俺と彼女はよく会うようになっていた。なんとなく、彼女とのつき合いは始まった。

 「よく」と言っても、週末だけに限られた。俺は引きこもりだけれど、彼女は外でまともに働いているのだ。
 だいたいは、彼女からメッセージが来た。そして、俺はベッドから起きあがり、重い身体を引きずって、マンションの部屋から出た。だけど、決して迷惑なんかじゃなかった。そのとき俺に必要だったのは、生身の人間との対話だったのだ。インターネットを介したそれでも、心療内科の主治医とのそれでもなく——。
 姉も、俺が誰かと会っていることを知っていた。それについて彼女から言及され、話さざるを得なかったからだ。だけど、俺が「女」と会っていることまでは、姉は知らなかった。しかも十歳上だとまでは、夢にも思わなかっただろう。
 彼女と会うのは決まって、俺の地元の駅前のカフェでだった。暗黙の了解みたいに。俺が交通費を捻出するのにも苦労するということを、彼女が察していたからだろう。だからコーヒー代も、彼女が出してくれていた。子どもにカネを出させるわけにはいかない、という考えもあっただろう。
 話題は、ありきたりな内容が多かった。大抵は、好きな本のことや、これまでに読んだ本のことだとか——。表現は悪いけれど、上部だけを撫でるような会話だった。たぶん彼女は、何が俺にとって触れられたくない話題なのか、考えあぐねていたのだろう。状況が状況だったから。そして、それは俺も同じだった。彼女は自殺未遂をしたのだ。俺たちはまるで、適度な距離感を探るハリネズミだった。


  ある日、彼女は、三島の小説が好きだと答えた。
 「どうして三島なんですか?」少し驚いて、俺は尋ねた。
 「けっこう論理的で客観的なの、三島は」と彼女は言った。「メディアが作り上げる三島像とはちょっと違うの。ちゃんと読んでみると……」
 「それに文章が、私にはしっくりとくるの」と彼女は続けた。「私、村上春樹の小説も好きなんだけど、春樹と三島の文章って、ちょっと似ているの。翻訳調で、ちょっとドライなところが——-」
 「村上春樹と三島って、自分のなかでは真逆って印象があるんですけど……」俺は言った。
 「真逆よ」と彼女は答えた。「三島は天皇と日本文化。村上春樹はアメリカとアメリカ文化。そういう意味では、三島の小説は戦前の象徴、春樹の小説は戦後の象徴とも言えるかもね。三島の自害と共に、何かが終わった。決定的に。それから春樹が、『風の歌を聴け』でデビューした」
 「だから似ているの」と彼女は続けた。「だから村上春樹は、三島が嫌いなのかもね。もしかしたら、自分を見ているみたいで——。三島が太宰治を嫌いだったように……」



 「今度、どこかに遠出しない?」とある日、彼女が言った。いつものカフェでだった。「気分転換に」
 「いいですね」と俺は言った。「俺にカネがあればの話ですけれど」
 そんなこと、子どもが気にすることじゃない、と彼女は言った。普段、彼女は対等に俺と話をしてくれたが、こういうときだけは、俺を子ども扱いした。
 「ちょうど明後日から、姉が出張で、九州に行きます」と俺は言った。「一ヶ月ほど」
 「じゃあ、決まりね」と彼女は小さく微笑んだ。
 「でも、だいじょうぶなんですか?」俺は、周囲をはばかりながら言った。周りの客たちは、自分たちの会話や、スマートフォンの操作に夢中で、こちらを気にしている様子はまるでなかった。「俺は学生で、あなたは——」
 だいじょうぶ、と彼女は答えた。「だってどうせ——」
 そう言うと、彼女の表情にどこか、影が差したように見えた。
 沈黙が、俺たちの許に降りてきた。背景に溶け込んでいたジャズ・ピアノと、周囲の話し声が立ち上がってきた。
 「教師失格」と彼女が以前、口にしたことを、俺は思い出した。
 彼女は、教師をやめるつもりなのだろうか?
 彼女はウェイターを引き止めて、紅茶と、俺のためにコーヒーのお代わりを頼んだ。



 一週間後、俺と彼女は、俺の地元駅で落ち合い、私鉄と地下鉄で、錦糸町まで出た。錦糸町駅から、JRを乗り継ぎ、館山まで向かった。内房回りだった。
 俺は窓辺の席から、ずっと海を見ていた。東京湾だ。家々の屋根や木々の枝から覗く海は、冬の太陽の陽射しを受けて、儚げに輝いていた。遠くのほうには、貨物船が何隻か見えた。
 彼女は、俺の手前の席で——対座式の席だった——-で、文庫本を読んでいた。カバーが外されていた。俺は視力が弱いので、題名も著者名も、そこからは読み取れなかった。
 「なにを読んでるんですか?」俺は尋ねた。好奇心半分、話題欲しさ半分というところだった。
 「『雪国』」と彼女は本に目を落としたまま答えた。川端康成だ。
 「この寒いのに」俺は茶化すように微笑した。
 「この旅行自体を、否定するような発言ね」彼女は顔を上げて、小さく微笑んだ。「海を見にいくのが、この旅の目的なんだから」
 「そもそも、どうして海なんですか?」と俺はきいた。初めにそう言い出したのは、彼女だった。
 「単純に、海が好きなの」と彼女は窓の外に目を向けた。「特に、冬や秋のね」
 「海といったら夏でしょう」と俺は言った。
 「一般論ね」と彼女。「私は、冬の海が好きなの」
 「どうして?」俺は好奇心からきいた。
 「シーズン・オフだから」と彼女は答えた。「人がいないから」
 「なるほど」と俺は微笑した。なるほど。
 「それに、人気のない、廃れた海って、どこか趣があるでしょう?」
 「趣?」と俺。
 「侘び寂びというか」
 「わかりませんよ」俺は困惑を隠すように笑った。
 沈黙が訪れた。車内には、俺たち以外に客はほとんどいなかった。聞こえてくるのは、電車の走行音と、風を切る音だけだった。
 「昔は——大学生のころは——、少し遠くの海までよくでかけてね」と彼女は言った。彼女はまだ海を見ていた。
 「それで、海辺のホテルに宿をとって、部屋にこもって本を読んだ。あるいはホテルのラウンジなんかでコーヒーを飲みながら。普段、読まないような長い本を持っていってね。プルーストの『失われた時を求めて』だとか、トーマス・マンの『魔の山』なんかを……。それで飽きると、海を見にいった。浜辺に座って、夜の海原をいつまでも眺めるの。飽きなかったな」
 「人間が嫌いですか?」と俺は言った。
 そんなことを言うつもりなんてなかった。だけど、その言葉がつい、口を突いて出てしまったのだ。
 彼女はこちらを見やった。その目は、どことなく悲しげだった。少しだけ瞳が潤んでいるようにも見えた。
 「すみません」と俺は言った。「そんなこと、言うつもりなんてなかったんです」

  彼女は小さく笑みを浮かべ、そしてまた窓の外に目を向けた。
 だけど、海はもう見えなくなっていた。町並みや木々がひたすら、目の前を流れていった。



 館山駅近くの喫茶店でお茶を飲んだあと、駅前のビジネス・ホテルにチェック・インした。彼女が、自分と俺の部屋を二つ取った。
 「バイトして払います。交通費等も含めて」ホテルを出てから、俺は言った。町中を歩きながら。喫茶店のコーヒー代とは、さすがに額が違う。  「期待しないで待ってる」と彼女は微笑んで言った。
 海岸を俺たちは歩いた。砂の感触がどこか懐かしかった。遠くの前方には博物館が、左手には学校が見えた。
 海原——館山湾——にはフェリーが、沖合にはやはり貨物船が見えた。
 透き通るような空に、刷毛で引いたかのような雲が浮いていた。
 彼女が、綺麗な色をした巻き貝を拾い、それを耳許に当てた。少しして彼女は、それを俺に手渡した。
 俺も巻き貝を耳許にあてがった。貝のなかからも、遠い海鳴りが聞こえた。それは、その貝の持つ記憶なのかもしれない。
 海岸近くの博物館にあるカフェで、遅い昼食をとった。俺は、ビーフ・カレーを、彼女は、海老や貝の入ったパスタを食べた。
 「祖父母の家が近くにあったんですよ」と俺は言った。俺たちは食後のコーヒーを飲んでいた。「もう祖父母も家もありませんけどね」
 「よく、この博物館にも来ましたね」と俺は続けた。「無料の水族館があって、よく親戚の人たちに連れてきてもらって……」
 「楽しかった?」と彼女は尋ねた。皮肉や嫌味な感じはなかった。それは純粋な質問だったのだろう。あるいは相槌のようなものだった。
 「ええ」と俺は答えた。「小学校のころですね。中学校に上がったころには、もう来なくなっちゃいましたけど。二人ともそのときにはもう亡くなっていたんで」
 「あの頃はまさか、あなたとここに来るだなんて思ってもいなかった」と俺は続けた。「当たりまえですけど……」
 「あなたが小学生のころというと——」と彼女は言った。「十年前から、五年前になるね」
 「ええ」と俺はコーヒーを飲んだ。  「私が高校生から大学生にかけてね」彼女は小さく吐息をついた。「そう考えると、なんだかずいぶん歳が離れているね……」
 「私もそのころ、よくここに来ていた」彼女は頬杖をついて、窓の外を見た。窓の外には広いテラスがあり、その柵の向こうには、やはり海原が広がっていた。「電車のなかで言ったように、少し遠くの海に行っていたころね。『少し遠く』だから、だいたい千葉の海なの。それは好みの問題でもあるんだけど……。銚子や鴨川にもよくでかけた」
 「たぶんそのころ、私たち、すれ違ってるかもね」と彼女はコーヒーを飲んだ。
 俺は、あのころのことを思い出した。子どものころ、館山の海岸で、両親や親戚たちと遊んでいたころのことを。そして、この博物館を回っていたときのことを。
 そしてその風景のなかに、まだ学生だったころの彼女がいることをイメージした。彼女は今よりも若い。
 彼女は、そのなかでもやはり、海を眺めていた。独り、潮風に吹かれながら。



 彼女と会うようになってからは、「彼」の声が聞こえなくなっていた。
 《彼女と会うようになったからだろう》と俺は考えた。そこにきっと、関係があるのかもしれない、と。そのあいだに、どんな理屈があるのかまではわからなかったが。ただ単に、孤独でなくなったからなのかもしれない、とも思った。家には姉がいるから、厳密には孤独ではなかった。だけど、俺と姉の関係は、ほとんど他人同然だった。少なくとも今の関係は——。
 《やはり人間は、一人では生きられないのかもしれない》と思った。孤独は人の心を、徐々に蝕んでいくのだろう。まるで酸のように。きっと人間は、そういうふうにできているのだろう。あるいは、孤独な人間は、「それら」に狙われるのかもしれない。群れから外れた動物が、敵から狙われるように……。「それら」とはなにか?といえば、「邪悪ななにか」だろう。
 だから俺には、彼女と会うことが必要だったのだろう。
 しかしある日、またその声はやってきた。
 《あの女に入れ込むなよ》と「彼」は言った。《不幸になるぜ》
 それは呪いのように、俺の耳に響いた。その声は、実際の声ではないので、鼓膜を震わせることはなかったのだが……。
 《彼女がいなくても、俺は充分不幸だった》と答えた。
 《一度、幸福を味わうと、それを失ったとき、以前の状態にはもう戻れないんだ》と彼は続けた。《もう二度と》
 俺は黙っていた。そんなことはわかっている、と思った。少なくとも、頭での理解はあった。理屈での理解は……。
 《それなら、中途半端な幸福は避けるべきだ》と彼は言った。
 気がつくと、彼の気配は消えていた。
 あるいは、それは真理なのかもしれない、と俺は思った。
 《だけど、彼女が失われるとは限らない》と俺は思い直した。「彼」は、彼女が失われることを前提に話していたが。
 もちろん、いつかは全てが失われはするのだけれども。
 《あいつの言葉を、信じちゃいけないんだ》と俺は思った。そして、「彼」の言葉と、「彼」が残した雰囲気を、頭のなかから閉め出すことにした。
 だけど、「彼」の言葉は、俺の頭のなかで、いつまでもリフレインし続けた。いつまでも、いつまでも……。



 彼女のマンションに、俺はよく出入りするようになっていた。
 彼女は、外で会うよりも自宅で会ったほうが、むしろ無難だ、と考えたのだろう。天秤にかけた結果。俺の信頼度が上がったのか、外で会うことのリスクが彼女のなかで上がったのか……。
 彼女の五階建てのマンションは、俺の住む町から、電車で四駅ほど先にある町にあった。古いが、手入れの行き届いた小綺麗なマンションだった。
 駅の人混みをかき分け、アーケード街を抜け、幹線道路沿いに進むと、そのマンションはあった。
 エレベーターで、彼女の部屋のある四階まで向かった。古いエレベーターで、よく揺れた。肺を病んだ老人の息みたいな、どこか不吉な音がした。
 四階の通路を渡り、彼女の部屋まで向かった。彼女の部屋は、いちばん角にあった。
 その通路からは、幹線道路と町並みが見渡せた。幹線道路には、たくさんのクルマが行き交っていた。嫌になるくらい、沢山のクルマが——。
 彼女の部屋のインターホン (カメラ付き) を押すと、チェーンの外れる音がし、鍵が乾いた音を立てて開錠され、ドアが静かに開いた。
 「入って」と彼女は微笑んで言った。
 「おじゃまします」と俺は言って玄関に入った。
 「噂されたら、まずいんじゃ……」と俺は言った。
 「え?」と彼女の声が、キッチンのほうから聞こえてきた。それと、コーヒーを淹れる香りが。
 「教職の若い女性が、男子高校生を部屋に連れ込んでるなんて、近所に噂されたら……」と俺は言い直した。
 彼女はキッチンから、お盆の上にコーヒーを二つ載せて、リビングまで来た。そして、小机の上にそれらを置き、彼女は俺の向かい側に座った。「今さらね」と微笑んだ。
 コーヒーは、小ぶりなカップに入っていた。どことなく和風なそれだった。
 「いただきます」と俺は言って、コーヒーを飲んだ。「店で飲むコーヒーよりも美味い気が……」
 「そこのドラッグ・ストアで買ったものよ」と彼女はまた微笑み、カップに口をつけた。
 「弟だって言うからいいわ」と彼女は言った。さっきの話の続きだった。「あるいは親戚の子だって言うから……」
 「それにいつまでも、この仕事を続けようだなんて思ってもいないし」と彼女は続けた。「いざとなったら、やめればいい。貯金もそれなりにあるし……」
 「俺のせいで、やめることになりますね……」
 「別に教職にこだわりなんてないの」と彼女はそっと言った。
 彼女が手洗いに立ったとき、俺は部屋を見回してみた。
 本棚には、たくさんの本が並んでいた。並びきれない分は、本の上や、棚の上に積まれていた。あるいは、その手前や両側に。
 そのなかの、ある本に目が留まった。見覚えのある題名を見つけたのだ。芥川龍之介の短編集だった。『闇中問答』が収録されたそれだった。まだ新品のように見えた。
 「なにか気になる本でもあった?」彼女が、リビングへ戻ってきながら言った。
 「芥川龍之介の本があったんで」と俺は答えた。
 「ああ……」彼女はそこに立ちながら、本棚を見やった。「あなたと初めに、喫茶店で会ったとき、あなたが持ってたから……。印象に残ってて、買ってしまったの」
 「そういえばあのとき、ききそびれていたけど」彼女は、小机の前に座りながら尋ねた。「芥川龍之介が好きなの?」
 「好きってほどのことでもないんですよ」と俺は答えた。「ただ、その短編集のなかの一編が気になって……」
 「どの話?」と彼女。「私、まだ全部は読んでいないんだけれど……」
 「『闇中問答』って話です」と俺。
 「ああ……」彼女はどこか複雑な表情を浮かべた。「それは読んだわ。だけど、あの話のどこに惹かれたの? まるで、統合失調症の人の——芥川自体がそうだったらしいけれど——話みたいに見えるんだけれど」
 「俺にも、似たようなことがあるんですよ」俺は視線を落として言った。なにかやましいことを口にしたような気分になった。
 彼女は黙って、俺を見つめていた。
 俺は思い切って、自分の身の回りで起きていることを話した。つまり、「彼」のことを——「彼」との対話のことを——話した。なにも、隠し立てせずに。
 それで、この関係が終わってしまうのなら、その程度の関係性だった、ということだ。それならそれで構わない、と思った。これはたぶん、彼女にとって、ある種の踏み絵なのだ。
 彼女は黙って、俺の話を聞いていた。
 「引かないんですね」と俺は言った。
 「あなたが赤の他人だったら、正直そう感じたでしょうね」と彼女は微笑んでコーヒーを飲んだ。「だけど、私はもう、あなたのことを知っているから。もちろん、ある程度だけれども……。だって、あなたがそんなことに苦しんでいるなんて、私ちっとも知らなかったもの」
 俺も微笑し、コーヒーを飲んだ。コーヒーはもう温くなっていた。だからこそ、味がよくわかった。やはり美味かった。
 「影なのかしらね……」不意に彼女がそう言った。
 「影?」俺はうつむいていた顔を上げ、彼女のほうを見やった。
 「抑圧された、自己の側面ね」と彼女は言った。「私は心理学者でも精神科医でもないからよくわからないけれど、そういう概念があることは知ってるわ。文学でもよく扱われるし……」  俺は黙って、彼女の話を聞いていた。
 「河合隼雄の本を、むかし読んだことがあるの」と彼女は言った。「これは仕事でね。子どもたちの心理をテーマにした研修に参加したことがあって……。その本には、『個人的影』と『普遍的影』という概念があった」
 「なんですか、それは?」と俺はきいた。個人的影と、普遍的影?
 「前者は、その人の影で、後者は、人類の影らしいわ」と彼女は言った。「前者は個人的無意識における、後者は普遍的無意識における、それなんでしょうね。河合さんは、その本のなかで、『ファウスト』のワーグナーは前者で、メフィスト・フェレスは後者にあたると言っていたわ」  俺は黙って、彼女の話を聞いていた。
 「私は思うのだけれど——」と彼女は言った。「イエス・キリストをそそのかそうとしたサタンや、ブッダが対話した悪魔というのは、『普遍的な影』なんじゃないかしら?」
 「もしかしたら芥川も——」と俺は言った。  「あるいはね」と彼女は答えた。「彼もそれと、出会ってしまったのかもしれない」
 そして——、と彼女は俺のほうを見て言った。  だけど、そのまま口をつぐんでしまった。



 外では、雨が降り出していた。
 静かな雨だった。窓の外は、灰色に塗り込められていた。
 「私ね——」と彼女は言った。「教え子に手を出したの」
 「えっ」と俺は小さく声を出した。
 「言い訳みたいだけれど、私、そんなに軽くはないの」と彼女は言った。「だけど、彼に対しては抗えなかったの。強く惹かれてしまった。とても強く……。それは恋とか性とか、そういうものを遥かに超えた力だったの」
 俺は黙っていた。
 「彼、あのビルで自殺したの」と彼女は言った。「知ってるでしょう? 私とあなたが出会った——」
 「もちろん」と俺は答えた。
 あの廃墟ビルで、一年前、男子高校生が自殺したと聞いた。
 それは、彼女の恋人だったのか。
 「彼を失ったことで、私の胸にポッカリと穴が空いたのよ」そう言って彼女は、コーヒーを飲んだ。「正確には元々、それは空いていた。それが当たり前だったから、そんなものは気にも留めなかった。だけど、彼を失ったことで、それを意識せずにはいられなくなったの。それまで、独りでいることが当然だったのに、それができなくなった。自分がこんなにも依存心の強い人間だったなんて、思いもしなかった……」
 「それで俺と——」と答えた。
 「ごめんなさい」と彼女は小さく答えた。「まるで、あなたを利用しているみたいで……」
 「それを言うなら、きっと俺もなんですよ」と俺は言った。「お互いさまです」
 「共依存」と彼女は小さく笑った。
 「たぶん」と俺も微笑んだ。
 俺たちは黙って、コーヒーを飲んだ。
 雨脚はさらに強くなっていき、部屋のなかの雨の匂いと雰囲気は、さらに密度を濃くしていった。

  「子どもがいたの」と彼女は言った。「彼とのあいだにね」
 「その子は——」俺は驚きつつも尋ねた。
 「死んだわ」と彼女。「流産したの」
 沈黙が、俺たちのあいだに降りてきた。
 「産むつもりだったの。もし産んだら、彼との関係がバレたかもしれない。彼の自殺の原因も、追及されたかもしれない。それでもね……」
 「それで、どうでも良くなっちゃったの」と彼女は続けた。「全部、どうでも良くなった。それで、あの廃墟ビルに行ったの。彼が死んだあのビルに」
 そこで、あなたと出会った、と彼女は続けた。
 沈黙。
 「泣けばラクになれますよ」と俺は言った。あの日、彼女が屋上で、子どものように泣いていた姿を、俺は思い出していた。まるで吐くような姿で——。
 「泣ければいいんだけれどね」と彼女は答えた。「だけど、もう泣けないの。涙が出ないの」
 もう一生分、泣いてしまったのかもね、と彼女は付け加えるように言った。
 外では、雨が降り続いていた。永遠に降り続けるかのように。まるで彼女のために空が泣いているかのようにも見えた。



 彼女が死んでしまったのは、その一ヶ月後だった。
 俺はジャケットを羽織って、マンションの部屋から出た。
 駅前の雑踏を通り、改札口を抜け、電車に乗った。
 車窓からは、燃えるような夕焼けが見えた。その空は、世界の終わりを思わせた。
 廃墟ビルは、相変わらず鉄条網で覆われていて、やはり、立ち入り禁止の看板があった。
 俺はあの日と同じように、鉄条網を乗り越え、ビルへと侵入した。
 相変わらず、ビルのなかは、不法投棄のゴミの山だった。吸い殻や空き缶、割れた窓ガラスが、地面に散乱していた。
 俺はそこを通り抜け、奥の階段から、二階へと上がっていった。手摺りは、あの日と同じように、氷のように冷たかった。
 彼女が死んだことを知ったのは、新聞の地方版でだった。
 きっと、虫が知らせたのだろう。ふだん、新聞もテレビのニュースも見ないくせに、その日はなんとなく、リビングの机の上にあったそれを手に取った。
 その前日、彼女からのメッセージの返信がなく、心配になった俺は、彼女のマンションへと電車で向かった。
 彼女の部屋のドアをノックしても、インターホンを押しても、彼女は部屋から出てこなかった。
 四階のその部屋からは、夕暮れの空が見えた。町はオレンジ色に染まっていた。
 彼女はそのときすでに、あの廃墟ビルから飛び降りていたのだ。
 彼女の葬儀には、参列しなかった。表向きには、俺は、彼女の友人でも恋人でもなかったからだ。
 俺は自室のなかで、フトンにくるまっていた。以前の自分に、逆戻りしたかのようだった。
 あの廃墟ビルに、自分も行かなくては、と俺は思った。彼女や、彼女の恋人と同じように、俺もあそこから飛ばなくては……。
 きっと彼女も、それを望んでいるはずだ。彼女は身をもって、それを教えてくれたのだ。「死は全てからの解放なの。あらゆる苦しみからの。悲しみや痛み、不安や憎しみからの……」。「彼」が俺にそう言ったように。
 俺は、階段室までたどり着き、ドアノブを握った。俺の手の感覚は、すでに死んでいて、何も感じなかった。
 扉を開けた。やはり、冷たい風が、俺の頬に吹きつけてきた。
 屋上には、もちろん彼女の姿はなかった。あの、仮面を外した彼女の姿は——。素の姿の、まるで少女のようだった彼女は——。
 彼女は俺の前では、最後まで、あの仮面を外してはくれなかった。彼女と心が触れ合えさえすれば、俺たちはもしかしたら……。
 俺は、フェンスのほうまで歩いていった。そして、夕暮れの空と、町を見た。
 やはり、沈みゆく——消えゆく——赤い太陽が、住宅街と、遠くに見える高層ビル群をシルエットにしていた。
 彼女と、彼女の恋人だった少年が、最後に見た光景。
 俺はフェンスをよじ登り、ビルの縁に立った。
 《しくじるなよ》と「彼」が言った。
 《死は全てからの解放なの》と彼女は言った。
 俺は、膝を軽く折り、跳ぶ姿勢をとった。
 それから——。



 三月の終わりごろ、俺は、彼女の墓参りにでかけた。葬儀には参列できなかったが、せめて墓参りくらいは、と思ったのだ。
 場所は、彼女が勤務していたM高校から、電話で直接聞いた。「自分はそちらの卒業生で、彼女にはとても世話になった。ついては、墓参りがしたいのだ」と嘘をついて。
 電話に出た男性の教諭は、その場所を教えてくれた。個人情報管理でうるさい今日でも、故人の情報、それもその墓のある霊園の位置くらいなら教えても差し支えないだろう、と判断したのだろう。俺はその場所のメモをとり、礼を言って電話を切った。
 彼女の墓は、東京の郊外にある霊園にあった。
 なにもない場所だった。近くを用水路が流れ、辺りは荒地が広がっていた。近くには幹線道路が南北に伸びており、そこを通るクルマが、遠い海鳴りのように、静かに響いていた。
 俺はコンビニで買った線香を、やはりコンビニで買ったマッチで火をつけ、彼女の墓の線香皿の上に並べて置いた。そして、彼女の墓に向かって手を合わせた。


 あの日、俺は飛べなかった。
 俺は吐息をついた。俺は死ねないんだ、と思った。《俺は、死ぬことができないんだ》
 それが自分のなかで、ハッキリとした。それが自分のなかで、自明なことになった。
 俺はフェンスをまた乗り越えて、元来た道を引き返した。階段室のドアノブを回し、ドアを引き、なかへと入った。手すりにつかまりながら、階段を下りていった。
 《なぜ、死なないんだ?》と「彼」は、俺に言った。
 そのとき俺は、自室のベッドのなかに、潜りこんでいた。すでに夜の12時を回っていた。
 《お前には、生きる価値がない》と「彼」は言った。《存在する価値がない。誰の役にも立てないお前には——》
 《知ってる》と俺は答えた。《そんなことは、言われなくても……》
 《だけど、死ぬことができないんだ》と俺は続けた。《それだけの話だよ。俺は死ぬことができない。だから、お前がなにを言っても無駄だよ》
 「彼」は黙っていた。なにか考えているように見えた。そして言った。《お前は、自分が憎くないのか? 嫌いじゃないのか?》
 《嫌いだし憎いさ》と俺は答えた。《だけど、死ぬことができないなら、生きるほかない。生きるしかないのなら、自分を肯定する努力をしたほうがいい。あるいは、世界を肯定する努力を——》
 「彼」は姿を消した。それから、「彼」が俺の前に現れることはなくなった。
 だけど、理屈で生きているかぎり、彼もまた、新たな理屈を携えて、俺のもとに舞い戻ってくるだろう。そしていつかまた、俺の理屈を打ち破るはずだ。
 たぶん、と俺は思った。俺に必要なのは「意志」なのかもしれない。「なにがなんでも、生きてやる、生き延びてやる」という、泥臭い意志が——。あるいは信念が——。



 俺はその霊園で、缶コーヒーを飲んだあと、そこから出て、近くのバス停へと向かった。
 用水路沿いの草花のあたりを、紋白蝶が一匹飛んでいた。
 最後まで見届けてみよう、と思った。自分の人生を。最後まで付き合ってみよう。自分自身に。
 たぶん人生とは劇場なんだ。そして、自分自身とはその観客なんだ。要所要所に、選択肢のある劇場——。
 楽しんでやれ!