三島由紀夫はナルシシストだった (「そんなことは言うまでもない」という声が聞こえてきそうですが……) 。
 一応ことわっておきますが、私はナルシシズム自体は否定しない。それも、人生を楽しむための一つのツールとして活用していけばいいと考えるからだ。
 ただし、自己受容が必要だと考える。実際の自我を抑圧し、理想の自我像に従って生きていれば、投影が発生するからだ。そのような生き方は、周囲も傷つけるし、自分自身も傷つける。
 話を戻して、三島由紀夫にも抑圧があった。アオジロと揶揄されたかつての自分だった。つまり、ひ弱な肉体を小馬鹿にされた自分自身だ。三島が生きた時代は、そういう価値観の時代だったのだろう。
 三島由紀夫は、太宰治を嫌っていた。実際の自分を、太宰のなかに見ていたからだ。つまり、抑圧された自分自身を。
 余談だが、三島はLGBTだった。しかし、三島はその自分を自己受容していた。そうでなければ、『仮面の告白』なんて自伝的小説 (己を赤裸々に語ったそれ) は書けない。肯定まではしていなかっただろうけれども。
 もし、三島がLGBTである自分を抑圧していたら、LGBTである他者を憎んでいただろう。やはり、投影が発生したからだ。三島が美輪明宏を嫌っていなかった (むしろぞっこんだった) ことが、その証左となる。
 三島はある日、その抑圧された自分 (アオジロと呼ばれた自分) に直面することになった。ダンスホールで、美輪明宏とダンスを踊っていたとき、彼から、自身のひ弱な肉体を揶揄されたからだ。三島は怒って、そこを出ていった。
 後日、三島は後楽園のジムでボディビルを始めた。そして、三島の肉体は筋骨隆々なそれへと変化していった。

 三島は、美輪明宏に肉体を揶揄され、実際の自分自身を目の当たりにしたとき、四つの道を用意された。
 一つ目は、抑圧を続けること。つまり、実際の自分の肉体から目を背け続けること。
 二つ目は、肉体改造をすること。三島は実際に、この選択をした。
 三つ目は、その肉体を持つ自分自身を肯定する努力をすること。
 そして四つ目は、絶望し、自殺することだ。
 三島は二つ目の選択肢を選んだが、それは彼が自己受容まではできていたからだ。実際の自分を認めていなければ、それを変えようとする発想すら生まれない。
 私は、三島は、三つ目の選択肢を取るべきだったのではないか、と思っている。なぜなら、二つ目の選択肢には、死が約束づけられていたからだ。
 二つ目の選択肢を取るということは、三島がナルシシズムで生きるということだ。つまり、理想の自我像に実際の自分を重ねて生きるということ。そして、三島の理想の自我像とは、若い肉体を持つ自分、筋骨たくましい肉体の自分、そして「夭折する自分」だったからだ。
 私は、三島は、道を踏み誤ったのではないかと思っている。三島は、三つ目の選択肢を選び、彼の理想を小説という形で表現し続けるべきだったのではないか、と。なぜなら、三島は小説家だったからだ。文士だったからだ。
 三島は、ボディビルやボクシング、剣道を始めたときから、自分自身ではなくなってしまったのかもしれない。自分自身の道から、逸れていってしまったのかもしれない。