超自我というものがある。親や社会の規範を自身に取り入れたものだ。つまり、内在化された規範だ。
 その規範が歪んだものであった場合、その人の超自我も歪んだものになる。たとえば、「存在するな」「お前であるな」、あるいは「奴隷であれ」というメッセージを受け取って育った者は、そのようなメッセージを内在化してしまうだろう。
 ちなみに、そのメッセージとは、直接的なものとは限らない。むしろ間接的なもののほうが多いだろう。たとえば、親から暴力を受けて育った者は、それを「存在するな」というメッセージだと解釈するだろう。自分の価値観を否定されたり、自分のやりたいことをやることを否定され続けた者は、それを「お前であるな」というメッセージだと解するだろう。意識のレベルではなく、無意識のレベルで。
 それらのメッセージが内在化されれば、それは歪んだ超自我となる。そして、自己実現をしたいと思う欲求と、その超自我のあいだで、その人は引き裂かれる。つまり、葛藤する。
 私は、その人にはサルトルの哲学が有効だと考える。つまり、歪んだ超自我にがんじがらめにされ、自己実現ができない者にとっては。サルトルの哲学は古いと言われるが (それは西洋で、キリスト教的な教義・規範が、昔のように強い存在感を呈していないからだ) 、その人にとっては、その葛藤を打ち破るための起爆剤となるはずだ。
 そして、歪んだ超自我を壊したあとで、自分なりのそれを作っていけばいい。