【ルカ福音書2章1-21】
イスラエルにおける牧羊は、深い霊的意味を持っています。
アダムの次男アベルは羊飼いであり、最上の小羊を神に捧げました。アブラハム、イサク、ヤコブもまた羊飼いでした。パロ王の養子として育ったモーセも、ミデアンの野に逃れたのちの40年間を羊飼いとして過ごしました。
彼は天使を通して神と出会い、門とかもいに小羊の血を塗ってイスラエルを解放しました。十戒の啓示と幕屋建造の指示も、この時期に与えられたものです。
さらに、紀元前1000年にイスラエルを建国へと導くことになる若者ダビデは、人里離れた原野で羊を守るため、ライオンやクマと戦いました。彼は自分より強大な敵に神の名によって挑み、巨人ゴリアテを倒し、やがて王となります。
良い羊飼いは、一頭一頭に名前をつけて大切に育て、祭壇に捧げる務めを担っていました。
時には夜通し見張りをして羊を守らなければなりませんでした。小羊は民の罪を負って殺され、その流された贖いの血によってイスラエルが守られていたからです。
そのような羊飼いたちが、最初に飼い葉おけの中に眠るみどりごに出会いました。人の宿にさえ泊められず、家畜小屋で神の御子が誕生されたのです。
最底辺の羊飼いでさえ想像しない、人間以下の扱いを受ける家畜小屋が出産の場所となったとは、驚くべきことです。
そして、毎日毎夕、かわいい小羊を屠り場に送らなければならない羊飼いだからこそ、このお方がやがて人類の罪を負い、呪いを肩代わりするために来られたことを悟ることができたのでしょう。
主が飼い葉おけから十字架への道を歩まれたのは、まさに私たちの罪を負い、滅びから解放するためでした。主は私たちを救うために、神から最も遠いところ―罪と死、霊的暗黒の世界―に来られたのです
私たちはアダムの子孫であり、罪と滅びの霊であるサタンの支配から自力で脱出することは不可能でした。しかし、「すべての罪を取り除く主の贖いの血」によって清められ、そこから解放され、聖霊の支配へと移されます。神は私たちの責任を肩代わりし、完全に清算してくださいました。
御霊は私たちに神の永遠の命を与え、神の無尽蔵の富を約束されます。
神の子とされた者たちは「いと高きところ(至聖所)」(14節)で、父・御子・御霊の永遠の交わりに挙げられました。
さらに、御子の贖いの血は霊だけでなく、思い、生活、そして復活まで及びます。
祝福の霊である聖霊が触れてくださるからです。
この世の生活では、日々さまざまな問題に圧迫されます。特に人間関係においてはなおさらです。
それらはあまりにも重く、自分の能力を超えるものです。ですが、ダビデが自力を超えた問題に勝利したように、私たちも乗り越えることができます。
なぜなら、御霊が私たちの問題を肩代わりし、私たちに代わって戦い、働いてくださるからです。
試練は、私たちが主を見上げ、祈りによって御霊にゆだねるとき、神の業が現れる栄光の時へと変えられます。
神はご自身を私たちへのギフトとして与えたいと願っておられます。そして栄光を現したいのです。
この比類のない驚くべきプレゼントを心に迎え入れ、神の命の素晴らしさを味わってください。