これは9年前に書いた「聖なる目的」という本の一章節です。
「悟ってどうする」
とは、バカにしているのではなく、問いかけです。
悟った後どうしたいのか?
という意味です。
なぜこのようなことを書いたのかというと、悟りは目的ではないからです。
世の中には世俗的な生き方をやめ出家して悟るために修行をしている人がいます。
僕も出家こそはしませんでしたが、悟りたいと思って自分なりに瞑想などをしている時期がありました。
しかし、瞑想をして無の状態なるのが難しくて四苦八苦しているときに、たんぽぽおじさんにアドバイスをもらいに行きました。
たんぽぽおじさんはすぐに僕の意図を汲み取り
「何にも無くなって楽しいのか?楽しい方がいいんじゃないの?」
僕はその言葉でハッとしました。
僕が悟りたいと思っていたのは、何をやっても上手くいかない人生にうんざりして、もう世俗的な喜びはいらない、悟って精神的な世界に生きたいと思ったからでした。
そう、つまり悟りたいのではなく、人生が楽しくないと思っていたので世捨て人になろうと思ったのです。
悟る事で世俗的なくらしが貧しくても心は豊かで至福の状態になれると思っていたのです。
つまり、悟りたいのではなく幸せになりたいがために悟りを目指していたのです。
僕が常々言っている、人生の目的は「幸せを経験すること」というのは、この時に気づきました。
その目的のために手段として悟りを目指していたのですが、目的は幸せを経験することですので、悟りの他にも手段はあるのです。
悟りとは目的ではなく手段です。
しかし、いつの間にか手段が目的になってしまい、悟るために死ぬような修行をしている人も世の中には沢山います。
目的から外れてしまうとどんなに偉い修行人でも道を外して迷子になってしまいます。
しかし、世の中にはそうでもしないと辛すぎて生きていけない人が多いのも事実です。
僕もそんな人生から逃げ出したくて悟りを目指していました。
しかし、たんぽぽおじさんのアドバイスで、手段は他にもあるんだと気がつきました。
世俗的な生き方をしている人と、悟りの世界にいる人は次元が違います。
悟りの世界に生きている人は高次元の世界を生きています。
しかし、低次元で生きている人も高次元で生きている人も、人生の目的は同じです。
「幸せを経験すること」
そのための手段が違うだけで、目的は変わりませんが手段は自分の意思で選択することができるのです。
低次元だろうが高次元だろうが、その手段が楽しいかどうかが問題です。
時と共に人の価値観も変わるのです。
僕が小学生の頃は、ビー玉遊びが流行っていました。僕は心底ビー玉を楽しんでいました。
大人からするとたかがガラスの玉ですが、子供の頃はそれが宝物でした。
しかし、中学生になるとビー玉への興味はなくなり、スポーツに夢中になりました。
そして思春期には異性に対する気持ちが強くなりました。
高校生になってもビー玉に夢中になっている人はいません。
もう喜びを感じる手段が変わってしまったからです。
大人になってからも価値観は変わり続けました。若い頃はお酒を飲みに行くのが楽しくて毎週土曜日には飲みに出かけていました。
本当に楽しかったのです。
その後、精神世界に入ってからはあまり興味がなくなりました。
それでも、昔を思い出して楽しくなると思い飲みに出かけたこともありました。
しかし、全然楽しくならない事に気がつきました。
昔みたいに心の底から楽しくなれないのです。
昔みたいにビー玉で遊んだらドキドキするような楽しい気持ちになれるかと思ってもなれないのです。
それでもビー玉を続けているような人が世の中には沢山います。
僕にとっては、悟りもビー玉のようなものです。悟りを目指すという事に心がときめかないのです。
悟りたければ悟ればいいんじゃない?
で、どうしたいの?
と思ってしまうのです。
僕の妻は悟りを目指して瞑想していました。
楽しそうなので、僕は何も言いませんでした。
悟るかどうかよりも楽しいかどうかが大切だからです。
しかし、僕は心の中で思っていました。
(悟ってどうするんだろう?)
目的は悟る事ではなく、その先にある幸せを経験することだからです。
しかし妻の場合には複雑な事情があり、通常の人と違い特殊な能力に悩まされていたので僕の理解の範疇を超えていました。
この世の中の悩みや問題なら、僕はいくらでもアドバイスできますが、妻の場合は霊性が高いゆえの悩みでした。
大袈裟に言うと映画になりそうな能力です。
街を歩いていても、誰かの心の叫びが聞こえてその状態を感じてしまうのでその人を助けてあげたい衝動にかられるのです。
または、どこからともなく世の中を良くするためにやらなければならない事を感じてしまったり、意味もなく神様に動かされたり、
「神様の言う事なんて聞かなくていいんだよ、ただ言ってるだけなんだから放っとけよ」
と僕が言っても、放っておけないのが妻の真面目な性格ゆえの悩みでした。
僕なら「ハイハイ」と言って忘れるのですが、妻は忘れる事ができないのです。
前世での神様との約束まで思い出して、その約束を果たそうとするので、見ていて辛いのですが僕には止められません。
それで、彼女が唯一幸せを経験するための手段は悟りしかないのかなぁと思っていました。
だから、僕は彼女が悟るのを応援しようと思っていたのです。
僕は悟りには興味がないのでアドバイスはできませんが、悟るための瞑想会やセミナーなどに参加するための援助をしようと思いました。
しかし、あまりにも辛そうなので話を聞いてみると、そこで学んでいる人やその団体の人とのやり取りでモヤモヤしていると言っていました。
僕はいつものように
「モヤモヤしてるだけだよ、それはそれ、でも悟りたいんだったら頑張ったらいいんじゃない」
と言いましたが、妻の場合は現実の出来事だけではなく、その人の過去性の因縁まで見えてくるので、ただ事ではないのです。
「因縁は確かにあるかもしれないけど、それは過去の話で今世では関係ないよ、あぁあの人は前世で繋がってたんだ。というだけ、だからと言って今世で繋がらなくてもいいんだよ」
そう言っても妻は納得しませんでした。
妻にとって、前世も今世もなく、未来さえも一つにしか見えないので、過去、現在、未来という一つの世界に生きているからです。
また、過去世だけでなく、違う世界、いわゆるパラレルワールドさえ一つの世界として見ているため、かなりの情報過多になり、コンピュータがショートしそうな日々を常に生きているのです。
普通の人のように何も感じなくなりたい、普通の人のように無知の世界で幸せにくらしたい。
それが妻の夢でした。
しかし、入ってくる情報を止める術はなく、入ってこなくするのではなく、入ってきても気にならない悟りの世界に行くしかないと思っていました。
悟ってしまえば、会社の電話をとって相手の苦痛が聞こえても自分は穏やかでいられるからです。
しかし、相手も自分も無い妻にとっては相手の苦痛は自分の苦痛でしかないので、自分がその苦痛を我慢するしかないのです。
僕もお手上げで、悟るしか道はないと思っていたのですが、その悟りへの道があまりにも苦しそうなので、思わず
「悟ってどうするの?」
と尋ねました。
いつものことなので、自分の状態を話していかに苦しいかを説明をはじめました。
僕は黙って聞くしかなく、話を聞いていました。
少しでも気が楽になればいいなと思っていました。
気を逸らすためにいろんな話題を振りました。
僕は妻の母親がすきです。
妻の母親は、宗教団体さえも乗り換えて自分の人生を良くするための道具として扱っているからです。
妻の母親にとって、宗教団体はただの便利屋なのです。
自分の都合の良いことを手伝ってくれる宗教団体にはすぐに入信しますが、役に立たなくなると別の便利屋を探して、そこに入信します。
簡単に宗教を乗り換えるのです。
いろんな宗教の使える部分だけを利用しているのです。
「思し召しより米のメシ」
の方が大切なのを知っているのです。
人は神の愛によって生かされています。
しかし、身体は食べ物によって生かされているのです。
どんなに愛があっても、植木鉢に水をやらなければ花は枯れます。
愛なんて慌てなくても無くなることはありません。人は愛そのものなのです。
愛じゃないと思っている人だけが愛を求めます。愛の人は愛を求めません。
なぜなら、愛だからです。
そのことを妻の母親は知っています。
僕も同じなのでよく理解できます。
いつか、妻の母親と酔うまでビールを飲んでみたい。
そんな話をした時に、妻は何かを思い出して泣きはじめました。
「本当は…」
「本当はお母さんに幸せになってもらいたい。それが私の幸せだから」
僕は言いました。
「やっと思い出したね。それが目的だよ、母親の幸せが自分の幸せ、つまり自分が幸せを感じるためには、母親の幸せを祈ること、悟りは一つの手段であって、手段は他にもあるんだよ」
妻の母親は、娘のことを思ってるとはいえ、斬新なやり方で逆に妻を苦しめてきました。
それこそ、毒親だったのです。
自分の方法を妻に押し付け、それが娘のためだと思っていたのです。
妻はそこから抜け出したくて闘ってきた人生でしたが、憎いと思っていた母親の幸せが唯一の妻の幸せだったのです。
現実的にできるかどうかではなく、その想い、その目的を思い出すことが大切なのです。
人生の目的は幸せを経験すること
これが聖なる目的です。
目的は達成するものではなく、永遠に続くものなのです。
そのための手段はいくつもあり、どれを選ぶかであなたの人生のドラマが作られるのです。
手段としてお金を求める
手段として愛を求める
手段として悟りを求める
手段に良し悪しはありません。
大事なのは、目的のための手段だと分かっているのか、手段が目的になっていないかということです。
目的を忘れてしまうと、迷える子羊になってしまい、羊飼いを探してついていくしかなくなるのです。
あなたはどの羊飼いについて行っていますか?
国という羊飼いですか?
宗教という羊飼いですか?
会社という羊飼いですか?
あなたの目的は…