【倭人条】
倭人条を考える-4
中国古代史研究を行っている人達の意見を聞いてみた。「中国古代史での数値はあまりあてになりません」と口をそろえられる。魏の時代「10倍で書かれることがほとんどです」とのこと。魏の時代1里とは現在の450m程度こ距離を言うらしいが、倭人伝や、韓伝を読むに、大体1里50mくらいでないと現代の地理情報と合致しない。例えば、韓国の面積が「方4000里」と記述されているが、1里400mとするととても大きな面積になってしまい、とても韓国の面積に近いとは言えない。では、10倍が妥当な値なのかを検証する。およそ1里50mとするとのご意見をいただいた。確かに、釜山付近ー対馬、対馬ー壱岐の距離は、この1里50mに近い。
壱岐から1000里の「末盧國」は依然として比定に苦しんでいるところであるが、博多湾あたりとしても距離的には問題ない距離となる地点の候補だ。ここでは博多湾に「末盧國」があったと仮定してその後の行程を進んでみる。
さて、上陸地点から500里 25kmを歩く。博多湾から東南25kmは、現在でも平地で歩きやすい。「伊都国」と仮定されるのは、筑前町役場付近となる。
東南100里5kmに「奴国」さらに東100里5km に「不彌國」があるという。この通り進めば、「不彌國」は朝倉市役所付近である。問題は、その国々が抱える人口である。
末盧國有四千餘戸、伊都國有千餘戸、奴国有二萬餘戸、不彌國有千餘家で、特に奴国の2万戸の人口は大国といってよい。弥生時代の人口密度は、北部九州ではおよそ150人/100km2であったらしいので、そこから、各国の面積を求めると、なんと、ほぼ韓国に等しい。言うまでもないが、九州は韓国よりも、ずいぶん狭い土地である。距離5km以内に3か国が密集できるとは思えない。
うっかりしていた、そう、10倍で報告されている。そうだ、戸数も10倍されている。そこで、人口を修正して面積を求めると、3国は5km以内に収まる範囲であるし、奴国は筑紫平野の範囲内となる。2000戸であれば、筑紫平野の遺跡の分布を考えても、妥当な戸数だ。伊都国、不彌國の正確な位置はわからいながら、奴国の面積と戸数は筑紫平野と考えてよい。
邪馬台国は、ここからはるか遠くにある国で、「倭人伝」にも詳細が語られない国なのである。「女王國」は奴国、不彌國、伊都國の近く、もしくはその中にある。そして「女王」はそこに居る。
北部九州が、この時代の「倭国」であり、政治、外交の中心は「伊都国」。祭祀をつかさどる長が女王卑弥呼であり、女王は「奴国」内にある「女王國」の宮殿に居る。現在発見されている遺跡の中で、その居室として記述に一番近いのは吉野ケ里であろう。
「末盧國」の候補地を唐津市と仮定する。この場合、唐津沿岸ではなく、松原川をある程度上った場所で上陸する。ここから川沿いに東南に25km進む。小城市を過ぎたあたりに「伊都国」さらに東に進み、吉野ケ里付近で「不彌國」、「奴国」に相当する。筑紫平野が「奴国」である可能性はk非常に高い。また「自郡至女王國萬二千餘里」である地点はこの「奴国」内だ。女王國は確実に筑紫平野の中にある。
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