【コリント人への第一の手紙3章9-23】
10月31日は宗教改革記念日であり、1517年のこの日、ドイツのマルティン・ルターが「聖書のみ・信仰のみ・万人祭司」を掲げ、プロテスタント誕生の契機となったことを覚える日です。 ルターはカトリックの修道院で学び修業しましたが、心に真の平安を得ることができず、救いは人間の側の努力ではなく、神の御子の受肉とその十字架の贖いにあると、聖書を通して確信するに至りました。
これは、パウロがコリント教会で経験した問題とも共通します。そこでは「パウロ派」「アポロ派」といった人間への依存と誇りによる争いが起こっていました。マリヤ崇拝や聖人崇拝もまた、創造主のみを礼拝する活きた信仰を危うくするものでした。
旧約聖書は、まことの神が人となられることを予告し、新約聖書はその約束どおりに世に下り、十字架で血の贖いを成し遂げ、今も私たちとともに生きておられるお方を証言します。 キリストとは油注がれたメシア・救い主であり、聖霊なる神を宿す神の幕屋(神殿)です。そしてその御霊を、十字架の血による罪の清めを通して人間にも住まわせ、私たちを神の子としてくださったのです。内住の御霊は、父なる神と御子との永遠の交わりへと私たちを招き入れます。
また御霊は、預言者や使徒たちに人知を超えた知恵を与え、聖書を書かせました。新約聖書は、復活して生きておられるまことの神との出会いと交わりの中で記されました。ゆえに、真の著者である御霊に頼りつつ読むとき、み言葉は活きた言葉として理解されます。
幕屋は人間の型であり、至聖所・聖所・大庭はそれぞれ霊・心・体に相当します。これはあくまで被造物ですが、霊に創造主である御霊が住まわれることによって、無限の価値と永遠の輝きを与えられます。自分のうちに神が住まわれるという、まさに奇跡です。
それにもかかわらず、自分自身が神の宮とされ聖霊が住まわれているのに、なお人間的水準でしか自分を認識していないことが多くあります。御霊は創造主であり、「国と力と栄え」は限りなくこのお方から湧き出ます。神は、ご自身が正しく認められ賛美されるところで、霊から心へ、そして体へと満ちて力を現わされます。私たちはしばしば「神と人のために何かをしよう」と考えますが、神はむしろ私たちに仕えるために来られ、私たちのうちに住まわれました。主格である神が、私たちを通して御業をなされるのです。
日本はギリシャのヘレニズム思想に似て、祖霊信仰や仏教思想の影響を受けています。修行や悟りによって自己を高め成仏すると言います。しかし、どこまで行っても人間は人間です。器(うつわ)を磨いても、その中にいのちの宝がなければ真に輝くことはできません。 霊能者たちは自分の霊力ではネブカデネザル王の夢を解くことができませんでしたが、ダニエルは全知全能の創造主に祈り求め、主から答えを得ました。人のわざではなく、無尽蔵の神の恵みによって生かされたのです。神は実にご自身を与え、私たちの中で苦楽を共にされたいのです。遠く離れておられるのではなく、私たちのただ中に住まわれ、親しく語られるお方です。