東日本大震災から10年。


我々はどういうわけか、5とか10に「区切り感」みたいなのをつけがちである。それが良いとか悪いとかっていう話ではなくて。私もまたその一人である。バンドの時もそうだったけど、10年経つと当時のことを例年以上に思い出してしまう節がある。


当時、自分は何をしていたか。


卒業を間近に控えた大学4年生でした。
それまで地方で一人暮らししてたけど、もうその頃には東京に戻って来ていて、東京で就職も決まってたし、実家で暮らしながら、居酒屋のバイトに明け暮れてました。


そんなんだったので、言ってしまえば昼夜逆転の生活を送ってました。あの日、あの時間もいつもの如く寝てました。


一気に目が覚めました。


積んでいたCDは雪崩を起こし、教育実習で教え子たちから貰った色紙はブーメランの如く部屋の中を飛んでいました。


「すんごいのが来たな~」


そのぐらいの認識でした、正直。


そしていつものようにバイトに出掛けました。
綾瀬駅に着くと、電車が動いていないと。
さっきの地震が影響しているようだ。
バイト先に連絡しても繋がらない。
仕方ないから駅前のカフェで時間を潰しました。

バイトは無しになって、帰宅しました。
テレビつけたら想像を絶する光景が目に飛び込んできました。
そこで初めて状況を知りました。


近所の保育園では、夜7時ぐらいになっても、親御さんを迎えを待つ園児がわんさか。きっと、迎えに来れてないのだろう。
勤めに出てた母親からのメール。安否確認。家族みんなは無事のようだ。


えらいことになってるな、と。
と、同時に私個人にも早急に対応しないといけない事案を抱えていました。


2日後に私主催のライブイベントを控えていたのです。


そのイベントはいくつかコンセプトがあって、その一つに「世の困ってる人への支援」というものがありました。チケット代は募金するという。


ライブハウスのマネージャー・ロクさんに電話しました。
ハコの状況としては、大きな被害は受けてないとのこと。そして気になる開催の可否について聞いてみた。
そしたら「普通にやろうよ」と。今でも覚えてる。
軽々しく聞こえるんだけど、すごく意味が詰まった言葉だったんじゃないかと思ってる。私のただの思い込みかもしれないけどね。


ライブは決行すると決めた。


ライブ前日、我々は朝からリハがありました。
綾瀬のレッドで。ベースのショーゴは電車で来ます。でも北千住から先は動いてないとのことで、きっとタクシーなんかもないだろうしで、チャリで迎えに行きました。
北千住でショーゴを拾い、2ケツしてレッドに向かいました。道中の商店街では、珍しく手作りおにぎりなんかを店頭で売り出していて。帰宅困難者に向けたものだった。


スタジオに着いたものの、1時間もないくらいしか音合わせできなかった気がする。


当時、チャコフィルのコピーバンドもやっていて、そのメンバーは足止めくらって帰宅できなかったって言ってたかな。


ニュースなんかを観ると、世の予定されていた
イベントなんかは軒並み中止。やれ娯楽だ、やれ不謹慎だという言葉が蔓延ってました。

とりわけ、電気を消費する我々のその「娯楽」も世の非難の的になってました。


当時のブログでも書いてましたが、
状況が状況だから、それぞれの立場で賛否が別れるのは無理ないだろうと。ライブをやる・やらない、どちらを選んでも正解で間違い。みんなが同じことをやらなくても良い。気持ちは同じでも、自分らのカラーで発信していけばいいのではということを信じました。正しくは、信じようとしていました。


そして、被災者ぶってはいけないんだということ。


とはいえ、演者もお客さんも多かれ少なかれ不安はあったと思います。ライブに参加したことで、自身の不安を少しでも和らげられたり、募金を通して、決して他人事ではなくて、ほんのちょっとでも力になれたかな?って思ってもらえたり。


それからこのイベントは合わせて3回やりました。3回やってハイ終わりということではありません。イベント開催は手段にしかすぎなくて、目的ではないのです。


今は違う手段で向き合っているつもり。
逆に自分がお客さんとして、そういう類いのライブイベントに足を運んでみたり、グッズを買ってみたり、Yahooで毎年やってる検索募金だったりね。


話は変わりますが、大学の卒業式は中止になりました。そりゃそうだよね。
別日に卒業証書を受けとる日を設けられたのだけど、それすらも行けませんでした。電車が動いてなくて。。
そんな切ない感じで学生生活に幕を閉じて、社会人になってしまいました。


それからはというものの、高校時代の友達が仙台に転勤したということで、みんなで遊びに行ったことがありました。


被災地だったその土地は、形容しづらい生々しい印象がありました。
あの時と同じ3月に訪れたけど、とっても寒かった。当時はほんとに大変だっただろうな、大変だったってもんじゃなかっただろうなと思いを馳せました。


「当時の津波はこの高さです」的な看板があって、私の身長を優に超えてました。もしあの時この場にいたら確実に飲まれていました。


仙台では名物・牛タンをたべました。牛タン屋を梯子しました。食べすぎだろってぐらい。でもある意味で、コレも被災地に対する経済的支援になるのかな?って思いました。


翌年、仕事でも仙台に行きました。
車窓から見えた仮設住宅の数々が、まだまだ復興道半ばであることを物語っているようでした。


この10年で主に西日本地域での災害も目立ちました。関東だっていつ、何が起こるか。防災リュックを買ってみたり、常時、水を備蓄してみたりと、多少の備えはしてるつもり。他人の支援をどうこう言う前に自分の身の回りに対する備えも大切だよな、きっと。と、今日という日に改めて。


ボーイスカウトやってた時の組織のモットーだったが、スローガンを思い出しました。


「そなえよつねに」


刻む。