は後に、友達や皆が驚く恐怖のテープとなっていました。

※⬇帰りの船の甲板?というより屋根?での写真ですが、

あまりの暑さに僕の顔は真っ黒になっていました。

このあと船は、

熊本県八代市の三角港に着き、

そこからは地域ごとにバスで帰ることになりました。

今でもところどころ昨日の事のように、

ハッキリと思い出されます。

沖縄の本土復帰直後に行けたのも、

何か意味があるのでしょうね。

あれから50年も経っているんですね。

今後も沖縄の皆さんの健康と安全を願っております。