人間を大別すると、三種類に分けられる。一つ目は、親から愛された人。二つ目は、親以外の人から愛された人。そして三つ目は、誰からも愛されなかった人だ。
 あえてゲーム的に喩えるならば、一つ目の人はイージー・モード、二つ目の人はノーマル・モード、そして、三つ目の人はハード・モードだろう。三つ目には、私は心情的には「ベリー」を付け加えたい。
 私は親からは愛されなかったが、他人からは愛された。よって依存心を解消できた。完全にではないが。少しは残っている。
 自分は運が良かったと思っている。それに地獄と天国の両方を体験できたことも良かった。通常は二つに一つだろう。おかけで、様々な学びを得られた。
 「依存心を解消できた」と書いたが、正確には、依存心は解消されるものではないだろう。依存心とは、愛と相対化されるものなのだろう。依存心という感情・欲求の想念を、愛されたという体験・記憶の想念で、相対化する。それなら、依存心が多少残るのは説明がつく。依存心というのは強烈に強迫的なもの (居ても立ってもいられないもの。とにかく他者を必要とするもの、他者に絡みつきたいと思うもの) だが、それが相対化されることによって、強迫的なものではなくなっていく。
 依存心というものは、相対化されて気づくもの、認識できるものだと、私は考える。つまり、相対化されることで、依存心を客観視することができる。それまでは依存心というものは、主観的・絶対的なものだろう。視点・意識が依存心の上方にあるのではなく、依存心のなかにある。一体化している。
 ちょうど、日本語 (母国語) と英語 (他国語) の関係に近い。日本語しか知らないころは、日本語を虫の視点的に捉え、扱うものだが、英語を学ぶことで、日本語を鳥の視点的に捉え、扱えるようになる。それは日本語が、英語という言語と相対化されたからだ。
 私がここで、取り上げたいのは、三つ目の「誰からも愛されなかった人」だ。私 (つまり、愛されて依存心が解消された人間) がその人たちについて語るのは、大変おこがましい行為だと承知の上だが、地獄 (他者から愛されなかった) の経験と、天国 (他者から愛された) の経験を両方知っているからこそ、伝えられることもあると思うのだ。
 ニーチェの墓石には、「昼の光に夜の闇の深さがわかるものか」とある。その通りだと思う。しかし、私はその両方を体験している。

 まず、「自分は愛されなかった」ということを自覚すること、そして自分のなかの依存心をハッキリと意識化することだろう。頭ではなく、心と身体のレベルで。涙を流すこと。それは絶望に直面し、それを受け入れることとも言える。しかし、絶望するとは、スタート地点につくということでもある。
 そして、愛する能力のある人を見つけること。条件付きの愛ではなく、無条件の愛を与えてくれる人を。サディズムが変装した愛をぶつける人ではない誰かを。世の中には、探せば、そういう人たちが本当にいる。フィクションの世界だけではなく。
 そのためには、他者を信じることが必要になってくる。他者に心を開くことが。大人になると、他者の愛情を素直に受け取れなくなる。他者を疑いがちになる。これは子どものころにはなかった、大きなハンディ・キャップだ。だから私は、人は、他者を疑わない子ども時代のころに、愛を一身に受ける必要があると考える。
 それでも、愛する能力のある人を見つけられなかった場合は、加藤諦三の言う「お母さんの木」を活用すること。それは、自分で自分のなかの依存心を、愛と相対化させる試みとも言える。私も、これを活用した。
 「お母さんの木」については、『自分のうけいれ方 競争社会のメンタルヘルス』(加藤諦三) に詳しくある。

 自分は心理的に健康な人とはまったく違った動物だと心の底から決心したら、第二に、「これが自分のお母さん」という木を見つけることである。大きな木でもいいし、小さな木でもいい。
 もちろん、親に代わるものを自分の心のなかでつくるには、「この風景が自分のお母さん」と決めるのでもいい。とにかく、「これが自分のお母さん」というものをつくる。何かを「自分の母親にする」のである。
 満たされていない幼児的願望が、彼の幸せへの道を閉ざしているのである。これを満たすことでしか彼は幸せにはなれない。
 そして、その木に祈るのである。その木に手を合わせて、「自分が人を愛することのできる人間になれるように」と祈ることである。
 辛いときにはその木を訪ねることである。苦しいときにはその木に訴えることである。その木はあなたが独占できる。
 幼児的願望が出てきて重苦しい気持ちになったときには、その木のところに行って、「どうか私の幼児的願望を解消してください」と願うのである。
 たとえば、愛着人物を占有できないことでおもしろくなくなったとき、愛着人物が自分以外の人に関心を向けていることで不愉快になったとき、自分の努力を認めてもらえないとき、そうしたときには、その木を訪れて、手を合わせて、「お願いです、どうか私の幼児的願望を解消してください」と頭を下げるのである。
 そうしているうちに、また別の安らぎの木を見つけたら、「これも自分のお母さん」と思えばよい。

『自分のうけいれ方 競争社会のメンタルヘルス』(加藤諦三) より