1915年(大正4年)、谷崎は石川千代子と結婚した。
1921年(大正10年)頃谷崎は千代子の妹・せい子(『痴人の愛』のモデル。芸名葉山三千子)に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。
元々、わがままな女王様のような女が好みなのだと私は思う。谷崎は女王の下僕になりたいのだ。多分。痴人の愛を思い出すとそうに違いないと思った。
谷崎の友人・佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せた。
千代子は良妻賢母である。佐藤春夫は浮気されて離婚したという話だ。いい奥さんなのにほっといてからにムキームキームキーってことだと思う。谷崎が帰ると千代子と佐藤春夫がまるで夫婦のように食卓を囲んでいる。谷崎は「いい感じだから君ら一緒になったら?よく考えてみて」と言って、またでかけた。で、せい子チュー嫁の妹!に結婚しようと言ったら「何言ってんのよ。いろいろ感謝はしてるけど、それだけ」
え?一人になるのはイヤだ(推測です)あわてて帰ってあの話はなかったことにしてくれと。
これが「小田原事件」

(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は『この三つのもの』、谷崎は『神と人との間』を書いている)。

何年か後に妻を譲るとして約束したって説明もありました。でも千代子と佐藤春夫が二人で会っていたから谷崎大激怒です。自分に許可を取るのが筋だと。
へ?いついつ奥様に会わせてくださいって頼んだらOKするのかしら?

結局、1926年(大正15年)に佐藤と谷崎は和解、1930年(昭和5年)、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき、3人連名の「……我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、……素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候……」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった

翌1931年(昭和6年)、谷崎は、古川丁未子と結婚するが、1934年(昭和9年)10月に正式離婚。翌年1月、同棲を続けていた森田松子と結婚式を挙げた。

松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が『雪後庵夜話』に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。しかし戦時下に書かれた『初昔』によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない。

ウィキペディアからもすこし持ってきました。紺いろの文字は私の見解です。

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