仏教とはタナトス的な指向性を持つものだ、と私は考える。つまり、無へと向かうそれを持つもの。煩悩を断ったり、執着を手放すといった教えを持つからだ。
 あらゆる煩悩、執着を手放していった先に残るのは無そのものだ。おそらくニルヴァーナと呼ばれるものは、無の境地、つまり「死」そのものではないだろうか? (あまりに平面的に捉えすぎているかもしれませんが)
 しかし、その仏教を実践するのは、もちろん生身の人間だ。人間はリビドー的な——広義の意味での——ベクトルを持つ (もちろん人間だけではなく、あらゆる生物が) 。その人間が、仏教を実践することで、初めてバランスの取れた生き方ができるのだろう。つまり、その人のなかで、リビドーとタナトスが拮抗し合う。
 しかし、超自我に支配され、自己喪失的になっている人間——つまり、超自我そのもののようになっている人間——が、仏教を実践するのはとても危険なことだと私は思う。なぜなら、自己喪失的になっている人間のリビドーは、とても弱まっているからだ。希薄になっているから。つまり、その人は、リビドー的なベクトルではなく、タナトス的なベクトルを持つことになる。言い換えるなら、その人そのものがタナトス的になる。仏教の教義的になる。つまり、生物というよりも、概念のようになる。
 私自身も一時期、自己喪失的になり——言い換えるなら離人症的になり——超自我に支配されていた。歩く規範、概念のようになっていた。
 その私が仏教の教義を実践した結果、あらゆるものを失った。そして最終的にホームレス——一泊二日だけだったが——になり、あとは自らの命を絶つだけという段階にまでいった。
 世間一般でも言われているように、そして仏教の教え自体にもあるように、大事なのはバランスを取ること、つまり中道なのだろう。そのときの私に必要だったのは、離人症を回復させ、リビドーを取り戻すことだった。私のなかで、リビドーとタナトスを拮抗させ合うことだった。
 リビドーしか持たなければ、人間というよりも獣に近いし、タナトスしか持たなければ、人間というよりも概念に近い。この二つのバランスが取れて、初めて人間的になるのだろう。「人間とは矛盾する生き物」というのは、おそらくそういうことなのだろう。