今回は、ラザロと金持ちの譬えは何を意味しているのか、という事について記載していきます。

ラザロと金持ちの譬えがどのような話なのかについては、この記事では割愛させて頂きます。この譬えはルカ16章に書かれていますので、読んだ事がないという方や、どんなたとえ話だったかを覚えていない方は、まずは聖書を確認してみて下さい。

 

多くの人は、このたとえ話が、人は不滅の魂を持っていて、死んだらすぐに天国か地獄に行くという事を証明している、と考えています。この話を他のたとえ話と同じように見るのではなく、死後の記述について文字通り受け取ってしまうのです。

では、この話を文字通り受け取ったとしたら、本当に一般的に信じられている事が書かれているのか、この話をよく吟味してみましょう。

 

まず注目すべきは、ラザロという貧しい人が死んだ後、天使によって天に上げられたのではなく、アブラハムのふところに送られたという点です。

 

以前の記事でも記載した通り、イエスは

「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。」(ヨハネ3:13)

と説明されました。

そしてラザロという貧しい人がアブラハムと一緒になるのは、キリストの再臨の後でなければなりません。これは、聖書によると天使がキリストにある死者を集める時であり、復活の時に起こります。(マタイ24:30-31)

 

第一の復活にはアブラハムも含まれます。

なぜならへブル11:13では、アブラハムと他の信仰を持った男女は、約束のものを受けずに死んだと書かれているからです。

ラザロとアブラハムは共に生きているように描かれているので、これは義人(第一)の復活の後でなければなりません。

 

さて、ルカ16:23を口語訳聖書で見てみると、

「そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」

と書かれています。

新共同訳聖書では、「陰府」という言葉が使われていますが、この黄泉、或いは陰府と訳されている箇所は一体何を意味しているのでしょうか。

 

KJV(King James Bible)とNKJV(New King James Version)には何と書かれているか確認してみます。

 

「And in hell he lift up his eyes, being in torments, and seeth Abraham afar off, and Lazarus in his bosom.」(KJV/Luke16:23)

 

「And being in torments in Hades, he lifted up his eyes and saw Abraham afar off, and Lazarus in his bosom.」(NKJV/Luke16:23)

 

日本語訳聖書で黄泉或いは陰府と訳されている箇所は、KJVでは「hell」、NKJVでは「Hades」と書かれています。

 

新約聖書のなかでhell(地獄)と訳されているギリシャ語は、実は三つあるのです。この三つの言葉とは、「Hades」「Gehenna」「tartaroo」です。

 

このルカ16:23で使われているHadesの意味は、「墓」「死者の場所」等を意味します。そして「Holman Bible Dictionary」は、”「Hades」はヘブライ語の「Sheol」に相当するギリシャ語で、一般には死者の場所を指す”という説明をしています。

 

又、詩編16:10と使徒2:27は、SheolとHadesを用いて、キリストが三日三晩死んでいた時の体の場所を表現しています。(マタイ12:40)

 

Gehennaとはヒンノムの谷のことで、New Bible Dictionaryには「エルサレムに近い谷で、異教徒の儀式に関連して、子供が火で生け贄に捧げられた」という説明があります。

そしてこのGehennaは、黙示録19:20に書かれている「火の池」を表し、悔い改めない者を完全に滅ぼす消えない火(マルコ9:43)です(マタイ10:28)。

 

Tartarooは聖書では2ペテロ2:4に一度だけ登場し、悪魔(堕天使)が後に裁きを受けるまで拘束されている状態を指す。

 

聖書の真理は、神が究極的に公正で慈悲深い方であるという事です。

上記で説明した通り、神は不道徳な者を罰しますが、慈悲深い方法でそうされます。

他の記事でも記載してきたように、悪人は焼き尽くされて永遠に死にますが、永遠に焼かれて拷問を受けたり、神から永遠に引き離され、永遠に苦しみの中で生き続けるという話は、聖書の真理ではありません。

 

話を戻します。

金持ちは死んで葬られ、その後、墓(Hades)からアブラハムとラザロの二人を見た事が記されていますが、その為には、彼もまた生かされたのでなければなりません。

伝道の書9章5節の一文は、死者の状態に関する聖書の教えを要約しています。“死者は何事をも知らない”。

従って、このたとえ話において、金持ちはもはや死んでおらず、復活した状態にあったのであり、そうでなければ、アブラハムに会う事も、会話をする事も出来なかった筈なのです。

 

ヨハネによる福音書5章28-29節で、キリストは

「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。」

と言われました。

 

聖書では、3つの大きな復活が示されています。(復活について①,復活について②

 

以前の記事で復活については詳しく記載していますが、ここで改めて簡単に確認しておきましょう。

まず、キリストの再臨の時、時代を通して死んだ神の忠実なしもべたちの為の、永遠の命への復活があります。それが第一の復活です。(1テサロニケ4:16-17)

 

1,000年のキリストによる地上の支配の後、大多数の人々のための肉体的な命への復活、つまり第二の復活があります。(黙示録20:5,12)

そして悔い改めず、悪を行った者が第三の復活でよみがえり、裁きを受けます。第三の復活でよみがえった悪人は、神の正しい裁きを受け、火の池で滅ぼされ、そこからの復活はもうありません。(黙示録20:13-15)

 

このラザロと金持ちのたとえ話を、死者は永遠に燃え続ける地獄や天国で意識があり続けるというように解釈してしまうと、聖書全体の広い文脈に明らかに矛盾する事になります。

 

しかしこの話は、聖書の他の聖句と一致しているのです。

 

アブラハムとラザロは一緒にいる事が示されていますので、これは第一の復活の後に起こる話だという事が分かります。

一方、金持ちは火の池で焼き尽くされる前に、ほんの短い間だけ意識がよみがえったのです。つまり第三の復活によってよみがえったのが金持ちです。

 

アブラハムはルカ16:26で以下のようにこのように言いました。

「そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。」(ルカ16:26)

 

アブラハムとラザロは霊の不滅の存在となっており、もはや死ぬ事は出来ませんが、金持ちは永遠に死のうとしていたのです。

 

この時金持ちは、アブラハムに自分の5人の兄弟が自分と同じように焼き尽くされる状況にならないように、訪問して警告してほしいと頼む。しかし29-31節で、アブラハムは金持ちに、彼らにはモーセと預言者とがあるから、彼らのいう事を聞くべきだと言う。

それでも金持ちは、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』と言い張った。

 

それに対しアブラハムは、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』と返したのです。

 

これがラザロと金持ちのたとえ話です。

このたとえ話から私たちは何を学ぶべきなのでしょうか?

 

私たちはモーセが書いた書物や預言者の書物にある言葉に耳を傾けた方が良いのです。神の掟を破った事を悔い改めなければならないのです。

 

そしてキリストの再臨を前にした今も、

「あなたがたは、わがしもべモーセの律法、すなわちわたしがホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めとおきてとを覚えよ。」(マラキ4:4)

と戒められます。