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おたより、頂きました。
イツキヒロシさん
「みつろうさん、昨日までのゼッタイシンさまを読んで、
深いことに気付けました。
要するに、自力なんて無かった。
全ては、他力の中に生きていた。
いやー、気付けて良かった。
危うく、南無阿弥陀仏を毎晩唱えるところでしたよ。」
他にも、
「他力しかないと言うことに気付くための南無阿弥陀仏だから、
気付けた後は、もう唱える必要もないですよね」
どうだろう?
「自力なんて無い」ということの意味は、
「私が何かをやり遂げた」ことなんてないと言うこと。
ということは、「わたしが理解しきったぜ」
ある偉いお坊さんが、
「他力なんだから、理解し切れませんよ、
と言っている。
言い得て妙だろう。
あなたは、「もう念仏を唱える必要が無い」と断じたが、
それらの理解すらも飛び越えた場所に、
真の他力の境地、
あなたの結論が、結論になることは無いのだろう。
それが自力の消滅なのだから。
だから、結局、
念仏を唱えるのを辞める必要はまったく無いと思う。
むしろ、あなたのような人なら、
そもそも、親鸞の教えは、「専修念仏」にある。
文字通り、念仏を唱えることに専念せいや!ってことである。
ジリキがタリキを超えるためには、
タリキシカないのだと気付けばウンヌンカンヌンとかよりも、
とにかく、座って、心を一点に集中して、
南無阿弥陀仏と唱え続けなさいというのが、専修念仏。
あなたが、理解し切ることが無い所に、極楽浄土があるのだから、
とにかく、南無阿弥陀仏。
信じる心さえあればいいのだから、
理解し切ることは絶対に無いはずである。
「理解したぞ」は自力を強化してしまいます。
それでも、どうしても、手につかむことが出来ない存在を、
一心不乱に信じるところに、他力が生じるのではなかろうか?
「助けてください阿弥陀さま、助けてください阿弥陀さま!」
と、祈り続ける姿勢と、
「他力の境地はわかりました」
と言い切る姿勢の、どちらに他力を感じるかである。
だから、もちろん、「そうか、祈るが答えだな。結論はそこだな。
も、真の他力とは言えないかもしれない。
他力を捕らえ切ろうとしてはいけないのだ。
みつろうは、阿弥陀の本願が既に成就しており、
よって、全ての人は、いま、
阿弥陀の野郎は、宇宙のトップのクセにまだ悟っていない、
の方が、なんか好き。
だから、結論なんて無いけど、
それらの全てをぶっ飛び越えて、
迷ったら即、南無阿弥陀仏と唱えまくる方が良いのだろう。
だって、アミちゃん言ってたじゃないか。
アミダ
「はぁ?
何をすればいいかだって?
だから、とにかく俺を信じろって!!
俺は、神さまの中の神さま、ゼッタイシンさまだぞ?
その俺が、一人残らず絶対に幸せにしてやると言ってるんだ!!
とにかく、絶対的に俺を信じればよい!!
何もしなくても、絶対にお前を救ってやる!!
宇宙のトップの俺が、それを保証する!
でも、みつろうとかいうくだらないブログで、
あーでもない、こーでもないと、理論で頭がいっぱいになって、
ゴチャゴチャ考えちゃうくらいなら、
私の名を呼びまくってみろ。
南無阿弥陀仏と10回でも唱えれば、
とにかく、俺を絶対的に信じろ!」
そうね。
念仏唱えていれば、ゴチャゴチャ考えなんて浮かばないしね。
とにかく、そういう感じ。
専修念仏とは、すべてをぶっ飛び越えて、とにかく唱えること。
あなたの理解よりもたぶん深い境地に至っていた、親鸞の教えです。
ナンマイダー
↓まず大事なのは、とにかく阿弥陀さまを信じろって部分ね。
これが、ほぼ99%ですな。
で、残りの1%は、阿弥陀をそれでも信じろって部分ね。
それらの理論全てをぶっ飛び越える、
専修念仏です。
とにかく、唱えろってね。
この世の最強のおまじない、六文字の念仏。
南無 阿弥陀 仏
ゴチャゴチャ考えるくらいなら、一心不乱に唱えてみてね。
↓今日は下の二つのボタンを押す際、
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