浦沢直樹の『MONSTER』に、「終わりの風景」という観念が出てくる。一種の、心象風景のようなものだ。
 それは、ニヒリズムやペシミズムが、可視化されたものなのだろう。
 私もかつて、それを見た。私もニヒリズムやペシミズムに、陥っていたからだ。私は離人症的だった。
 離人症とは、感情を何も感じられなくなる状態のことをいうが、私は絶望感を、感じたくはなかったが感じていた。世界には、構造しかないのだという。世界とは無なのだという——。
 言い換えれば、「生きることに意味はない」のだという。
 それを「大二病」だと笑い飛ばせる人ならいい。おそらく彼らは本当の意味で、それを体験したことがないのだろう。それを体験した人や、あるいはそこから回復した人は、そのような発言は決してできないはずだ。
 私は文学や、心理学の本、サイトを読み漁り、自分が離人症的なのかもしれないと思い至った。思い返してみれば、そのような状態になる心当たりがあった。私は手酷く失恋したのだった。
 そして、私はその現実に耐え切ることができずに、その感情を自らから切り離し、そのあとで、その記憶を切り離した。
 ある特定の感情や記憶を切り離すということは、他の感情や記憶をも切り離すということだ。
 今から思い返せば (その渦中にいるあいだは、そのことを認知できないものだ) 、私は線の状態から、点の存在になってしまった。心が、立体的なものから、平面的なものへと変わってしまった。そして主観的な世界から、重みが消えていた。
 哲学者のエリック・ホッファーが、自らのエゴ (と言ってもいいのだろう) のために、最愛の女性を捨てた。彼はその後、「歴史を失った」と語った。ホッファーもまた、その現実に耐えることができず、離人症的になったのだろう。記憶と感情とを、自らから切り離した。
 そしてホッファーは、その女性似の、男性と女性とに巡り会うことになり、そのたびに彼女のことを思い出さざるを得なくなる。それは神が、あるいは世界が、「そのことを思い出せ」と彼に仄めかしたのではないだろうか?

 私は離人症的な状態から、自らを回復させた。
 具体的にはまず、その切り離した記憶を意識化させ、そのあとでそれに伴う感情を意識化させた。私は、それらに真っ向から立ち向かった (そのような表現が的確だろう) 。
 そして、それらを受け入れた。私の目からは、村上春樹の小説の主人公・木野と同じように、暖かい涙が流れ落ちた。
 朝、アパートのベランダに出てみると、遠くから、風の音や、海鳴りのような音、電車の走る音が聞こえてきた。私はその音に、今の今まで気がつかなかったのだ。
 「そういえば、世界は美しかったんだ」と思った。大人になれば、その心の震えを、たとえば夏の夜の深さや、女の子を夢のように美しいと思う感性を失ってしまうものだと思い込んでいた。
 そんなことはなかったのだ。

 世界とは無であるし、生きることにも意味はないのだろう。それはきっと事実なのだろう。
 しかし、それは真実ではない。
 心理的に健全であれば、つまり離人症的でなければ、ニヒリズムやペシミズム、言い換えれば、あの「終わりの風景」に耐えられるものなのだ。
 というよりも、それが問題ではなくなる。暴風雨の日に、家のなかにいるようなものだ。もっと言えば、ハワイの青空の下で泳いでいるようなものだ。
 人間の身体が地球の重力に耐えられるように、人間の心は本来、世界の無に耐えられるようにできているのだろう。

 羊文学の「光るとき」の歌詞が、それらを全て物語っているようにも思える。

何回だって言うよ、世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
混沌の時代に、泥だらけの君のままで、輝きを見つめていて
悲しみに向かう夜も、揺るがずに光っていてよ

羊文学「光るとき」より