昨日は病院から出たら雨でそのまま濡れて帰りました。コンビニで傘買おうかと思いましたが、信号が長くて別方向へ。
帽子被ってコートは着ていたので大丈夫でした
光る君へ4/7の感想などを付け足しと道兼の7日関白についてなどです。
ドラマでの兼家パパの息子道兼に対する言いようはあんまりです。
一番たいへんな仕事をしたのに
花山法皇を出家させなければ
兼家の繁栄はなかったのに
なぜ兄の道隆が関白なのかと言う気持ちもわかる。
ドラマでは
兼家パパは人殺しのくせにとか
お前は一族の汚れ仕事をしていけ
とかそりゃ怒るよ
大鏡では道兼は喪に服さないうえに遊び戯れていたらしい。🌸しらべたら大鏡に下のようにありました
(父兼家の喪に服す期間、土殿などにおこもりにならず、暑さを口実に、御簾などをすっかり巻き上げて、御念踊もせず、しかるべき人々を呼び集めて、後撰集や古今集を広げて、興じたり、遊び戯れて、父のことを全くお嘆きになりませんでした。)
道兼は7日関白と言われています。
道隆は糖尿病の悪化で関白を息子伊周に譲りたかったけど、藤原詮子(一条天皇のお母様)が反対して道兼が関白になったのですが、疫病で亡くなりました。ホントに一週間ではなく10日くらいだったという説もありまして。
5/2に宣旨をうけて5/7に亡くなったのでキッチリ7日間という説も。
官位は亡くなったあとに
贈正一位、太政大臣にしてくださったとのことです。あまりにも短くてそうなったのかしら?
調べました。
贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)
あと実資の再婚相手は花山天皇の女御❨奥さま❩で、花山天皇寵愛は2ヶ月でした😢
婉子(つやこ)女王は源明子の姪です。実資はやがて婉子に先立たれその後は正妻は迎えなかったそうです。かしまし歴史でききました。まあ平安の男なので召人というか召使だったけどゴニョゴニョの仲になったりとかあったそうですが。
かつて花山天皇は美女の噂を聞くと娘が美女だって聞いた、くれってな感じだったそう。それで入内したとか。婉子はかなりの美女だったそうで欲しい殿方がいたらしい。実資は二人で争って勝ったそう。
ドラマでのイチャイチャぶりが楽しかった
道兼に戻ります
以下和楽より
道兼の7日関白
「やっと認められる時が来た」
長徳元(995)年5月2日、35歳になった道兼に関白の宣旨が下りました。
関白として初参内する日、道兼とその妻のために供をしたいと集まった人々は、身分の高い者から低い者まで数えきれないほどだったそう。
ところが道兼は内裏で体調を崩し、従者にすがるようにして帰宅すると、そのまま寝込んでしまいます。都では前年から疫病(天然痘)が大流行し、多くの人が命を落としていました。道兼の病状はみるみるうちに重くなっていき、関白就任から7日目の5月8日に息を引き取ってしまうのです。
宣旨は4/27で5/2はお礼に参内したという説もあります。また書いてしまいました。
実際のところ、道兼と道長の兄弟仲はどうだったのか。
歴史物語の『栄華物語』には、病に倒れた道兼を、弟の道長が熱心に看病したと記されています。
殿(道兼)が息を引き取ると、左大将殿(道長)は「悪い夢を見ているかのようだ」と申されて、袖で顔を隠された。とても仲の良いご兄弟で、病気がうつるおそれがあっても気にかけずにお世話をなさっていたというのに、悲しいことだ。
前(さきの)関白殿(道隆)が亡くなられた際には、弔問にも行かなかったというけれど……。
(『栄華物語』より)
道長と仲がよくなかったのは長兄の道隆のほうで、道兼とは仲の良い兄弟だったようですね。
ドラマでは逆ですね。
ほんとは道隆と仲が悪いから道長は定子が出家したあと定子に冷たく接したのかな。伊周と口論したりってことかな、なるほど🤔
もうひとつ、『大鏡』にある道兼が病に倒れた日のエピソードです。
右大臣だった藤原実資(さねすけ)がお祝いに駆けつけてくれたので、道兼は具合が悪いところ無理をして、御簾(みす)を下ろし横になったままで面会しました。実資にぜひとも、伝えたいことがあったのです。
「今まであなたに感謝することが沢山ありましたが、とるに足らない身である間はと、お礼を伝えることもしないままに来てしまいました。こうして関白になったからには、これからは公私につけてお返しをしていきたいと思います……」
これ読んで、私は感動しました恩に報いたいのですね。
ドラマほど道兼は悪くないのかなと思いました。
読んで下さってありがとうございます🩵🩷💖🙆💞💕💓🕺🕺🕺👯
4/8からちょっとずつ書きました。