私の青春時代は宇多田ヒカルの曲と、否応なく結びついている。店に入っても、TVを点けても、彼女の曲が流れていた。自宅では、父親が聴いていて、朝は「traveling」を目覚まし時計代わりに流していた。
宇多田ヒカルの曲は新しいな、と私は思っていた。そして次元が違うな、とも。子ども心ながらに。
当時は、宇多田ヒカルに対して「大人のお姉さん」という印象を抱いていたのだが、実はそんなに私と歳は変わらなかったりもする。彼女が十代のころ、私もまた十代だった。
子ども心ながらに、彼女の曲を聴いていると、自分がただの凡人に過ぎないという事実を突きつけられる思いがした。しかし、そこには嫉妬のようなネガティヴな感情はなく、私はただぼんやりと抽象的に、その事実を受け止めていた。ただ淡々と。
宇多田ヒカルの初期のベスト・アルバムを図書館で借りてきて、久しぶりにそれを聴いてみた。
そこには、私の思い出補正も確かにあったが、その感覚を飲み込んでしまうほどの、凄まじいパワーが溢れ出ていた。やはり圧倒的だった。痺れた。十代のころに聴いていたときよりも。
才能が迸っている、と聴きながら思った。「芸術は爆発だ」という岡本太郎の言葉が、私の脳裏を何度となくよぎった。その言葉はまさしく、宇多田ヒカルのためにあると感じた。しかも、その曲を作り、歌っていたのは、彼女が十代の後半から二十歳にかけてなのだ。やはり、彼女の曲を聴いていると、自分がただの凡人に過ぎないという事実を、改めて突きつけられるような思いがしてくる。言い換えるなら、いらない傲慢さが剥ぎ取られて、謙虚な気持ちにもなってくる。
これは私の印象に過ぎないのだけれど、ほかのアーティストたちの曲は、人間が作った人間界の曲という感覚がするのだが、宇多田ヒカルの曲は神が作った天上界の曲という感じがする。まるで、天上界で流れているような曲だと。宇多田はもしかしたら、宇宙から降りてくる曲をキャッチしているんじゃないだろうか?
私は音楽のことはあまり (というか全く) 知らないのだけれど、「宇多田ヒカルはアレンジャーではなくクリエイターなのだ」ということは、なんとなくだけどわかる。
これもやはり自分の印象に過ぎないのだが、J-POP界には、「宇多田以前・宇多田以後」という線引きがあるのではないだろうか? これも自分の印象だが、アニメ・漫画界に、「エヴァ以前・エヴァ以後」という線引きがあるように。『エヴァ』と宇多田ヒカルの親和性は、たぶんそこにもあるのかもしれない。
「私は私として生き、私にしかできないことをすればいい」と私は常々思っているのだが、宇多田ヒカルのような圧倒的才能を前にすると、どうしても悔しさというか、嫉妬の思いが自分のなかで頭をもたげてくる。しかし、その感情はけっしてネガティヴなものではない。むしろ清々しささえ覚えてしまう。自分には決して手の届かない規格外の才能を前にして、自分のどうしようない凡庸さを感じることが、私にはなぜだかとても嬉しいことなのだ (自分はマゾなのだろうか?) 。
そういえば、私が以前勤めていた川口の町工場で、パートのアラブ人が夜勤の休憩中、宇多田ヒカルの曲を聴いていたことがあった。そして宇多田の曲の素晴らしさを私に語り聞かせてくれた。「宇多田の曲に国境はないんだな……」とそのとき私はぼんやりと思った。