そのアパートからの帰り道、おれとユキはバスに乗った。駅へ向かうバスではなく、恐山へ向かうバスだった。ユキがそこに行きたいと言ったのだ。
 「べつにいいけど、どうして?」おれはユキにそう尋ねた。
 「そこがふさわしい気がするの」彼女はそう答えた。ふさわしい?
 そのバスは町中を抜けていき、そのあとで山中に入っていった。
 曲がりくねった山道を、バスは器用に登っていった。
 途中でバスが停まり、運転手が「そこから湧水が出ているんですよ」と言った。見ると、山の岩肌から竹筒が飛び出していて、そこから水がチョロチョロと流れ出ていた。
 おれとほかの乗客たち (老夫婦だった。盛岡から来たらしい) はバスから降り、その水に両手を浸した。とても冷たい水だった。加熱処理をしないとお腹を下す、と運転手が言ったので、水は飲まなかった。
 そしてバスはまた、山頂へと向かって走り出した。


 「そりゃあ——」とその男が言った。「ここがおれの家だからだよ」
 「ここが?」とおれ。「ということは、あんたの名字は……」
 「高嶺だよ」とその男は答えた。「お前の旧姓でもあるな」
 おれとその男——おれの親父は、アパートの敷居越しに話をしていた。
 「一人か?」親父がきいた。
 「まあ……」おれは曖昧に答えた。
 「入れよ」と親父。「立ち話もなんだろ?」 
 おれは素直に、親父のアパートに入ることにした。ユキはアパートの外で待つことにしたようだった。きっとおれたちに気を遣ったのだろう。
 「散らかっていて悪いな」親父はそう言い、座布団の上にあぐらをかいた。「まあ座れよ」
 おれも座布団の上に座った。
 部屋のなかはタバコ臭かった。
 おれは部屋を見回した。本当に散らかっていた。パチスロの雑誌やらマンガ雑誌やらが辺りに散らばっていた。フトンは敷きっぱなし。コタツ机 (もちろんフトンはかかってない) の上には、いつのかわからない缶コーヒーが置いてあった。灰皿のなかには吸い殻が大量に押し込まれていた。
 「タバコを吸ってもいいか?」親父はおれにきいた。
 「構わないよ」とおれ。「ここはあんたの家だ」
 親父はタバコに火をつけ (銘柄は「ラッキー・ストライク」だった) 、口から紫煙を吐いた。
 「なんでここがわかった?」親父はきいた。
 「まぁ、いろいろだよ」とおれは答えた。
 「いろいろか……」と親父は言い、灰皿にタバコの灰を落とした。
 「知り合いに『高嶺』って名字の知人がいたらしいんだ」少ししてからおれは言った。「そいつから送られてきた年賀状の住所を辿ったんだよ」
 「なるほどな」親父はタバコを吸った。目を細め、少し難しい顔をした。
 「そいつはおれの息子だ」親父は言った。
 「息子?」とおれ。
 「お前と腹違いのな」と親父。
 おれは黙っていた。そんな話、聞いたことがない。
 「ああ、面倒臭ぇ!」親父はそう言って、タバコを灰皿に押し込んだ。「全部白状してやるよ」

 親父とおれの母親、そしておれは、元々K町に住んでいた (そこまではおれも知っていた) 。
 ある日、父親は蒸発した。借金が理由だった。少しして、おれと母親もK町を出た。おれが小学校の低学年のときに。母親はそのことを話さなかったが、きっと借金取りが理由だったのだろう。
 しかし、父親は実はまだK町にいたのだ。遠くまで逃げるための資金がそのときはまだなかったのだ。父親はK町にある愛人の家に身を潜めていた。
 そしてその家には、父親の息子がいた。その愛人との子だ。おれの一歳歳下なのでおれの弟だ。
 しばらくして、父親とその愛人、その息子はK町を出た。そして青森のこの町までやってきた。その後その息子が、オカ研のあいつにここから年賀状を送ったのだ (つまり、あいつの友人とは、おれの弟だった) 。
 しばらくしたらこの町からも出るつもりだったが、追手 (つまり借金取り) が現れなかったので、ここに居着くことになった。その愛人はしばらく前にこのアパートから出ていった。以来、父親とその息子はここで二人暮らしをしていた。
 その息子はいま高校生で (おれの一学年下) 、青森市にある進学校に通っていた。奨学金で東北大学に行くつもりらしく、遅くまで塾通いをし勉強していた。
 「会っていくか?」親父は言って、またタバコに火をつけた。もちろんその弟にだ。
 「やめとくよ」とおれは言った。「遅くまで帰ってこないんだろ?」それに、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。おれたちは血の繋がりがあっても、他人も同然なのだ。
 「それでもいいさ」親父は紫煙を吐いた。
 沈黙が流れた。窓の外から聞こえてくるクルマの走行音だけが、部屋に鳴り響いていた。
 「そろそろ行くよ」おれは言った。ユキをこれ以上、外で待たせておくのも悪かった。
 「おう」と親父は答えた。「まあ、また顔を見せに来いよ」
 「ああ」とおれは言った。
 「一つだけ頼みがあるんだけど」とおれは続けた。
 「なんだ?」と親父。
 「弟の写真をくれないか? 子どものころのと、なるべく最近のを一枚ずつ」

 おれとユキはそのアパートを後にした。
 バス停で恐山行きのバスを待つあいだ、おれは彼女に、弟の写真を二枚見せた。「こいつが『高嶺』か?」
 一枚目の子ども時代の弟は、どこにでもいる男の子だった。しかし、どこか陰があり、怯えた様子があった。二枚目の直近の弟は、いかにも生真面目という感じだった。
 ユキはその二枚の写真を交互に見て、そして首を振った。「彼」ではなかった。