【ロマ書8章1-17節】

パウロは厳格なパリサイ派でしたが、主イエスの復活を信じることはできませんでした。ラザロは再び地上のいのちに戻りましたが、主は栄光の体をもって神の聖なる光の中へと蘇られました。その清さは、人間がどれほど宗教的悟りや修行を積んでも到底及ばない領域です。現代において復活が理解されにくいのも、全被造物が罪によってけがれ、霊のいのちと霊的視力を失い、神から断絶されているからです。罪のない天使セラフィムでさえ、神を直視することは許されず、目を翼で覆ったと記されています。

旧約時代には、何万頭もの羊の血が流されても完全な罪の贖いは成し遂げられず、幕屋の至聖所への道は厚い幕によって遮断されていました。聖なる神の御子の十字架の血だけが、その隔てを取り払ったのです。

パウロは反キリスト者でしたが、その贖いゆえに罪赦され、復活の主にまみえることを許されました。それは同時に、神の御霊が注がれ、死んでいた霊が生かされた瞬間でもありました。私たちも、生まれつきのいのちの清さだけで生きる限り、神の聖さに達することはできません。しかし、神の側から近づき、触れてくださることによって、その光の中へ招き入れられます。そして御霊が永遠の交わりのうちに、「アバ、父よ。御子イエスよ」と私たちの霊とともに語ってくださいます。

ジョン・ウェスレーもオックスフォード大学生の頃、几帳面(メソジストの語源)な生活で知られる聖書研究会に属していました。アメリカに渡りインディアンの人々に伝道しましたが、実りはありませんでした。船旅の途中でモラビアンの人々に出会い、その指導者から「聖霊による救いの確信がありますか」「御霊によってイエス様と深く交わり、その心を理解していますか」と問われ、戸惑いました。

その後、パウロのように「聖霊の原理」への道を歩み始めました。自分の精神力や善行がどれほど優れていても、それが被造物の光である限り、聖なる創造主のいのちと光には及ばないことを示されたのです。そして、自分に頼るのではなく、内住される聖霊なる神に頼り始めました。自分ではなく、聖霊が自分の霊とともに祈り、語り、戦い、働いておられることに目を留めたのです。

その息吹に信頼の翼を広げるとき、驚くべき力で引き上げられ、天の高み、至聖所で父と御子との交わりに入れられます。鷲は自力で舞い上がるのではありません。翼を広げ、上昇気流に押し上げられるのです。

神の子のうちには神の御霊のいのちが流れています。十字架から絶えず流れる神の赦しが川のように流れています。愛と喜び、癒しと救いの流れです。その恵みの川に心と身をゆだねましょう。神ご自身がその御力と栄光をあらわされます。

新聖歌420 雨を降り注ぎ