『仮面の告白』(三島由紀夫) は、主人公 (三島自身がモデルだろう) の、解離性障害からの回復を書いた小説だと、私は解釈した。あるいは作者の、その回復のための小説だと。

 主人公は同性愛者だが、その自分を受け入れることができなかった。
 主人公は実際の自我像——つまり同性愛者である自我像を、自身から切り離したのだろう。言い換えるなら、その記憶を解離した。そして自然な感情・欲求を分離した。
 そして主人公は、理想の自我像として——彼にとっては異性愛者として生きることにした。換言するなら、仮面を被って。というよりも、その仮面そのものとして。

 本作に、このような主人公のモノローグがある。

 「疲れなくて? 公ちゃん (筆者注・主人公のこと。三島の本名は公威) 」
 どうした加減か、澄子 (筆者注・主人公のはとこ) は両方の袂で顔をおおうと、そばの私の腿の上にずしりと顔を落した。それからゆっくりずらすようにして、その上で顔の向きをかえて、しばらくじっとしていた。私の制服のズボンは枕代りにされた光栄でわなないた。彼女の香水や白粉の匂いが私をまごつかせた。疲れて澄んだ目をじっとひらいたまま動かない澄子の横顔が私を当惑させた。……
 (中略) 学校のゆきかえりに、バスのなかで私はよく一人の貧血質の令嬢に会った。彼女の冷たさが私の関心を惹いた。いかにもつまらなそうな、物に倦いた様子で窓のそとを眺めている。すこし突き出た唇の硬さがいつも目についた。彼女がいないときのバスは物足りなく思われ、いつとなく、彼女を心宛てに乗り降りする私になった。恋というものかしらと私は考えた。
 私にはまるでわからなかった。恋と性慾とがどんな風にかかわりあうのか、そこのところがどうしてもわからなかった。近江 (筆者注・主人公のかつてのクラスメイト。男子) が私に与えた悪魔的な魅惑を、もちろんそのころの私は、恋という字で説明しようとはしていなかった。バスで見かける少女へのかすかな自分の感情を、恋かしらと考えているその私が、同時に、頭をテカテカに光らした若い粗野なバスの運転手にも惹かれているのであった。無知が私に矛盾の解明を迫らなかった。運転手の若者の横顔を見る私の視線には、何か避けがたい・息苦しい・辛い・圧力的なものがあり、貧血質の令嬢をちらちら見る目には、どこかわざとらしい・人工的な・疲れやすいものがあった。この二つの眼差の関わりがわからぬままに、二つの視線は、私の内部に平気で同居し、こだわりなく共在した。

三島由紀夫『仮面の告白』より


 その後、主人公は友人の妹——園子という名前だ——と付き合うようになる。
 ある日、主人公と園子は、彼女の疎開先の田舎でキスをすることになる。

 私は演出に忠誠を誓った。愛も欲望もあったものではなかった。
 園子は私の腕の中にいた。息を弾ませ、火のように顔を赤らめて、睫をふかぶかと閉ざしていた。その唇は稚なげで美しかったが、依然私の欲望には愬えなかった。しかし私は刻々に期待をかけていた。接吻の中に私の正常さが、私の偽わりのない愛が出現するかもしれない。機会は驀進していた。誰もそれを止めることはできない。
 私は彼女の唇を唇で覆った。一秒経った。何の快感もない。二秒経った。同じであった。三秒経った。――私には凡てがわかった。
 私は体を離して一瞬悲しげな目で園子を見た。彼女がこの時の私の目を見たら、彼女は言いがたい愛の表示を読んだ筈だった。それはそのような愛が人間にとって可能であるかどうか誰も断言しえないような愛だった。しかし彼女は羞恥と潔らかな満足に打ちひしがれて、人形のように目を伏せたままだった。
 私は黙ったまま病人を扱うように、その腕をとって自転車のほうへ歩きだした。

同書より


 本作の最後で、主人公は園子とダンスホールで、若い男性たちの姿を目にする。

 「もう五分か。こんなところへつれて来て悪かったね。怒っていない? あんな下劣な連中の下劣な恰好を、君みたいな人は見てはいけないんだ (中略) 」
 しかし見ていたのは私だけであった。彼女は見ていはしなかった。彼女は見てはならないものは見ないように躾けられていた。見るともなしに、踊りを眺めている汗ばんだ背中の行列をじっと眺めやっていただけである。
 (中略) 私と園子はほとんど同時に腕時計を見た。
 ――時刻だった。私は立上るとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た。一団は踊りに行ったとみえ、空っぽの椅子が照りつく日差のなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた。

同書より


 『『仮面の告白』ノート』に、三島の、このような記述がある。

 この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。

三島由紀夫『『仮面の告白』ノート』より

 「生の回復術」とは、自身の記憶を意識化することで、自身の解離、そして分離を解くことを言っているのだろう。記憶を文章に起こしてしまえば、それを意識せざるを得なくなる。

 『仮面の告白』復刻版の付録には、三島の次のような文章がある。

 この作品を書くことは私といふ存在の明らかな死であるにもかかはらず、書きながら私は徐々に自分の生を恢復しつゝあるやうな思ひがしてゐる。これは何ごとなのか?
 この作品を書く前に私が送つてゐた生活は死骸の生活だつた。この告白を書くことによつて私の死が完成する・その瞬間に生が恢復しだした。少くともこれを書き出してから、私にはメランコリーの発作が絶えてゐる。

三島由紀夫『仮面の告白』「作者の言葉」より

 「私といふ存在の明らかな死」というのは、理想の自我像 (異性愛者の自分) のことで、「徐々に自分の生を恢復しつゝあるやうな思ひ」というのは、実際の自我像 (同性愛者の自分) のことだろう。
 なぜ、理想の自我像——つまり仮面は死んだのか? その仮面が「私は虚構だ」と世界に告白したからだ。