この世に、因果関係の法則があるのだとすれば、理屈は二つあり、一方がそうなのだろう。
 一つは、AすればAされる、BすればBされるという、厳密なシステムだ。もう一つは、怨念が関係しているもの。 

 それで、この世のその法則が、前者のものならば、『ヴォイニッチ手稿』の謎が解けることになる。

  前者のシステムで考えれば、動物性のものを摂れば、自身の身体からそれが取られることになる。それについては言及は避けさせていただきます。

  一方で、植物性のものを摂れば、同様に、自分の身体からそれが取られることになる。しかし、人間の身体は動物性のものなので、それは起きないことになる。 

 では、そのカルマは一体どこで、解消されるのか? それは、来世でなのだろう。

  その来世の世界は、この地球ではなく、『ヴォイニッチ手稿』で描かれた世界なのかもしれない。 

 『ヴォイニッチ手稿』の世界は、植物のほうが、人間よりも上位であるように見える。この地球上とは、真逆の世界観だ。

  そして、人間が植物から、養分を取られているような絵が、いくつも見受けられる。その人間たちは、なんだか温泉や健康ランドに来ているかのように、楽しそうに見えるのだが。 

 おそらく、この『ヴォイニッチ手稿』の世界で、人間の、草食やその他に関するカルマが全て解消されるのだろう。 

 つまり、地球とは、「肉食のカルマを解消するための場」で、『ヴォイニッチ手稿』の世界とは、「草食のカルマを解消するための場」なのだろう。

  『ヴォイニッチ手稿』の世界のあと、人間はどうなるのかといえば、解脱して、浄土へと向かうのだろう。あるいは、『旧約聖書』で描かれたあの楽園(エデン)へと帰るのだろう。それらは、精神宇宙(幽界より上の世界)と呼ばれる世界なのだろう。

  浄土も楽園も、罪穢れのない、清浄な世界だ。だから、『ヴォイニッチ手稿』で描かれた人間たちは、どこか嬉しそうなのだろう。次はその世界に行けるのだから。

  一つ気になるのは、『ヴォイニッチ手稿』の世界に、男性の姿が見当たらないことだ。女性ばかりしかいない。

  私はこれは、アイロニーなのではないか?と思っている。「皮肉」という意味合いのそれではなく、「反語」という意味合いのそれである。
 だとすれば、女性はあちらの世界へは行くことが難しいということなる。そして、男性は行くことが容易いということになる。

  なぜ、女性はあちらの世界へ行くことが難しいのか? 一方で、男性は行くことが容易いのか? これについても、言及は避けさせていただきます。ただ、理詰めで考えてみればわかります。

  ただし、女性があちらに行くことができないということはないのだろう。ヒントは、「ヴィーガニズム、あるいは献血」。 

 自分でこんなことを書いておいて何なのですが、こういうのは一つの考え方に過ぎません。一つの箱のなかにスッポリ収まってしまうのは大変危険ですので、ほかの箱――ほかの考え方と相対化させたほうがよろしいのでしょう。つまり俯瞰的に、この箱――この考え方を捉えてみたほうが。

  箱が一つしかなければ、視点はその箱のなかに囚われてしまうけれど、箱が二つ以上あれば、視点はそれらの箱の俯瞰に位置することになる。虫の視点から、鳥の視点となる。主観から、客観となる。

  たとえば、冒頭にも挙げた、「因果関係の法則は、怨念が関係しているのでは?」という考え方をしてみる。その考え方ならば、肉食ではカルマが発生するが、草食ではそれが発生しないことになる。動物には感情はあるが、植物にはそれがないからだ。 

 そのような考え方ならば、そもそも『ヴォイニッチ手稿』で描かれた世界はありえないことになる。絵空事ということになる。草食によるカルマはないということになるのだから。 

 余談ながら、場所によって、自分の考え方や意識が変わってくるなと思った。何かこういう思考の降りてきやすい場というのがあるのかもしれない。そのような考え方に囚われてしまいやすい場が。 

 だとすれば、そのような場からは出たほうが賢明なのかもしれない。そして、べつの場では、べつの考え方が降りてくるのだろう。