私たちは日々、「共感」という言葉を当たり前のように使っている。
辞書を引けばその意味はすぐに分かるが、果たして私たちは本当に「共感」の正体を理解しているか?
結論から言えば、「共感した」という実感も、「共感してくれた」という喜びも、実はどちらも思い込みに過ぎないのかもしれない。
しかし、それは決して悲しいことではない。
たとえ思い込みであったとしても、それによって心が満たされ、救われる人がいるのもまた事実だからだ。
「どうやって相手を理解しようとするか」という方法は人それぞれだ。
・自分に当てはめてみる
・自分の価値観をベースに紐解く
・相手の背景(境遇や性格)を考慮し、自分ならどう思うかを想像する
・相手の立場に立ってみる
・相手の視点になりきって考えようとする
アプローチは違えど、誰もが「分かり合えない溝」を埋めようと必死だ。
私たちが「この人は分かってくれている」と感じる時、その基準は相手の真意ではなく、自分の主観に委ねられていないか?
・振る舞いや相槌に左右されていないか?
ただ相槌が上手いだけで「共感してくれた」と満足し、逆に相槌が下手なだけで「冷たい」と判断してはいないか?
・「共感」を強要していないか?
深刻な時ほど、相手に同意を求めてしまい、ただ自分の憂さを晴らしたいだけなのに、それを「共感してほしい」という言葉にすり替えてはいないか?
・相手が顔色を伺って満足させるだけの「おもねり」を、「共感」と呼んで流してしまっていないか?
「共感し合えば、争いはなくなる」という意見がある。
もし、共感が主観に委ねられていたら、「共感し合う」という前提が成り立つのか?
「共感力が高い人」は、「共感できない人」の気持ちには共感できるのか?
もし、共感力が高いはずの人が「共感できない人間」を否定してしまったら、それは大きな矛盾だ。
いっそ「共感なんてしなくてもいい」と考えてみてはどうだろう?
自分と相手は、考え方が違って当たり前。
「同じ」になることを目指すのではなく、「違っていること」をそのまま尊重する。
相手がどんな考えでも認め、同時に自分の考えも認めてもらう。
無理に「分かる」と嘘をつくよりも、その方がずっと誠実で、穏やかな関係を築けるのでは?
「分からない」という前提に立ち、相手をそのまま尊重する勇気を持とう。