やはり、腎臓だった。
その言葉しか生まれなかった。
ただ、腎臓病にも色々種類があるので
ステージとしてはどれくらい進んでしまっているのか。
それが、これからの課題です、とゆうようなことを言われた気がする。
もしかしたら、透析?など、なにか処置をすれば、治る可能性もあるみたいな…?
少し希望のようなことも言われた。
(いわゆる急性腎不全とゆう一時的に腎臓が機能してないだけのやつか???←あまり知識がなくてすまない)
だが、不思議なことに、なぜか私はこの時、
あまりそのことを期待していなかったような気がする。
それは、期待して自分が傷つくのが嫌だ、
どんなみつきも受け入れよう、とか、
なぜだかこの時点で、すでに思っていた。
それも悪い意味でネガティブになってるわけではなく、良い意味で。(このニュアンスは難しいし複雑な感情だったと思う)
それから、緊急対応係?のお医者さん、感染症関係のお医者さん、看護師さんの入院の説明だったり、いろんな人からいろんなことを質問されたりしながら時間が過ぎていった。
*****
そして、その日のうちにICUに面会まで行けるくらい、みつきの容態はとりあえず落ち着いた。
時間にすると覚えていないが22時とかだったと思う。
来たばっかりの時は他に人が居たが、4階の待合室エリアには4人だけになっていた。
そして、その日のうちに
また衝撃的なことを言われたのだったー。
この時に、旦那はついに、
自分の子供の容態が相当悪いことを
目の当たりにしてしまったー自覚せざるを得なかったー。それは、私もそうだった。
「おそらく、このまま腎機能は回復することはないでしょう」
まだ、結果は出ていないが、
おそらく、その可能性が高い、と。
先にお医者さんから言われてしまった。
旦那はその時、
初めて目から涙を2.3粒溢した。
私は、なぜだか泣けなかった。
分娩先のはじめの病院で異常と言われた時が、なぜか1番涙が止まらなかった。
なぜだろうか…?
どこかで覚悟があったからだろう。
やはり人間、前もって心構えがあるかないかで、期待しているかしていないかで、ずいぶん違うものだ。
きっと、旦那にとっては
この言葉が覚悟?とゆうか、はじめて現実として受け止めなければいけない事実としての、最初のきっかけだったんだろう。
それで、きっと涙が出たんだ。
*****
とりあえず、私たちはその日、帰ることになった。
父は車の中で
「きーは俺の孫だから大丈夫だ」
と、よくゆう言葉を発していた。
うちと旦那は先にもう回復の見込みがない可能性が高いと言われていたのだが、その時の父には言えなかった。
そして、うちはこの帰りの車の中である決心をした。
明るくなりたい、と。
それは、今までの自分の人生や性格を振り返ると、自分にとってはあまりにもかけ離れた性格だった。
ーだが、こんなありえない、信じられないような事実を叩きつけられたからこそ、自分は変わらないといけないと。
母親が暗かったら、きーちゃんも暗くなる。
それは絶対に嫌だ。
きーちゃんの人生の障害にこれ以上なりたくない。
だから、別に無理をしているわけではなくて、
いや、実際無理をしているのだろうが、それはもう無理をしてないと思うしかない明るさで、これから生きていこう、と。
私は自分から人に寄り添おうとしない消極的な人間だった。
だけど、これからは自分から積極的…に声をかけて、色んな人と関わろう。
私の友人に“つむちゃん”とゆう、
とても明るい子が居るのだが、その子のような明るい子になろう、と。
私は、つむちゃんの性格に憧れていのだと思う。
すごく自由で、ポジティブで、初対面の人ともすぐ話が出来て、友達もたくさん居て、
まさに人生エンジョイ勢‼︎と、ゆうような。
うちも、それくらいの明るさで
きーちゃんに接したいと思った。
『ママはいつも明るくて面白い。』
そう言われる、ママになりたいと思った。
ここまで、ここまで、
たった1日で、みつきには色んな意味で
自分を成長させてくれた。
自分を変えるきっかけをすでに貰っていた。
そりゃ、今すぐってわけにはいかない。
だけど、少しずつ、少しずつ、
…特に、きーちゃんはまだ生後2週間たらずで、まだ分からないだろうが(母親が明るいだの暗いだのが。でも、もしかしたら分かるのかもしれないが)
と、ゆってもきーちゃんの前では生後何ヶ月だろうと明るく接したいな、と。
とにかく、きーちゃんが自分の目の前にいるうちは、私は明るくしていたい。
それは、ある意味、病気と戦っているー。
病気とゆう事実に負けないようにー。