最愛の恩師に捧ぐ。 | 光永亮太オフィシャルブログ「雨のち晴れ」Powered by Ameba

最愛の恩師に捧ぐ。

人生の中で、良き「師」に巡り会えることはそう多くはありません。

でも幸運な事に、僕にはかけがえのない最愛の「師」がいます。







その「師」とは今からちょうど19年前に出逢いました。

当時中学1年生。
僕がサッカーに打ち込んでいた頃。


陸上部の顧問だった先生は、放課後に僕を呼び出しては、
「陸上部に入部しないか」と何度も声を掛けられました。


「いまはサッカーで忙しいので...」



素っ気ない返事を返す度に、先生は寂しそうな顔を浮かべては
また職員室へと戻っていきました。


そんなある日、またいつものように先生に呼び止められました。



「おい光永、サッカーの練習が休みの時だけでもいい。
 一度練習に参加してみないか?」


あまりの熱心さに負け、その時は嫌々ながら練習に参加する事に。

その練習を機に、入部を断れなくなってしまった僕は、
サッカーの練習が無い日だけ陸上部の練習に参加する
という条件付きで、陸上部に入部することになりました。

それからサッカーと陸上、二足のわらじを履く生活が始まりました。


もちろん両立はキツかった。
ただでさえサッカーの練習でヘトヘトなのに、
唯一の休みには陸上部で走り込み。

僕らの陸上部は練習が厳しいことで有名で、
東京の中では最も練習量が多い学校と言われていました。




そんな中、所属していたジェフ市原Jr.ユースからの解雇通告。


ここでサッカーをやめて陸上に専念することもできたけど、
まだサッカーへの想いを捨てきれなかった僕は、
三菱養和というサッカークラブのトライアウトを受け合格。

僕は迷わず三菱養和に入団。
この時中学2年生。

以前と変わらず、サッカーに重きを置きながら、
休みの日には陸上部の練習に参加。

午前中に陸上の練習に出て、午後からサッカーの試合に出る。
そんなこともやってのけました。笑




そんなある日のこと。

サッカーの試合がなかったため、陸上の試合に初めて出る事に。
会場は駒沢オリンピック競技場。
その時出場したのは4×100mリレーでした。


この時、いい結果を出せたことと、
スタート前のあの独特の緊張感を味わった事で、
自分の心の中で少しずつ変化が生まれてきます。

もしかしたら陸上って物凄く楽しいかもしれないぞ、と。


気づけば心の中は陸上に傾倒していきました。


そして先生に運命の言葉を掛けられます。









「光永、俺についてくれば必ず全国チャンピオンになれるぞ」






この言葉を機にサッカーから陸上に転向することにしました。



先生を信じてみよう。
サッカーに傾けてきた情熱すべてを陸上に注ごうと。


僕の運命が大きく変わった日でした。



そこからは地獄の練習の日々。

陸上部の厳しい練習についていくのもやっと。
とてもじゃないけど、強いと呼べる程の選手ではありませんでした。



その後厳しい練習に耐え続け、迎えた中学最後の年。


冬の練習で追い込み、心身共に鍛え上げられた自分がいました。
気づけば出場する大会で連戦連勝。
先生の指導のもと、徐々に練習の成果が表れはじめていたのです。





そして迎えた全国大会。
(※その時の様子はこちら
 








先生と二人三脚で掴んだ全国制覇。



鬼と恐れられていた先生が、僕を抱き寄せて流した涙を
今でも忘れる事ができません。


先生を慕い、信じてついてきて良かった。

すべての努力が報われた瞬間でした。






その後、高校に進学し陸上部に入部したものの、
歌手になりたいという幼き頃からの夢を捨てきれなかった僕は
半年で退部。

その時の先生の寂しそうな顔もまた忘れることができません。


先生は僕にオリンピック選手になって欲しかったのだと思います。
その想いが痛いほど伝わってきて、本当に苦しかった。

期待を裏切るというのは時に苦しいものです。

でも僕は反対を押し切ってしまった。

夢と期待の狭間で揺れ、悩み抜いた結果、
自分の気持ちに嘘をつくことはできなかったのです。



そこから先生に合わせる顔がありませんでした。



密接な師弟関係にあった僕らも、
気づけば次第に疎遠になっていました。















そして遂にデビューを果たした矢先。
bayfmさんの番組に出演中、
思いがけないサプライズがありました。

それは先生からのお祝いコメントでした。


自分が叶えた夢をようやく認めてもらえた気がして
本当に本当に嬉しかった。

あの時の事は今でも胸に焼き付いています。










時は経って2009年。


思い切って先生に1本電話を入れました。
先生が教えている学校の陸上部の練習にお邪魔させて下さいと。
(※その時の様子はこちら



久しぶりに会う恩師の姿。
本当にお元気そうで、物凄く嬉しかったのを覚えています。


その後も、離れていた時間を埋めるように、
先生とのお付き合いは続きました。

そんなに頻繁にお会いする事はできなかったけど、
節目節目でお会いすることができました。

昔話なんかもよくしました。



















その先生が2012年10月2日、帰らぬ人となりました。
享年55歳。



今日、最後のお別れをしてきました。
先生に心の底からお礼を言う為に。


会場には長蛇の列ができていました。
数えきれない程の人数。

すべては先生の人徳なのだなと、改めて偉大さに気づかされました。


そして。




斎場の入り口には、僕と先生のツーショットの写真が飾られていました。
全国大会で優勝した直後に、ふたりで記念に撮ったものでした。


娘さんにお話を伺うと、

「父はね、この写真をずっと家に飾っていたんですよ。
 だから、この写真を飾ってもらうように真っ先にお願いしたんです。」






涙が止まりませんでした。





僕が先生のことを大事に思っていたように、
先生も僕の事を大事に思っていてくれたんだな。


そう思うと、とにかく涙が止まらなかった。




今でも正直、心の整理がついていません。

僕にとって唯一無二の恩師。
かけがえのない恩師。



まだなんも恩返しできてないのに...。








先生、こんな僕で本当にすいません。
もっともっと活躍しているところをお見せしたかった。
そして先生が元気なうちに、もっとお酒を酌み交わしたかった。
先生、本当に本当にすいません。

今の僕がいるのは他でもない、あなたのおかげです。
あなたに教わった事すべてが、今の僕の糧となっています。

先生にはたくさん叱られました。
先生に殴られたこともありました。

でもそれ以上にたくさん褒めてもらいました。
たくさん一緒に笑いあい、同じ時間を共有しました。


「やればできる」。

あなたは口癖のようにいつもそう仰っていました。

大人になればなるほど臆病になり、気がつけば
できないことの理由を探す事の方が増えていました。


いま一度先生の言葉を噛み締めようと思います。


最後に。


先生、本当にお疲れさまでした。
先生とのご縁は、僕の人生に於いての宝物です。
ここでは語り尽くせない程の想いと感謝があります。
いつか僕がそっちに行ったら、
直接その想いを伝えさせて下さい。
そしてお酒を傾けながら昔話に花を咲かせましょう。

その日までどうか安らかにお眠り下さい。



大塚秀世先生との良き思い出と
心の底からの感謝をここに記します。


光永亮太


photo:01




photo:02