『仮面の告白』(三島由紀夫) は、主人公 (三島自身がモデルだろう) の、解離性障害からの回復を書いた小説だと、私は解釈した。あるいは作者の、その回復のための小説だと。
主人公は同性愛者だが、その自分を受け入れることができなかった。
主人公は実際の自我像——つまり同性愛者である自我像を、自身から切り離したのだろう。言い換えるなら、その記憶を解離した。そして自然な感情・欲求を分離した。
そして主人公は、理想の自我像として——彼にとっては異性愛者として生きることにした。換言するなら、仮面を被って。というよりも、その仮面そのものとして。
本作に、このような主人公のモノローグがある。
その後、主人公は友人の妹——園子という名前だ——と付き合うようになる。
ある日、主人公と園子は、彼女の疎開先の田舎でキスをすることになる。
本作の最後で、主人公は園子とダンスホールで、若い男性たちの姿を目にする。
『『仮面の告白』ノート』に、三島の、このような記述がある。
「生の回復術」とは、自身の記憶を意識化することで、自身の解離、そして分離を解くことを言っているのだろう。記憶を文章に起こしてしまえば、それを意識せざるを得なくなる。
『仮面の告白』復刻版の付録には、三島の次のような文章がある。
「私といふ存在の明らかな死」というのは、理想の自我像 (異性愛者の自分) のことで、「徐々に自分の生を恢復しつゝあるやうな思ひ」というのは、実際の自我像 (同性愛者の自分) のことだろう。
なぜ、理想の自我像——つまり仮面は死んだのか? その仮面が「私は虚構だ」と世界に告白したからだ。