T-式 仕事法 全編(1)
        目        次
  はじめに・・・・・・・ ・・ ・・・1
第 1 章  二十一世紀の星・・・・ ・ ・・ 3
第 2 章  人格の仕事・・・・ ・ ・ ・・・7
第 3 章  仕事の進め方・・・・・ ・・・10
第 4 章  問題は何か・・・・・・・・・ 22
第 5 章  社訓・・・・・・・・・・・・ 25
第 6 章  志気を鼓舞する・・・・・・・ 29
第 7 章  仕事の遂行力と困難性・・・・ 45
第 8 章  概念の理解・・・・・ ・・・・49
第 9 章  情報の伝達・・・・・ ・ ・・ 61
第 10 章  経験の蓄積・・・・・ ・ ・・ 65
第 11 章  問題解決の方法論・・・・・・ 67
第 12 章  アイデアが君を救い会社を救う 75
第 13 章  心に残る教訓・・・・・・・・ 79
第 14 章  ものを売ると言う事・・・・・ 81
第 15 章  販売株式会社の設立について・ 83
第 16 章  引き合・見積・受注・・・・・ 95
第 17 章  受注交渉 ・・・・・・・・・ 101
第 18 章  調達活動 ・・・・・・・・・ 109
第 19 章  設計活動 ・・・・・・・・・ 115
第 20 章  生産計画 ・・・・・・・・・ 120
第 21 章  生産工事・・・・・・・・・ 116
      終りに・・・・・・・・ ・・131
    

はじめに
 
 Tー式 仕 事 法(さくら造船のために書き残す)
 
さくら造船の社歴四〇年を迎え、今この会社を卒業するに当たり、社業がさらに発展し、堅実なものになって行くことを念願し、今日まで為し得なかったことの多くを反省すると共に、これから、この会社を背負って立っていく人のために、幾許かの参考となるものを書き残して惜別の書としたい。その内容は、四〇年の間に筆者がこの会社で、先輩から伝授されたことであり、また筆者自身がそれぞれの仕事の中から必死になって考え出したものである。ただこのようなものは、この会社の日常の業務の中で、言葉としては言い伝えられているが、書いたものとしては残されてないように思う。
 人それぞれの生い立ちや、立場の相違があって、その考え方に違いが出てきて、仕事との各方面で異説を唱えるのは仕方のないことである。会社の経営が良いときは、少々問題があっても、従業員の旺盛な志気で包含してしまうので表面には出てこない。しかし今日のような社会環境、経済環境下に於いては、この会社もいろいろの困難に直面せざるを得ない。このような場合一番問題なのは、従業員の間の協同意識と個々人の責任感である。会社の危機に即して、従業員間で仕事を進める上での意見の対立があったり、責任の転嫁や逃避があっては、幾ら経営者が声を大きくして、その一致団結を要請し、経営の合理化を叫んでもなかなか効果が上がらない。
 今までにも、総決起大会、八五計画、九〇計画、平成元年計画、経営理念の確立、・・等色々の危機突破対策がその時、その時の状況に応じてとられてきて、この会社の生き残りを果たしてきたが、せっかく努力しても危機が過ぎると元の木阿弥になってしうことを考えてみると、その原因がどこにあるのか、じっくりと考えて見なければならないであろう。
人間によって構成される会社もまた、個人と同様に、その人格に相当する社格と言ったものが、すべての理念の土台にならなければならない。経営上の売り上げ計画、利益計画、などの数値計画のみが先行し、日々の仕事や生活について、人格的な拠り所を持たない集団の集まりでは、この会社の永久的な生存はあり得ないであろう。 
幸いにして、この会社には古くからの伝統と、良き風土が伝えられ、細々ながら一部の人々によって守られてきている。今これらの会社の基礎となるものを、会社の危機に直面して一層の不動のものにするべく、全社が行動しなければならない。
 言葉は激しくなるかもしれないが、この会社の将来を思い、あえて今なにを考え、何をなさなければならないか、筆者の心のすべてを述べ、この会社への覚醒の一灯としたい。



第1章       21世紀の星
 
 会社に毎日出勤して、自分に与えられた仕事を間違いなく、所定の能率でこなして行く人、いわゆる定常業務である。世の中がびっくりするぐらい変わらなければ、この種の定常業務をしている人は、そんなに会社の仕事で困ることはないであろう。この会社には、このような定常業務に対しては、社内標準、作業標準、業務施行の規則が完備しており、それを忠実に守っていれば、1年ぐらいのうちに担当業務のすべてを覚えるであろう。新入社員のみならず、新しく職場に配転されたものは、それぞれの職場の定常業務について、上記の標準や規則で、または先輩を見習うことによって、習得して行くものである。しかしその定常業務も業務の内容が高度化し、質的、量的に多くなって来ると、なんとか作業方法を改善しようとして個性的になり、色々の困難に道遇するようになる。この時期には定常業務といえども、他からの干渉や指示があり、思うように業務が進行せず、業務に動揺が見られるようになる。この動揺期間は人によって異なるが、非常に長い人も短い人もいる。大抵の人はこの動揺期も、根気良く努力をしていれば、経験を積むにしたがって克服し、安定した業務が出来るようになる。その様子を下図に示す。

 この図の曲線は、その人ごとに異なり、立ち上がり部分の早い人、遅い人、熟達度の高い人、低い人、また動揺期の長い人、短い人様々である。別の言い方をすれば、「この会社に入社して、急速に頭角を現し、周囲の注目を引く人もあれば、ぐずぐずして仲々ものにならない人もある。」ということである。

 筆者の述べたいことは、このように何故、人によって異なるのかという原因である。従来は、この原因はすべて、その人の素質とか努力の結果であるとして、人事考課もそのように評定されてきた。

 それぞれが個性に満ちた素質を持って、同じ会社に籍を置き、同じように業務を行いながら、何故このように差が出るのか、根本的な原因の追及をすることなくして、いたずらに人事考課で、昇級、昇格の差を付けて、その志気を煽るのではその者の会社生命をちじめてしまう。

 筆者は、この問題はこの会社のみならず、日本のすべての企業に共通する非常に重要なことと考える。このことについて、真剣にものの本質の面から考え直す必要があると思う。結論から云えば、この差の出てくる原因の根本はその人の人格であり、哲学であって、仕事にたする基礎をどの様に認識しているかである。

 この本の全ての章は、仕事と人格の関係を解明しようとするものであり、仕事を進める上での、いろいろの手段、方法の概念、(命令、指示、報告、申請、承認、決裁、責任、権限、予定、計画、見積、原価、など)をどの様に認識するかを述べようとするものである。

 これらの概念の認識がそれぞれの個人、および会社の中で、きちんと出来ているかどうかが重要であり、ひいてはこの会社の存続を左右するのである。具体的には、冒頭で述べたような、従業員間での、いざかいや、責任のなすり付け合い、昇級、昇格の不平、不満を解消し、それぞれが人格の仕事をやるようにすることである。

 今、この会社が社会の中で、大きくはないが、さん然と輝く21世紀の星となるかどうかは、いつにこの点に掛かっている。
              
                                                       
第2章        人格の仕事
 
 会社の中で、仕事をしている人を見ると、その仕事具合でも、非常に忙しく駆け回っている人、悠々とマイぺースでやっている人、或いは机の上に雑然と書類を溜めてそれにうずくまっている人、そんな中で、誰が見ても非常にスマートに要領良く、かつ美しくやっている人がいる。例えば同じ書類を作るにしても、下書きを何枚も何枚も作って、データをごじやごじやにしてしまうもの、文字を丁寧に書かず、他人に判らなくしてしまうもの、いたずらに物事を複雑にしてしまうもの、色々である。

 例を挙げよう。雨の中でゴルフをしたとしよう、ある人は走り回って、ずぶ濡れになるのに、ある人はそんなに濡れることがない。混雑した道路を歩いて行くのに、ある人は右左と、うろうろと曲がりくねって行くのに、ある人は大体真っ直ぐに歩いて行く。 このような違いはどこからくるのだろう。普通には、これは要領が良いとか、要領が悪いとかで片付けてしまっている。

 会社で仕事をしていて、このように要領の悪い人に対しては、もっと物ごとを考えて仕事をせよ、もっと要領良く仕事をせよと言う。会社はこのような場合作業標準や、仕事のサンプルを見せて、もっと要領良くやるように指導する。本人もなんとか改善するように努力はするが、なかなか効果が上がらない。そのうち諦めて、なるが儘に放置するようになる。このようにして大勢が共同して進めるべき会社の仕事を、自己流の、身勝手な方法で仕事をするようになる。長年このようなことに慣れてしまうと、いつの間にかその自己流が、一番正しい方法であると盲信してしまうようになるのである。

 この原因は、人格の問題である。即ち人格の確立が不足しているのである。人格を支える認識が欠けているのである。会社に於ける自分の仕事に対する、認識の問題であって、その認識如何が、仕事に対するやり方を決めるのである。

 人夫々に考えがあり、それを一つの枠の中に括ってしまうことはできないが、共同体の中で、複数の人が仕事をする以上、それぞれの仕事に対する認識が全く異質のものであっては、会社の仕事は成り立たない。むしろ異質と言うよりそれに対する無関心と言うか、無認識というか、無智であることの方がより問題である。

 例えば『命令』という概念があったとしよう。これをどの様に認識しているか、この会社では人ごとにその解釈が異なる。これについては後で詳しく述べるが、ある人は絶対実行し完成すべきものと解釈しておれば、ある人はできないものは仕方ないと思っている。 先にも挙げたように、会社の仕事の中には、この命令のほかに数沢山の概念があり、その認識が人ごとに異なり、それぞれの人格を構成しているのである。この本はこの問題について、人格と仕事の関係を、詳しく見ていくことによって、今までの様に、表面的な教育指導でなく、夫々の個人の内部から、認識された仕事のやり方が、概念的に理解出来るようにしたものである。

 それぞれの会社には、社訓と言うものがあって、会社の創業時に、会社の創立の精神や、将来にわたって維持すべき精神を定めている。また会社のそれぞれの時代ごとに、その社訓にもとづく伝統や、風習と言うものを大切に守ってきている。従って、以上述べたように人格の、どうのと、難しく言わなくても、日常真面目に、周囲の中で仕事をしておれば、自然のうちにその会社の良き風土が身に付き、その人なりに人格を形成して行くものである。

 しかし世の中が平穏に過ぎておれば、何等問題ないが、一旦会社に緊急事態が発生すると、この様な会社の風土が確実に定着してないと、揺らぎ始めるのである。一般的に言える事であるが、このような風土と言うものは、自然的に伝えられるもので、文章などに書かれ、それが法律のごとく正確に取り決められているものでなく、いわゆる暗黙の了解事項である。非常に緩い了解事項である。それ故に、その認識の程度に個人差が出てくるのである。もちろん会社の良き風土と言っても、世の中の流れが、創業時と現在では大きく変わり、その流れに順応できない事態になっているかも知れない。改革や、リストラが叫ばれるのはその様なときである。環境の変化への追従の問題は、大変重要であるが、ここで述べようとするのは、仕事そのものへの認識の問題であり、各個人の人格の問題である。その理由はこの問題は人類不変のもので、環境や、時代を越えて変わるものでないからである。

 この章の結論として述べたい事は、この会社の良き風土に培われた、幾多の伝統を正しく認識し、人格のある仕事をやるために、それぞれが目覚める事である。
      

第3章       仕事の進め方
 
 この章は今から十数年前に筆者がこの会社の、ある職場にいたとき、部下に話したしたものである。ここにその原稿があるので以下にそのまま写す。 
 
 本日の話は、常々頭の中に存在していることではあっても、会社生活三十年の間に人に話したことは殆どない。海外のプロジェクト工事の現地で一緒に仕事をしたメンバーに、その一部を話した事はあるが、あまり関心があるようではなかった。

 この様なことは、会社に入社すればどの部署でも充分に教育されていることであり、また職場の上司がいちいち説明しなくても、幼児が自然に言葉を覚えるごとく、それぞれが自然に体得するものである、と思っていた。しかしこの事業本部に移って来て、幹部の人々、或いは各職場の人と話したりしているうちに、これらの人は仕事の進め方について、一体どの様に考えているのか、またどの様に認識しているのか、疑問に思うことがしばしばあり、この様な基本的な事が身についてなくて、どうして毎日の仕事が出来るのかと不思議にかつ残念に思った。

 今日は、すでに皆さんはこの事をどの様に考えているのか、それを確認する意味もこめて、話しをするので、
(1)私の言わんとする事が何か、良く耳を澄まして聞いてほしい。
(2)真意を理解せず誤解されると、その本人にとって長い期間、 
  (自分で気が付くまで)大きな迷いや、ロスを生じるだろう。
(3)私の話は上手でない。また今まで書いたこともないので、充分に 
   理解して貰えるように話が出来ないかもしれない。出来れば
   この中の誰か一人が日本語で、他の一人が英語で、聞いたこと、
   理解したことを書いてもらいたい。それによって私が話した
   ことが本当に理解されたかどうかを確認したい。

 会社に出勤して、毎日同じ様に時間一杯一生懸命仕事をしている。
 ある人は机から一時も離れず熱心にいろいろの資料を作っている。
 また会議などでも、堂々と自分の意見を述べている。それにも拘
 らず、この事業部内では、あいつはよく喋り過ぎる、あいつは理屈
 が多すぎる、あいつは実務ではあまり役に立たない、などと人物批評 
 が盛んである。一見私の見るところでは、その人は熱心に仕事をして
 いるに拘らず一般にあまり高く評価されない。
 とどのつまり、あいつは真面目だが、くそ真面目で、要するに仕事の 
 要領が悪いのだという結論になっている。一方、それでも要領よく仕
 事をしている人と言っても、いろいろの種類がある。いわゆる調子が
 良くて、良く上司に取り入ると共に、同僚にも愛嬌よくやる人気者も
 いれば、立て板に水のごとく喋り、人を煙に巻くが、その実、日中は
 余り仕事をしてない者もいる。このように要領の良い人も、また調子
 の良い人物として仲間外れにされる。

 それやこれやで、何年も何年も会社勤めをしていると、いつの間に
 か、こんなことから超越して、自分のペースで仕事を進め、他人が何
 と言おうが、会社の方針が何と示されようが、我、関せずで、達観の
 境地になり、定年退職まで無事勤まるようなレールを着々と築いて行
 くようになる。

 我々の会社生活、ビジネスライフはどの様にあるべきか、何千人かの
 従業員の中には、或いは何百人かの事業本部の中には、光り輝くよう
 な人物がいて、その周囲のものも、一目も二目も置き、且つ同僚をど
 んどん引っ張っていくような、会社にとって誠に好ましい人物が時々
 見当るものである。

 私の単純な疑問は、同じ様に会社に入社し、同じ様に毎日毎日仕事を
 しているのに、どうしてこの様に極端な差がつくのかと言う事であ
 る。『そんな事は判り切っている』と大抵の人は言うであろう。即ち
 その人の人格は善であり、人一倍努力するからであり、そうでない人
 は駄目なのだ、と言うのが私の疑問に対する大方の回答である。

 小学校から大学まで、今までの学校教育は大体この様に考えるべきで
 あると教えられてきた。そして、努力せよ!一生懸命働け!頑張れ!
 といわゆる会社への忠誠と貢献を要請され、なおかつ会社のためには
 個人を犠牲にしてでも頑張れと言われてきた。このような考え方は、
 多かれ少なかれ、日本の会社では社会的に常識化されてきている。

 私は、上記の疑問について、このような常識的な見方でなく、もっと
 詳しく見て行こうと思う。
 話を現実的にするため、いかに優秀な人格と立派な成績を持って入社
 してきた新入社員でも、入社当時は大きな期待をもたれた人物でも)
 そのときの上司が、もしも個人的な偏見で もって、その人物を好かな
 かったり、適切な教育をしなかった場合には、いかに本人の努力が続
 けられても、高く評価されず、また職場のエキスパートとなり得ない
 であろう。
  以下に具体的例を挙げて説明をしよう。

 プロ野球の球団にジャイアンツがある。ジャイアンツに入団するくら
 いのプレーヤーは素質から言って非常に優秀である。しかしこれらの
 選手の中で、ある人は大スターになり、ある人は何時の間にか消滅し
 てしまう。先程の話と同様に両方とも努力もし、激しいトレーニング
 を重ねている。それなのになぜ差が付くのか、差をつけるのか、と言
 う事である。識者は、 一人一人の個性を尊重し、どのようなものも努
 力する限り平等に扱えと言う。また本来平等で、 あるべき人間になぜ
 差をつける必要があるのかと言う。しかし、現実の会社や野球のチー
 ムの中には、立派なりリーダーがおり、またアンカーがおるのであ
 る。
 この問題については、本日の本題と少しずれるので、後日に譲るとし
 て、本題に戻って話を進めたい。
 なぜ差が付くのか、それは本人の問題もあり、指導者の問題もある。
 そのいずれにしても、差の付く原因は、仕事の基礎が確かで、またそ
 れが充分に認識(理解)されているかどうかによると思う。高校野球
 や職場の野球では、プロ野球のごとく野球の基礎を入団の当初から、
 また毎年毎年のシーズンオフでのような訓練はしない。したがって
 個々のメンパーの自己 流というか、自然発生的な練習の積み重ねで行
 う。これはゴルフに於いても同じである。
一般のゴルファーは基本的にグリップがどうの、スタンスがどうのと、
 喧しく云うけれども、それでスポーツとしての基礎が叩き込まれるわ
 けでない。野球やゴルフに於けるプロとしての基礎の訓練は、一般の
 人の予想以上に厳しいものであり、厳格なものである。何もそれをや
 らなくても、野球を楽しみ、ゴルフを楽しむことは出来る。しかしそ
 れぞれのスポーツに於ける一流のスターは、このような基礎無くして
 生まれるものでない。このことは我々の日常生活の全てのことについ
 て言える。ひとかどの人物と呼ばれる人は、必ずその基礎がちゃんと
 体得されている。
 また、ただ無闇に、練習や、経験を積み重ねるだけでは、一流のもの
 になれないことは自明のことである。野球に於ける投球のフォームの
 基礎は何か、ゴルフに於けるスイングの基礎は何かという具合に、
 我々の会社に於ける個々の仕事の基礎とは何か、会社や個人に格差
 をもたらす原因たる基礎とは何か。 
これが本日の話の主題とするところであって、すでにある程度承知のこ
 ととは思うが、念のために、確認しておきたい。
 会社で仕事をする場合、社内規則とか従業員規定などがあり、大抵の
 仕事はそのビジネスルールがきめられている。しかしよく考えてみる
 に、今この事業部内には、SAS(SAKURAZOUSENN
 ADMINISTRATION STANDARD)があって、すべ
 ての仕事の標準が決られている。仕事で意見が食い違うと、[その事
 はSASに決められている]ということになる。今自分たちの周辺に
 は、このように膨大な作業基準がある。これを毎日の仕事にすべて記
 憶しておき、適用しようとしてもなかなか無理である。
 ここで述べようとしている事は、このような規定やルールの解説では
 ない。それらの因ってくる基礎について話をしようとしているのであ
 る。
 具体的に例題から入る。今ここで10億円の発注物件があったとす
 る。この発注に関するルール、例えば、物品要求書や、発注仕様書の
 作成要領、見積依頼の仕方、BQの詳細、見積書の査定の仕方、承認
 決裁の仕方、などがビジネスルールとして定められている。これだけ
 あれば余程のことがない限り、この発注業務はミス無く行われるはず
 である。
 しかし、物品要求書は誰が作るのか、またそれを作れと誰が命令する
 のか、そしてそれを誰の責任で決裁するのかと、いうことになると曖
 昧になってくる。さらに物品要求書は何のために作り、その発行者と
 発注者の職務権限と、責任の範囲はどうなのか。BQの誤りが発見さ
 れたとき、業者に対する会社の責任はどこにあるのか。或いは承認、
 決裁とは何を意味するのか。仕様書や要求書には印鑑がたくさん押さ
 れているが、それぞれの押印は何を意味するのか、と云うことになる
 と、この事業部ではすべて曖昧になり誰もそれに答えられない。それ
 ばかりでなく多くの人はその様なことにあまり関心を示さない。この
 ような基礎的なことを理解せずに、何千枚もの物品要求書を作成しよ
 うとも、その個人にとっては、何等自信のある経験とはならないであ
 ろうし、またそれ相応の評価も得られないであろう。

 次に移ろう。会社の仕事の大部分は、上司からの命令、指示、或いは
 権限の委譲で行われる。命令するものと、命令されるものとの関係は
 いかなるものか、即ち、命令や指示は、会社に於いてはその職場の上
 司が下の者に対して行われものである。これが原則である。したがっ
 て、職制組織上上司でないものは、如何に常識的事項であっても、命
 令することは出来ない。(昔の軍隊では、星数の多いものは星数の少
 ないものに対して命令することが出来たという)この会社の於いては
 どうか、この事業部に於いてはどうか、他部署の人に命令をしてみた
 り、甚だしいときは下のものが上のものに指示したりする。とくに
 プロジェクトのようにマトリックス組織で仕事が行われる場合は、命
 令系統が複雑になってくる。[命令とは、ただちに実行。その当不当
 を論じ、質問をするをゆるさず]これが古今を通じて認められた命令
 の概念だと思う。当然これに対していろいろな反論や疑問がある。即
 ち命令の内容によって、実行したりしなかったりするものだろうか。
 命令されたものの基本的人権が犯されるような命令が上司から出され
 ても、実行しなければならないのだろうか。到底実行が不可能なこと
 でも、実行しなければならないのか。このような疑問があっても、命
 令はとにかく実行しなければならないのである。

 命令という概念は、実行を期待して発せられるものであって、それが
 実行可能か不可能かの判断は、命令する側の問題であって、命令され
 る側の関知するところでない。ただ、命令を実行することによって、
 その人の生命身体を損傷するような事態が発生するとき以外は必ず実
 行しなければならない。

 ここで言う命令とは、次に述べるような報告の概念と共に、責任が伴
 うものであって、命令の結果責任は命令したものにあり、被命令者は
 報告している限り全く責任のないことがその実行の前提となる。

 次に、命令や指示、権限の委譲がないかぎり報告をしてはならない。
 また報告は命令されたことのみについて行うべきで、命令されないこ
 とにたいして報告してはならないのである。

 判り切ったことと言うかもしれないが、会社中でこの関係が明確に認
 識されていないのが現状である。 出張報告と言って、あたかも自分が
 なにもかも調査してきた如く、各地の情報を、命令もされないこと
 を、コピーを沢山作って、命令された以外の関係部署へ報告すると言
 う例はよくある。

 この報告者は、忙しくかつ精力的に調査・研究をしても、命令されて
 ないものを報告するためにその評価は駄目である。
 それより常に命令されたことを直ちに実行し、その途中経過の報告
 や、結果報告を命令者が期待する方法で適格に報告するもの、あるい
 は上司から権限の一部を委譲されたものがその上司に代わって、その
 業務を遂行すると共に、その経過や結論を、逐次適格に報告するもの
 のほうが、遥かに高い評価を受けるのである。

 もしもこの事業部に、この報告に関する概念を充分に認識してない者がいて、いたずらに命令されたことの結果に対する責任を恐れて、報告を延ばしたり、事実を嘘報することとなれば、そのものがたとえ、朝から晩まで一生懸命仕事をしても、ハッピーな結末を得ることはなく、冒頭に述べたとおり、仕事の基本が理解されてないものとして、駄目人間として扱われることになるのである。
 もう一つ例を挙げよう。
 会社の仕事は、多く決裁と承認と言う概念によって仕事が進められ
 る。 一般に上司の承認を得た仕事は、何をやっても良いのでない
 か、決裁を仰いでやった仕事には、責任はないのでないか、と言う具
 合に考えている人が多い。会社では社長以下、一従業員に至まで、責
 任を持ってやらねばならない職務が決められている。

 一番ややこしいのは、本来自分がやらなければならない仕事につい
 て、例えば、上司の承認や、決裁を取り付けようとする場合である。
 上司の承認を得たからといって、責任は免れ得ないのである。この事
 を具体的に理解してもらうために現場の例を挙げよう。
 ある担当者が、ある物件の見積書を作成したとしよう。彼はBQを調
 べ、マーケットの価格や、過去の受注実績を調査して、徹底的に立派
 な資料や書類を作成しそれを課長に承認を貰った。課長はその膨大な
 資料を一見して、その見積書にサインしたとする。課長は念の為それ
 を部長に決裁を求め客先に提出したとする。そして客先から注文を受
 けたとする。その結果その物件を製作し客先に納入したが、先の見積
 もりに大きな見落としがあり、結果は赤字になったとしよう。

 この場合赤字に対する責任は、誰にあるのであろう。このような場
 合、社内の論議は大体次のようであろう。 担当者の言い分・・自分
 はいろいろベストを尽くして、見積書を作成し、その結果をちゃんと
 課長に見てもらって、承認を得ているのだから、赤字の責任はない。
 課長の言い分・・ 自分は担当者の見積書を、部長に充分説明し決裁
 を得ているのだから、赤字の責任は決裁者が取ってもらわないと困
 る。
 部長の言い分・・ 個々のことについては、担当者や、課長に常日頃
 任せてあるので見積書の内容をいちいちチェックするのでない、決裁
 をしたからといって、部長にまで見積もりの見落としの責任を押し付
 けられたらたまらない。

 この様な例は極端であるが、日常これに似たことはよくある。これは課長が決裁すべきところを、部長にそれを仰いだ結果の出来事である。承認とは何か、決裁とは何か、責任はどういう場合にとられるのか、という基礎的な認識がないために、この職場で本末転倒の事態が発生したのである。

 担当者は100万円の見積書作成にあたって、決裁、承認の基準がどうなっているのか、自分の担当業務として見積書を作成したのか、課長から特別に命令されて作成したのか、見積額100万円が課長にとって、決裁事項なのか、承認事項なのか。このような事が職場内で明確になってない限り、この種の問題は何時までも繰り返すであろう。

 一般に会社における仕事の流れは、
       仕事(担当者)   決裁(課長)  承認(部長)
 
       実行        YES     APROVE
                 NO      NOTED 
 となる。承認とは部下のものが決裁にあたって、その上司に承認を得
るというのが本来の姿である。決裁後であれば決裁時にSUBJECT TO APROVAL OF UPPER MANAGEMENT がつけられるであろうし、決裁前であれば承認伺いが事前に行なわれるべきであろう。

 上述のような理解なしに、程度の軽い決裁が承認であって、程度の高級なのが決裁というようなのでは話にならない。
 このように、もしも、決裁、承認という概念が従業員の間で正しく認識されていなければ、会社として、また組織として仕事が前に進まない。
 余談になるが、ある担当者の質問で、承認を取って行った仕事でも責任が残るというのであれば、何も一々上司の承認を取る必要はないではないか、それでは承認の意味が無いではないか、一体承認を得た場合その上司は何をしてくれるというのか、と言うような議論を持ち掛けられた。

 このような場合、私は承認の意味を次のように説明している。
ある事について承認するということは、上司はそのことについて、承認の範囲内容にしたがって実行しても良いと認めることである。上司は承認したことについて、そのものが実行していることに異議を唱えたり、実行を差し止めることはしないと云う事である。したがって、いかに承認を得たからと言って、その実行の責任は承認を申請した人に残るのは当然である。承認した上司は、その個々の仕事の実行の責任は取らない代わりに、当人の身分や地位と言った、その人の人格を保証するのである。

 もう一つ他の例を挙げよう。
資材購入の例である。当社の資材担当と、メーカーのベテラン営業マンがお互いに交渉したとする、当社の担当クラスが職制上、職権上何の決定権も無い状態で、メーカーにいくら値引交渉をしても、相手は営業のベテランであり、なかなかそれに応じて呉れないであろう。この場合担当者からよく聞く不平は、自分に交渉の仕事はやらされても、決定する権利がないので決められない。重要な段階になると、上司の出席を求めなければならない。上司が出席しても、細かいいきさつや、事情を知っているわけでなし、それまでの自分の根回しが直ぐにばれてしまい、交渉が旨くいかなくなる。決定権がなければ他社の人と交渉出来ない。以上のようである。
 この場合、担当者が仕事の進め方を充分に理解しておれば、どの様になるであろうか。担当者は自分に与えられた仕事の範囲内で、いろいろのデータを調査すると共に、相手と予備交渉をするであろう。ある段階までは、自分に任された(権限委譲)範囲で、適宜上司に報告を入れながら交渉を詰めて行くであろう。そして交渉が煮詰まって、最終的に決めなければならない時期になったとき、まず承認伺をとっておくことも一方法であろう。承認伺いとは、これこれの線であれば決めたいが、その場合は承認して貰えることを事前に上司に伺いをたてて置くことである。
 そうすれば、交渉の席に於いても、自信を持って交渉することが出来るであろう。承認事項であるにも拘らず、自分の一存で(一生懸命自分としてはベストを尽くした積もりで)決めても、決定後承認が得られず交渉のやり直しを命ぜられたりした場合は、非常に困難な事態となるであろう。このような事を繰り返していれば、交渉の相手は今後二度と信用はしないであろう。
他にもSUBJECT TO APPROVAL OF HIGHER MANAGEMENT という方法も在るであろう。
要するに、仕事の中で決裁とか、承認とかの概念を充分に認識しておくことが、ここにいう[仕事の基本を知って仕事をする]と言う事なのだ。
ただ闇雲に、自己判断で寸刻を惜しんで仕事をしても、それ自体は労としても、会社とか、グループとかチームという組織体にとっては益にならない事は今更いうまでもない。会社の中で、優秀な人間とそうでない人間の差は、この様なところから発生するのであって、決して個人の能力や、仕事量から来るものでないことを考えてもらいたい。それぞれは、皆立派な人格を持って会社のためになるように努力している。唯仕事の基本を知ってやっているかどうかである。

 以上の話は、決裁や、承認について話をしたが、会社で仕事を進めていく中で、他にもいろいろな概念がある。以下にその一部を挙げよう。果たしてこれらのものについて、会社中でその概念の理解がきちっと統一されているかどうか、考えてみる必要がある。

  (1)サインや押印をするときは、その意味は何か。
  (2)申請と認可(許可)
  (3)提案と採用
  (4)連絡、通報、通知
  (5)職務、義務
  (6)会社に於ける責任と権限
  (7)部署間の協議
  (8)命令と報告
  (9)チェック、レビュー、見直し
  (10)改正、変更、訂正
  (11)見積
  (12)プロジェクト
 これらは、各自の経験と業務の範囲に応じて、関係する概念の項目は次々に拡大して行くものである。しかし、それらの一つ一つについて解説するまでもなく、初めの基礎が充分に理解されておれば自然に会得されるものである。
最後にこの事業本部に今必要なことは、全員がそれぞれの分野に於いて、以上のべた仕事の進め方の基礎を充分に認識して、トータルとしての仕事を組織的に進めることである。我武者羅に盲目滅法の仕事では長続きしない。                                                             
                   一九八五年二月二八日

 
 この講演は仕事の進め方に付いて、その一部を述べたものであるが、当時の部下の何人かは感動し、会社に於ける仕事の改革に取り組んで効果を上げた。
今まで、このように仕事の進め方そのものは、かって上司から聞いたことがないし、またこの様な見方、考え方で説明されたことはなかったという感想であった。
 この章は、この本を書いて行く上でのプロローグとして、初めにその全体像を把握してもらい、以下の個々の説明を理解し易くしたいと思って、10年前の原稿をあえてあげた次第である。

 この本を書く今日になっても、上にあげた原稿は、筆者自身には未だ新しいものとして蘇ってくる。一方、この会社の困難な時に会社の一人一人が上司、同僚、後輩と互いに言い争ったり、また各自自身が仕事を進めていく上で諦めや、縮こまった卑屈な姿勢になったりすることのないように念願し、この本がこの会社の多くの人にその奮起を促し、日常の仕事に信念を持ってやることによって、この会社が磐石のものになることを期待する。

第4章 問題は何か
 
 何時の時代でもそうかもしれないが、この会社の問題は経営を担当するものと一般従業員の乖離であり、とくに従業員の間に燻る覇気の欠如である。
 そしてその根本の原因は、仕事に対する概念の認識が統一されてないと言う事である。その因って来たる所は、長い年月の間の慢性的な仕事の取組であり、経営者層の従業員を牽引して行くときの哲学の不足である。

 言葉の上の議論では、過去にいろいろの人々の間で繰り返されており、例えば、社外のコンサルタントなどを入れて経営の方針が議論されてきている。ここではそれを繰り返すのでなく、もっと仕事の現場で日常発生している具体的例をあげながら、上記の問題を解決する方法を提起して行きたい。

 この会社で、部長や課長、或いはそれよりも上級の役員層でも、自分の部下が
             『自分の言う事を聞かない』
とこぼしている。幾ら言っても直ぐに言い訳やら、屁理屈を言ってなかなか実行しない。事実かどうかは知らないが、最近会社のトップ自身でも、上に似た言葉を言って嘆息していたと聞く。こんなことがあってはならぬと言う事は、すべてのものはよく知っている。しかし現実には、この会社では上司の言う事を無視したり、歪曲することが巧妙に行われているのである。そんな事はないという人があれば、これ以上この本を読む必要はない。しかし言葉は激しくなるが、この日常はびこる根本問題を避けて通ることは決してすべきない。『自分の言う事を聞かない』と言うことの表現が曖昧であり、それを命令と解釈するのか。単なるそれを言う人の思い付きとするのか。受け取る側の認識上の問題であり、また言う人の側の言う事に対する信念の度合いの問題でもある。

 それでは『言う事を聞かない』と言う場合の意味を考えてみよう。
(1)言われたことは口頭による命令であって、絶対に実行しなければ
ならいと、了解し実行する場合。
(2)言っていることは、広く一般に云っていることであって、それを
実行すべき人は該当者のみである。
(3)言っていることは、何時も言っていることであって、言っている
人の癖である、したがってそれを実行しなくても余り問題ない。
(5)言っている側も、そんなに力を入れて言っているのでない、単に
参考意見を述べているのである。実行するかどうかは受取る側の
オプションである。
(6)言っていることは尤もであるが、その事が出来るか出来ないで、
実行するかどうかが決まる。
(7)言っていることは尤もであるが、それが必要か必要でないかで、
実行するかどうかが決まる。
(8)言っていることが正当であれば実行するが、間違っているときは
実行しなくてもよいと判断する。
(9)一回ぐらい言われただけでは、まだやる必要はない。2回3回と     
   言われればやらなければならないだろう。 
以上の例のように、言う事を聞かないという言葉の意味は、命令を受け付けない、命令を理解しようとしない、命令を無視してしまう、と言う具合にその時の状況により色々のかたちに理解される。また言う人と聞く人の立場によってその理解が異なり、言う人の地位や権限によっても言う事の受取り方が違ってくる。
具体的に表現すれば、長い習慣のうちに、言う側の信念が曖昧になったり、聞く側の真剣さが欠如して来て、この会社の中に、いわゆるナーナー主義が定着しているのでなかろうか。筆者はかって自分の上司が全員を集めて、[言うべき立場のものは、言うべきことを勇気を持ってちゃんと言い、聞くべき立場のものは誠実にそれを聞くべきである]
と話をされたことが何時までも忘れられない。この章を終わるに当たって、次のような場合、この本の読者はどの様に行動するのか。一人一人でよく考えてもらいたい。
 * ある客先から引き合いがあって、自分の上司から、この案件は重
要だから是非受注するようにと言われた。
 * 社長から、各事業部長に今年の売り上げ目標は是非達成するよう
にといわれた。
 * 事業所長が、全員に対して今年の労働災害は無事故であるよう、
   放送で指示した。
 * ある日、事業部長が、各職場を巡回し設計部長に各自の机の上を
もっと綺麗に整理整頓するようにといった。

後の章で、これらの問題について詳しく述べる積もりであるが、筆者の言いたい事は、会社における日常の仕事を進めて行く上で、[問題は何か]を深く洞察し、その根本にあるものを理解し認識して、自分の人格の仕事が出来るようにする事である。そうすることによって、上司や同僚の横顔をのぞくよな仕事振りでなく、或いは長いこと伝わってきた会社の慣習的仕事や、慢性的なその日暮しの仕事から脱却することができるのである。ひいては会社の社格を高める仕事が出来るようになるのである。

     
    第5章       社訓
 
 昭和の初め頃までは、どの会社も社訓というものがあった。日本の企業が個人の所有のものから、一般の株式会社化されるに及んで、企業のトップである社長の人生観とか、企業観とかが、重要視される事なく、また一方で、創業時から伝えられた社訓も、そんなに絶対視されなくなった。一般従業員から昇進した経営者が、企業をマネージするようになってくると、企業も個人的なものから公共的なものになってくる。そうすると、一個人の性格によって企業が左右されるような、企業姿勢はなくなってくる。

 従って、企業の目的も次第に経済優先の企業となり、売り上げの拡大、利潤の追及といった面が強調され、企業の社会的使命といったものが、お題目的、装飾的なものとなって来る。

 端的にいえば、昔の社長は、企業の理念とか社会的責任を重じ、とくにその創業者は、非常に優れた経営判断のもと、如何にして、その企業の社会的地位の向上に努めたかがわかる。一方現代の社長に課せられた最大の任務は、経営を合理化し、会社の経済的安定を計るということになる。

  一人の従業員が、入社してから退職するまでの30余年という人生の大部分を過ごすその会社に於いて、その会社がどの様な社訓を持ち、どの様に社会に貢献しようとしているのか、その経営の理念が明示され実行されているかによって、その従業員の人生は大きく影響されるのである。

 勿論のこと、経営戦略や長期年次計画と言ったものが策定され、企業の売り上げや、利潤追及が行われなければ、どうにもならないことは十分承知の上での話である。
 しかし企業が如何に利潤追及型であっても、その企業の活動を行う従業員が社会的に幸福であると同時に、その人格が形成される場であることがその前提であろう。
 したがって、企業と個人の関係はこの様な経済的な活動と、人格の仕事をすると言う観点から考える必要があろう。
 社会という言葉を、人間の生きる場と考えるなら、企業の中の個人は次の4つの社会の中にあると言う事ができるであろう。
 すなわち個人の住居としては、その家族社会の中に生き、一方仕事を通して会社と言う社会に住んでいる。そして文化や風俗習慣言語を共通する民族。国家と言う社会にも住んでいる。さらにそれらを取り巻く、現代と言う時間的社会に存在している。

 社会の中の個人と言う観念でとらえた場合、会社と個人の関係を、何も特別視する事なく、家庭と個人、民族と個人との関係と同様に考えることができるであろう。即ちその究極とするところは、個人と社会との関係である。

 この本は、会社と言う自分の所属する一つの社会の中における、人間の活動(仕事の進め方)のあるべき姿を探ろうとするものである。
 この会社に於いては、今日までこの方面に於ける研究がなされてなく、またなす必要のない時代であった為に、あるいはそんなに研究をしなくても、自然のうちに、すべての従業員は習得して来たために、そのまま放置されて来たのである。

  話を具体的にするため、再び『命令』の例を挙げよう。
会社の中で、仕事をしているときに、『命令』と言うことがある。
上司から命令されたら、それは絶対的に実行しなければならないものであると一般に理解されている。
旧軍隊では、命令とは直ちに実行、その当不当を論じ質問をするを許さず。と言うように規定されていた。現代の企業内の命令はどうであろう。上司から命令されれば、直ぐに実行にかからなければならない。もしそうしないと、その職を外され、他部署へ配置替えとなるであろう。そして上司の命令は、通常『当』を得ているものと了解されている。 しかし時々あることであるが、上司の命令が『当』を得てなく、また会社にとって好ましくないと、部下によって判断されたときは、事態はさらに複雑である。かつまた上司の命令が、それを実行することによって、命令されたものの、生命や、身体に危害を及ばす恐れのあるときは、またはその命令が著しく社会的通念に反するとき、そのような時にでも、会社における上司の命令に部下は従わなければならないのか、と言うような論議も当然起こってくるであろう。このような例として、戦争や紛争地域に、業務命令で出張する場合である。

 以上のように、旧軍隊のように厳しく解釈する場合と、そうでない場合に、会社ではどの様に対応して行くのか、これを現実的に解決するためには、ここで言う『命令』という概念を根本的に認識し理解することが重要である。即ち命令を組織を統率する一つの手段として扱うのか、仕事を実行して行く場合の、一つの手段として扱うのかによって、その概念の解釈が異なってくる。

  以上は命令と言う一つの概念に付いて例をあげたが、ここで述べようとすることの要点は、会社の中で仕事を進める時には、この本の中で述べるような数多くの概念について、各自が確固たる信念を持って、それらを認識していることであり、またそれが、その会社中で統一された共通の認識事項と成ってなければならないと言う事である。各会社には、冒頭に述べた社訓のような立派な会社の経営理念がある。これは一時の思い付きや、その場限りの合い言葉でなく、その深い洞察と、周知を集めた普遍の哲学である。経済優先の、いわゆる売り上げや企業利益の追及の考え方は確かに重要である。しかし企業と言えども、大きな社会環境のなかで、お互いに共存して成り立って行くためには、まずその会社の企業風土とでも称するべきよって立つところのものが、しつかりしてなければならないであろう。

そして問題は、抽象的な現実批判の議論でなく、今まで誰もが触れたがらなかたもの、或いは、具体的に気が付かなかったもの、暗黙の了解事項のように曖昧であったものに対して、勇気を持って、信念を持って誰かがやらなければならないと言う事である。

この会社が未来への星として輝きつづけるために、この会社の全員が今やらなければならないことは、このことであると断言する。