2024年 4月 3日
このブログは、自閉症スペクトラム障害であり、抑うつとパニック障害の経験のある私が、どのようにしてより良く豊かに生活していこうとしているか、日々を綴っているブログです。
日常での気づきや、ためになったこと等、シェアもできたらと思っております。
読んで頂き、少しでも参考になりましたら幸いです。
力を抜いて生きる事の難しさ
職場に段々と慣れ、勤め始めて早1ヶ月半が経ちました。
現在のところ、環境が違うと、こうも働きやすいという事を実感しております。
新人パートの私にもできる事がある有り難さ。
繁忙期が終わり、今は研修もしつつ仕事しております。
職場では全員参加で『考え方研修』なるものもあり、人間関係がぎくしゃくしないように、対策されています。
ある一定のソーシャルスキルや、仕事を円滑にするためのスキルは必要ですが、障がいがある・ないに関わらず、会社(事務所)として環境を整える用意や対策がされているのは、心強い限りです。
ところで、そんな心配や不安がない環境にいて、尚どこかで力が入っている自分に気づきました。
最初の疑問は、
「なんで毎日こんなに疲れるんだろう?」でした。
生きるって、こんなに疲れるの?
以前どこかのサイトかブログで、
『発達障害を抱える人は、生きることそのものがストレスになる』
と書いてあるのを読んで、とても共感したことがあります。
確かにそうだ、間違いない、と思ったものです。
でもその時の環境は、今と全く違います。
確かに自分に合わない、悪いストレスしかない環境にいたら、誰だってそうなります。
ただ、ASDはあらゆる外的刺激に過敏で弱く、ストレスを貯めやすい思考と認知機能であるのは確かです。
一般の人と比べると、時と場合によってはたちまち適応障害になりかねません。
加えて一般の人よりも忍耐強く、我慢する力も変に強かったりします。
同じASDでも千差万別ではありますが、世間一般に広まってしまったアスペルガー症候群や自閉症スペクトラムのイメージは、実際と比べて偏りがあるのは事実だと思います。
一方で、その自分達と接する事に、困り事を抱えている人達がいるのも事実です。
私の母は、私を相当育てにくかったと思います。
もしこのASDの遺伝が母方の祖父から来ていれば、母もその気があった可能性もあり、尚の事子育ては困難だったはずです。
同時に私も母親に対して、相当悩まされました。
他にも色々と人間関係で苦労して来ました。
実家、学校、施設、職場。
自分の脳機能の偏りもあり、大変なことが本当に多かったです。
偏見や偏った情報に惑わされず、解決を計る難しさ。
その中で生き抜いていくので、力を抜いて生きろと言う方が無茶でした。
向き合った末、今回の疲れの原因は、そんな長年の人間関係の経験があるために、常に何かに身構えて生活しているからだと思いました。
もしまた嫌な人に遭ったらどうしよう。
また攻撃されたらどうしよう。
心の中で、『このヒト、嫌だな』と思うと、不思議と相手も気付きます。
これが毎日『嫌なヤツだ』とばかり思っていると、これは相手を自分から攻撃しているのと同じことになり、相手もやがて自分を攻撃してくるようになります。
これを自覚できてから、また1つ力を抜くことができました。
毎度のことですが、すべての人間関係がこれに当てはまるとは思いません。
例えばいじめなんかは特殊だと思います。
身を守るのが先決な場合、周りにどう思われようが、逃げる・避ける・会わないが肝心な事もあります。
ありのままでいた方が人から愛される
年齢を遡るほど、私は人の目を気にしていました。
それはとても病的だったし、妙に取り繕おうとしたものです。
年齢を経るに連れ、また施設で訓練していく内に、段々と気にならなくなっていきました。
自分の発達障害を受け入れようと葛藤していた時、心理学者の加藤諦三先生の本に出会い、確か劣等感が題材だったと思います。
『人は何かにつけて、他人に良く見られようとするが、本当はありのままでいた方が人から愛される』
文言はこのままではありませんが、この言葉に出会い、そうだったのか、と目が覚める思いをしたのを覚えています。
結局、変に取り繕おうとすればするほど人間関係はこじれるし、また自分自身にとっても良くない結果になるんです。
妙に人に合わせる、だったり、すべて人の言いなりになる、などです。
これに気付けると、またひとつ人間関係で少しは悩まないようになります。
自分を大切にすることに罪悪感は不要です。
ほんの少し変えてみるだけでも楽になります。
楽することは、罪ではないんです。