自己実現とは、自分自身のネイチャーを見つけ、それに従った生き方をすることだ。それは自分のなかに、自分自身の種を見つけ、その花を咲かせることだとも喩えられる。
自己実現とは、「なりたい自分になること」という理解が一般的にはあるが、半分は間違っている。その「なりたい自分」が、自分自身のネイチャーでないものなら (自身の種を育てることでないのなら) 、それは自己実現的ではない。
自分自身のネイチャーとは何かといえば、自分の好きなことや、得意なことだ。あるいは、ある地点を目指す、自分のベクトルのようなもの。
それは負け続けることで、見つかるのかもしれない。「自分には、これしかないみたいだな……」というように。
あるいは、子ども時代にまで遡ってみるのもいいのかもしれない。小さな子どもは、世間の価値観や感性に、まだ染まりきっていないからだ。自分自身の好き嫌いに忠実だから。
自分の子ども時代の夢がわかれば、あるいは話が早いのかもしれない。
ただ、子ども時代の夢が、そのまま叶えられるとは限らない。多くの人が、妥協を強いられることになるだろう。(エジソンやさかなクンのように、自分の夢をストレートに叶える人たちもなかにはいるけれども)
例えば、戦隊ヒーローになりたかった子どもがいたとする。それ自体になることは、不可能だ。なので、妥協が必要になってくる。彼は、弁護士や消防士を目指すかもしれない。あるいは、特撮の監督や俳優になるかもしれない。
例えば、『ポケモン』の生みの親の田尻智は、子ども時代、昆虫博士と呼ばれていた。まだ自然が残っていた地元の町で、昆虫や生物を収集していた。
中学生になると、町の開発で自然が失われていった。田尻さんは、町中に建てられたゲームセンターに通い詰めることになり、『インベーダー』などのテレビゲームに夢中になった。ゲームのアイデアを雑誌に応募したり、高等専門学校時代には自らゲーム制作をしたりした。
高専卒業後、ゲーム雑誌のライターなどを経て独立。「ゲーム・フリーク」を設立し、『ポケット・モンスター』を世に送り出した。
三島由紀夫は、子ども時代、兵隊たちや、糞尿取りの若い男に憧れた。一方で、若い男たちが夭折する物語が好きだった (例えば、ジャンヌ・ダルクの絵本など。幼いころの三島は、ジャンヌ・ダルクを男だと思い込んでいた) 。そして、兵隊ごっこのときは、撃たれて死んだフリをすることが好きだった。
三島は、学生時代、詩作にのめり込んだが、「自分は詩人ではない」と考え、詩を書くことをやめた。
三島は小説家としてデビューし、若い男が死んでいく物語を書くことになる (ただし、三島の場合は、最終的に自ら自害することになるのだが) 。
自己実現とは、「なりたい自分になること」という理解が一般的にはあるが、半分は間違っている。その「なりたい自分」が、自分自身のネイチャーでないものなら (自身の種を育てることでないのなら) 、それは自己実現的ではない。
自分自身のネイチャーとは何かといえば、自分の好きなことや、得意なことだ。あるいは、ある地点を目指す、自分のベクトルのようなもの。
それは負け続けることで、見つかるのかもしれない。「自分には、これしかないみたいだな……」というように。
あるいは、子ども時代にまで遡ってみるのもいいのかもしれない。小さな子どもは、世間の価値観や感性に、まだ染まりきっていないからだ。自分自身の好き嫌いに忠実だから。
自分の子ども時代の夢がわかれば、あるいは話が早いのかもしれない。
ただ、子ども時代の夢が、そのまま叶えられるとは限らない。多くの人が、妥協を強いられることになるだろう。(エジソンやさかなクンのように、自分の夢をストレートに叶える人たちもなかにはいるけれども)
例えば、戦隊ヒーローになりたかった子どもがいたとする。それ自体になることは、不可能だ。なので、妥協が必要になってくる。彼は、弁護士や消防士を目指すかもしれない。あるいは、特撮の監督や俳優になるかもしれない。
例えば、『ポケモン』の生みの親の田尻智は、子ども時代、昆虫博士と呼ばれていた。まだ自然が残っていた地元の町で、昆虫や生物を収集していた。
中学生になると、町の開発で自然が失われていった。田尻さんは、町中に建てられたゲームセンターに通い詰めることになり、『インベーダー』などのテレビゲームに夢中になった。ゲームのアイデアを雑誌に応募したり、高等専門学校時代には自らゲーム制作をしたりした。
高専卒業後、ゲーム雑誌のライターなどを経て独立。「ゲーム・フリーク」を設立し、『ポケット・モンスター』を世に送り出した。
三島由紀夫は、子ども時代、兵隊たちや、糞尿取りの若い男に憧れた。一方で、若い男たちが夭折する物語が好きだった (例えば、ジャンヌ・ダルクの絵本など。幼いころの三島は、ジャンヌ・ダルクを男だと思い込んでいた) 。そして、兵隊ごっこのときは、撃たれて死んだフリをすることが好きだった。
三島は、学生時代、詩作にのめり込んだが、「自分は詩人ではない」と考え、詩を書くことをやめた。
三島は小説家としてデビューし、若い男が死んでいく物語を書くことになる (ただし、三島の場合は、最終的に自ら自害することになるのだが) 。