相模原障害者施設殺傷事件の植松聖被告の死刑が確定しました。判決は当然としても、これに関連してふと感じたことがあるので投稿します。
少し前に障害者の強制不妊訴訟の問題が取り沙汰されました。
さて「戦前・戦中は軍国主義だったので自由がなく、戦後は自由と民主主義の新しい良き時代、という構図は虚構である」という、いわゆる典型的な産経新聞型の論を張るにあたり、WGIP(ウォーギルドインフォーメーションプログラム)による日本人の腑抜け化政策だとか、日本人に加害意識を植え付ける為の歴史教育改変、平和や不戦の誓いと言った美辞麗句を建前とした上で国民から安全保障意識を喪失させる為の政策といった論点が俎上に載せられることは、これまでもよくあったと思います。
ただ私は、戦後民主主義なるもののおぞましさ、下劣さ、異常さを語る上で、もう一つ欠かすことが出来ない点に、戦後進められたこの「優生思想」による強制断種や強制不妊手術の実施などの「障害者差別」があると思っています。
「優生思想」とは、要は障害を持っているような、つまり「劣等な」遺伝子を持つ国民を淘汰しつつ、優等な国民がより多く子孫を残せるようにすれば、全体として民族の精鋭化がなされるという思想のことであり、かつてはこの思想が障害者差別や人種差別の正当化につながっていました。(植松被告にも通じる思想だと思います)
現代の倫理観では当然批判されるべきものですが、実は戦前の国際社会においてはこの優生思想はひろく一般的な支持を得ており、ナチスドイツを例に挙げるまでもなく、アメリカや欧州各国などでも優生思想に基づく障害者への強制断種や強制不妊手術が大々的に行われていたのです。
なお、優生思想は現代でもたまに議論されており、植松被告のような異常者のそれは最早論外としても、例えば「新型出生前診断」とそれに伴う中絶の是非だとか、そういったあくまで個々人の責任と決断においてのみその存在が許されて良いのかどうか、というような議論となっていて、まあこれはこれで色々と議論を深めるべきだとは思いますが、ここではそれはさておいて、それ以前の話をさせて頂きます。
戦前・戦中の日本でもこの国際的な潮流に倣えということで、1940年に「国民保護法」を成立させ、強制断種を一応は進めていました。しかし、着目すべきは戦前・戦中と戦後の件数の差です。
障害者に対する強制断種や強制不妊手術が国民保護法の施行以降、終戦まで(厳密に言えば失効する1947年まで)の5〜6年間で全て合わせても僅か530件程度しか実施されていなかったのに対し、戦後は、国民保護法を事実上引き継いだ「優生保護法」(1948年成立)によって、1952年から1992年までに少なくとも約1万6000件(知的障害者、精神障害者、らい病患者等)もの強制断種、強制不妊手術が行われていました。なお、これらは氷山の一角とされており、実際はこの数倍の件数が実施されたとの指摘もあります。ちなみに92年までとしていますが手術の強制性への風当たりや人道的見地から後半は尻窄みになっていて、これらのうちの大部分は1952年〜1961年までの10年間に行われていました(ピークは1955年で年間1250件、1980年代は全体で75件)。
つまり戦後になって突然、優生思想による障害者への強制断種、強制不妊手術が数十倍の規模で推進された事になるわけです。
障害者の人達にしてみれば、むしろ日本の敗戦によって障害者虐待の一大キャンペーンが開始されたわけで、自由と民主主義どころか完全に暗黒時代の幕開けとなりました。これこそが、GHQが我が国にお与え下さった自由と民主主義とやらの裏の顔なのです。
戦前・戦中の日本において強制断種が今ひとつ広がらなかった理由は、やはり我が国が当時としては意外にも大変リベラルな潮流を許していたきらいがあった点や、天皇のもと皆平等という「八紘一宇」の価値観と天皇を中心とした家族中心主義の概念の存在が、合理主義のもとで弱者や敗者、他者への無慈悲なまでの虐待を推奨する思想を根底に持っているヨーロッパ発祥の優生学というものを、今ひとつ受け入れられなかった点にあったと思っています。
「銃後を守れ!国防は台所から!」をスローガンに女性の立場から我が国の軍国主義を先導したとされている「国防婦人会」なども、実は「女性は家中にいるべしという古い価値観を脱し、(戦争にかこつけて)女性も外へ出て社会参加に加わろう」というウーマンリブ運動の先駆け的な側面がありましたし、当時支配していた朝鮮半島の出身者である朝鮮人を日本人と同権平等の「一等国民」として扱ったり、同盟国ドイツの意向を無視して河豚計画によってユダヤ人を多数救出して日本国内に匿ったりするなどの軍部の諸政策も、当時としては大変リベラルなものでした。
当時天皇は絶対的存在であり、天皇のもと皆平等という「八紘一宇」の価値観も絶対視されるべき思想でした。そしてそのような八紘一宇の思想においては当然、障害者も平等に保護されるべき対象になります。当時の人権感覚ですから、座敷牢とかそういうことはままあったにせよ、強制断種などという、いかにも大陸的発想のむごい行為を当時の日本人が簡単に受け入れられたとも思えず、それが手術件数の少なさに顕れていたのだと思います。
一方、戦後は、戦前・戦中の価値観が全否定されます。八紘一宇も禁句となります。
軽武装・重経済のもとで合理性・経済性が重視され、教育分野もGHQに牛耳られて国民教育は置き去りにされました。民族意識も捨て去られ、名実ともに骨抜きにされたのは、多くの保守派が指摘する通りでしょう。そして、八紘一宇思想の忘却の最大の副産物こそ、障害者への無慈悲な差別意識の萌芽だと思っています。それこそ生産性のない、育てても見返りのない障害者などは断種によって子孫を作れなくしてしまえばいい、と。その方が「経済的に有益」だから。そういう合理的な大陸由来の薄気味悪い自分勝手の思想が自由や自己決定権の名の下に跋扈し、それと同時に、我が国固有の、人種を問わず誰にでも手を差し伸べる八紘一宇の価値観を捨て去った集大成こそが、手術強制の助長につながったのだと思っています。
ある意味では、敗戦によって欧米型の価値観を受け入れたことによるとばっちりを、最もえげつない形で受ける事になってしまったのは、まさに障害者の人達だったのではないかとも思うわけです。
植松は裁判中にナチスを賛美していたなどと報じられていますが、むしろ私は植松を生んだ根源には戦後民主主義があると思っています。