大鏡は歴史物語で歴史書ではないので事実ではないことも書かれている。しかし!物語なので、面白いところがあるようです。道長の栄華までの王朝の歴史176年間を綴っています。

私が思ったのは道長が主役なのかな?

ならば道長優位に書いてるのかなと思いました。


寛和❨かんな❩の変

986(寛和2)年花山天皇が出家して花山法皇になった。


ユーチューブのかしまし歴史によると、天皇は神様ってことになってるから宗教違いの仏教で天皇が出家は非常にまずいとのこと。

せめて譲位して天皇からただの人になってから出家すべしと

そりゃそうねびっくりびっくり


花山天皇を道兼が出家させたことは大鏡にはっきりと兼家の陰謀!だと書いてある。道長にとって一族がライバルだからかなあと思いました。


私が気に入ったのは花山天皇が忯子の手紙を忘れたと言ったとき

兼道は嘘泣きをしたと爆笑

ドラマでは寺に運んだと嘘ついてましたが。

道兼が嘘泣きって🤣🤣


天皇を内裏から連れ出すなんて難しいミッションで、見張りを兼家がなんとかしないとできない話。

嘘泣きしてでも手紙を取りに帰るのを阻止しないと。


一緒に出家しようと言ってた道兼は父に今の姿を見せてからまた来ますって言って道兼は戻ってこなかった。

側近だった藤原義懐はもう天皇が代われば政治的に終わりだと思ったのか、花山天皇を天慶寺❨花山寺❩で出家した姿を見た時自分も出家すると決めました。本来なら10代の天皇なのでもっと活躍できるはずだったのにとワタシは思いますびっくり


そしてやがて兼家も道隆❨糖尿病の悪化❩も道兼❨疫病❩も亡くなって



道隆の息子伊周❨これちか❩が自己中でかなり他の貴族から反感を買っていた。

皆前例を大切にするが伊周流を貫き、道長と人前で激しい口論。

道長が人事権を握った 

内覧の宣旨を受けた


そんなときに

長徳の変が起こった。

長徳2❨996❩年

花山法皇が出家してから10年くらいですね🤔


長徳の変

花山法皇が伊周の通っている女❨3の君❩と同じ屋敷に住んでいる、別の女❨忯子の妹で4の君❩藤原儼子たけこの所へ通い出した。

伊周は自分の女の所へ通っていると勘違いしてジェラシー。

弟の隆家に相談する。

弟は花山法皇の牛車に弓矢を放ち花山法皇の袖を射抜いた😱


かしまし歴史によれば、じつは従者同士の小競り合いなので大したことではないとのこと。


私は花山法皇は道長に利用されたかなと思った。


むしろ花山法皇は道長から(いつからかは知らんけど)経済的援助を受けていたということなので

忯子の妹の藤原儼子を道長が花山法皇に薦めていたりして

伊周がお姉さんの所に通っているのを知っていて道長が薦めたりして?

違うかな?あらぬ妄想です🤔 


花山法皇は出家してるのに女のもとへ通ってるのはかなりカッコ悪い。

道長はめんどくさい伊周を片付けたのかな。

この事件で伊周も隆家も配流となった。


伊周の妹である定子は自分で髪を切って出家した。 

定子の私邸に伊周と隆家が隠れていた。皇后の私邸は調べられないと踏んだ。妹を巻き込まないという選択肢はなかったのか?検非違使は皇后の私邸を壊していく。隆家が捕まるのを目の当たりにして定子はショック。それで定子は自分で髪を切った。伊周は逃げた。でも結局捕まる。


一条天皇は定子大好きですから

定子のまわりのものも定子は出家してないって言ってると主張して、定子をはなしません。 

確かにお坊さんはいなくて自分で髪を切ったので、正式ではない気がします。




997年(長徳3年)、藤原道長の姉である「藤原詮子」(ふじわらのせんし/あきこ)の病が回復しないことから、「大赦」(たいしゃ:国家に吉凶があったときに刑罰の罪を許すこと)が発せられ、藤原伊周と藤原隆家は都に戻ります。




藤原 儼子(ふじわら の たけこ、? - 長和5年正月21日1016年3月8日))は、平安時代の女性。藤原為光の四女。母は藤原伊尹の娘四の君とも。

花山法皇の愛人で、法皇の死後、藤原妍子の女官となり、後に道長の妾となり出産のとき母子ともに命を落とした悲しい悲しい道長の妾ってビックリした。長徳の変から20年後に亡くなったのね。


読んで下さってありがとうございます✨🙋💕💖