タイトルだけ見ると、ちょっと過激に見えるね。

それなりに重みのある内容になっていて、読み手によっては過激に感じるかもしれない。

何かを唱えるようなものではなく、自分が感じる「死の意義」を考察したものなので、反発も共感もいらない

 

 

日本では第二次世界大戦終戦まで死に対する美学が存在した。

死に意義を持たせるわけだが、意義を持たせることは世界においても遺族の思いも含めて自然な発露だ。

日本だけが特異なわけではない。

 

また、自殺者についても、日本が特異と言えるほど多いわけでもない。

 

世界的に悲惨な無差別殺人も発生しており、たいていは死にたくて死刑か射殺される前提で犯行に及ぶ。

これも一種の自殺と捉えることができる。

 

こういった研究は深くなされていて、ここで何をか主張したいのではない。

 

 

人は、誰もが"死に場所"を求めているのではないだろうか。

 

例外はあるにせよ、誰もが死や生に対して意義を見出そうともがいている。

 

日本では戦国時代から死の美学が存在し、切腹という自殺を崇高なものとしていた。

世界的には家族や国のために死も厭わず戦う戦争があった。

戦国/戦争時代にはどのような死に方においても意義があった。

 

では、平和な時代ではどうだろうか?

死の現実は遠のき、特に日本では犯罪率の低さもあって縁のないものと捉えがちだ。

それこそが平和の証だが、死にたい者にとって得難い状況にある。

 

死にたい者ほど、自分の死や生に対して意義を見出そうと、もっと、もがいているはずだ。

 

でも、意義を見出せず生を閉ざす道を選ぶのだから、せめて死の意義を与えたい。

 

で、自殺ではその意義を伝えることができない。

じゃあ、誰かのために戦死する意義をと思うが、そんな機会はない。

となれば、世間に自分を知らしめて”存在”したという意義を与えるために無差別殺人に及ぶ。

だが、多くの者が他人を犠牲にできないと感じているから、自殺する道を選ぶ。

 

戦いを肯定なんてしない。

でも、戦いは平和を取り戻すという意義のある”死に場所”として機能していた。

いつの時代も生に意義を見出せない者はいて、自暴自棄なったとしても、戦いがあればそれを意義のある死に変えることができた。

戦いは、死にたい者には絶好の機会だが、生きたい者には逃れたいもので、どちらの家族も避けたいと考えるものだ。

死にたい者には申し訳ないが、本人だけのことではなくなるので、やはり戦いを肯定なんてできない。

 

無差別殺人なんてもっと肯定できない。

世間に自分を知らしめるなんて、ただの自己顕示欲にしかすぎない。

マスコミも扇動的に恐怖や無意味さを煽るが、本人にとっては昇天するほどの自己顕示欲を手に入れる手段にしかなっていない。

死にたい思いより目立ちたい思いのほうが強い場合に行動に及ぶのだろう。

平和であることが、平和を破壊することで、目立つ機会になっているとも言える。

 

 

自分も死に場所を考えることがある。

ちょっとだけ「家族のために戦おう」なんて思ったことはある。

生の意義なんて見出せているわけでもない。

でも、死の意義を探すより、生の意義を探し続けているほうが”意義”がある。

だから、平和を望み、もがき苦しみながらも生き続けている。

 

死んだら意義を探せなくなるもんね。えー

 

そして必ず訪れる死の意義は「生き続けた」ことにしようかと。

 

「死に場所」は自分の頭の中で良いんじゃない?

生きている限り、死に場所が存在するわけだしね。てへぺろ