私は水野南北の著書の影響を受けているので、南北のお墓参りをしたいとかねてより思っていたのだが、調べてみたら、南北の墓は、新幹線や飛行機を使わなくてはならない距離にあったので、諦めた。

 その代わり、梅田神明宮という、南北の弟子の井上正鉄を祀る神社が、私の自宅の近くにあったので、そちらに参拝することにした。

 スマートフォンの制限がかかっていて、地図アプリを見られなかったので、通行人たちに道を教えてもらいながら、そこへと向かった。

 横断歩道で、信号待ちをしていたとき、私の背後で小学生の低学年と思しき男の子と女の子が、何やら話し込んでいた。そちらを振り向くと、男の子の手には、コンビニのサンドイッチがあった。話からして、どうも道端で拾ったものらしい。

 男の子は、歩道の茂みのなかに、そのサンドイッチを隠して、女の子と一緒にその場を去っていった。あとで回収してこっそり食べるつもりなのだろうか? そのときはまだ六月だったが、太陽の陽射しは強く、普通に夏日のような気候だった。私は、そのサンドイッチを回収し、どっかのコンビニのゴミ箱にでも捨てようと考えた。(徳を積むとか、そういうのではなく)

 通りに沿って南へと歩いていき、小道へと入っていった。

 その途中に小さなパン屋があったので、そこでパンをいくつかとマーマレードを買っていった。神社のなかででも食べようかと思った。

 梅田神明宮を見つけ、そこに入っていった。

 参拝をして、境内のなかのベンチに腰を下ろして、一休みしようとした。

 何か違和感を覚えた。何か間違ったことをしているような感覚だった。

 ベンチから立ち上がり、境内を散策してみると、神社のわきに小道があり、その先に小さな神社があった。そこが、井上正鉄が祀られている神社だったのだ。私はその神社にも参拝した。

 再び、さっきのベンチに座り、先ほど買ったパンを食べていたら、何か天から声が聞こえてきたような気がした。「お前さっき、水野南北の本の影響を受けてるとか言ってたくせに、何でここでパンなんか食べてるの? しかもそれ間食だろ」みたいな内容だった。

 「私は、小さな個人経営のお店では、積極的にものを買うようにしているのです。それが徳を積むことの一環になると考えるからです」と私は答えた。

 どうもそれで納得してもらえたらしく、それ以上その声が何かを咎めてくることはなかった。それが私の本音だったからだろう。私は引き続き、パンを食べた。

 カバンのなかに、さきほど回収したサンドイッチがあった。取り出して、消費期限を調べてみると、まだ食べられた。南北は、物を粗末にすることも咎めていて、かつ私の腹は満腹にはほど遠かった。私はそのサンドイッチの封を開け、それを食べた。ツナサンドで、ちょっと変な味がしたが、まぁ大丈夫だろう。せいぜい腹を下すくらいだ。




 井上正鉄も、師匠の水野南北同様、「一飯を捧げて、民衆を救う」という考え方の持ち主だったが、その神様を祀る神社への参拝の途中で、子どもが私のそばにサンドイッチを置いていったというのは、何か符号のようなものを感じないわけにはいかなかった (何を意味しているのかまでは、わからなかったが……) 。そんなこと、これまでの私の人生で一度も生じなかったことだからだ。私は、子どもというのは、神様の一部というか、その延長みたいなものだと思っている。

 ちなみにそのあと腹を下した、とかいうオチは特になかった。