およそ2,000年前、イエスキリストは
「And I also say to you that you are Peter, and on this rock I will build My church, and the gates of Hades shall not prevail against it.」(マタイ16:18/NKJV)
と言われました。
因みに口語訳聖書では以下のように訳されています。
「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18/口語訳)
【以前の記事「ラザロと金持ちの譬えは何を意味しているのか」に記載していますが、「Holman Bible Dictionary」は、”「Hades」はヘブライ語の「Sheol」に相当するギリシャ語で、一般には死者の場所を指す”という説明をしています。詩篇16:10と使徒2:27は、シェオールとハデスを用いて、キリストが三日三晩死んでいた時の体の場所を表現しています(マタイ12:40)。
従って、「Hades」は死者の場所、つまり「墓」と訳すべきです。】
もしキリストの言葉を信じるなら、その教会は今日も地上のどこかに存在していなければなりません。
教会とは何か
まず初めに、教会とは何かという事を理解する必要があります。
今日、「教会」という言葉は、定期的に一緒に礼拝する人たちや、人が集まる建物を指すことがあります。
しかし「教会」とは建物を指しているのではありません。
マタイ16:18で、イエス様がご自分の教会を建てると言われたときの「教会」と訳されたギリシャ語は「Ekklesia」です。
「Ekklesia」をBible Study Toolsで調べると、
- 自宅から公の場所に呼び出された市民の集まり、集会
- キリスト教的な意味での宗教的な会合で、礼拝のために集められたキリスト教徒の集会
といった意味を持つ事が分かります。
聖書的には、教会とは教団や人間の組織や建物ではなく、神がその時々に共に働いておられる人々のことです。教会の初期の歴史では、多くの会衆は一握りの信者からなる小さなものでしたので、誰かの家で集まっていました(1コリント16:19、ピレモン1:2)。
このような人々が家に集まっても、"教会"と呼ばれたのです。
ではイエスキリストの教会はどこにあるのでしょうか?
主はご自分の教会を建てることを宣言したのですから、私たちがその教会を見つける事が出来る方法を示されるのは当然の事です。
聖書は「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エペソ4:5)であり、「イエスキリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わる事がない」(へブル13:8)と言っています。
そして1世紀の終わり頃、人々がイエスキリストの教えを変え始めたとき、ユダは真のクリスチャンに「聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦う」ようにと言いました。(ユダ1:3)
今日、キリスト教は様々に変化しており、多くの人が本来の信仰に忠実ではなかった事は明らかです。
これらを理解した上で、イエスキリストが設立した教会を探していきましょう。
キリストが建てた教会とは
イエスキリストが建てた教会は、家柄や社会的地位や性別は関係なく(ガラテヤ3:28)、父なる神によって召された人々で構成されています。(ヨハネ6:44)
ここでキリストのこの発言に注目して下さい。
「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」(マタイ6:44)※45節も確認
人間は他の人を神の教会のメンバーになるように誘う事は出来ません。神の教会のメンバーになる為の招待は、神からだけ来るのです。御父だけが人の心を開き、その人が神の招きに応じることが出来るようにされるのです。
ほとんどの人は気付いていませんが、聖書はサタンが「全世界を惑わす」(黙示録12:9)と言っています。
神のメッセージは、「この時代の神がその心の目を見えなくしている」(2コリント4:4)人々には、ベールに包まれ理解されません。
ですから、「肉なる心は神に敵対している」(ローマ8:7)ので、人が真に神の前に来る前に、父なる神は、神と神の生き方に自然と敵対しているこの心を開かなければならないのです。
そして救われる人たちを日々教会に加えられるのは神なのです。(使徒2:47)
私たちが注目すべきポイントは、父なる神だけが人々を神の教会のメンバーになるように召すことが出来るということで、人間が勝手に、自分が改宗させたいと思う人を招き入れる事は出来ないという事です。
父なる神はすべての人が救われる事を望み、一人でも滅びる事を望んでおられませんが(1テモテ2:4、2ペテロ3:9)、人をいつ招待するかは、神のみが決定されるのです。
父なる神は人を召す時期をそれぞれ決めておられます。そして救いの日は、ある特定の一日だけではないのです。
このあまり理解されていない真理は、神の毎年の聖日において明らかにされています。(これについては、別記事で詳しく記載していきます。)
サタンは全世界を霊的に欺き、盲目にします(黙示録12:9、2コリント4:4)。
このため、私たち人間は皆、神と神の生き方に自然に反対しており、神に対する私たちの抵抗は非常に強いので、私たちが神の言葉を理解し、神の指示に応えようと思うには、奇跡、つまり神による直接の介入が必要なのです。
聖書は、イエスキリストの弟子たちの人生において、この奇跡をどのように描写しているかに注目して下さい。
イエスキリストの死と復活の後、キリストは弟子たちに現れ、十字架につけられる前に彼らと交わした議論を再現したのです。
「イエスは言われました。「以前、いっしょにいた時、モーセや預言者の書いたこと、それに聖書の詩篇にあることは、必ずそのとおりになると話して聞かせたはずです。忘れてしまったのですか。」 イエスが弟子たちの心の目を開いてくださったので、彼らはやっと理解しました。」(ルカ24:44-45)
イエス様の弟子たちは、イエス様がご自分の死と復活に関する預言について話すのを聞いたことがありましたが、それまではよく理解できていませんでした。
しかし、その預言はすべて意味をなしていたのです。弟子たちは、聖書をこれまで以上に深く理解したのです。このような理解の深まりは、神が人々を召されるときに起こることです。
聖書に反する教えには、第七日の安息日を守る戒めを否定し、日曜礼拝を強制し、過越祭と神の毎年の聖日を否定し、一方でクリスマスやイースターなど異教に根ざした日を祝うことなどがある。
イエス様が弟子たちに言われたように、「ハデス(墓)の門はこれに打ち勝つことはできない」(マタイ16:18)のです。
この明確な約束のゆえに、私たちは、神の教会が紀元31年のペンテコステの日に創設されて以来、存在し続けていることを知っています。しかし、その歴史をたどることは困難です。教会がどこでどのように続いてきたかを明確に述べることが難しい理由の一つは、この教会は小さいと預言されていたからです(マタイ7:14、ルカ12:32)。
イエス様はまた、教会が迫害される運命にあることを説明されました。「もし彼らが私を迫害したなら、あなたがたも迫害されるでしょう」と、キリストは十字架につけられる数時間前に、親しい信者に言われました(ヨハネ15:20)。
何世紀にもわたって、キリストが教会のために定めた教義に忠実であり続けた人々は、イエスキリストの教えに加えられた変更を受け入れないため、異端者とされるようになりました。
今日のイエスキリストの教会を見つける方法
多くの教会が、イエスキリストが設立した教会の継続であると主張しながら、その信仰は実に多様であるため、イエスキリストの教会が今日実際にどこにあるのかを判断することは困難な場合があります。
イエス様が設立した教会を見つける一つの方法は、現在の教会を新約聖書に書かれている1世紀の教会と比較し、基準に合わないものを排除することから始めることです。
聖書的キリスト教は、キリストを神の子として認め、自らをクリスチャンと呼ぶだけではありません。
イエスキリストは、真の信者は父の御心を行い(マタイ7:21)、父の戒めを守る(ヨハネ14:15)とも言われました。
ではこれから、イエスキリストの設立した教会の具体的な見つけ方を記載します。
名前について考える
まず、教会の名前について考える必要があります。
パウロは、教会について書くとき、主に「神の教会」と呼びました(使徒20:28;1コリント10:32;15:9;ガラテヤ1:13;1テモテ3:5)。
ある時は、信徒を「キリストの教会」(ローマ16:16)と言い、またある時は、「キリストにあるユダヤの教会」(ガラテヤ1:22)と言っています。
しかし、パウロは特定の会衆について書くとき、それを「コリントにある神の教会」(1コリント1:2、2コリント1:1)あるいはどこの教会と呼んだのです。
この名前は、「御名によって彼らを守って下さい。」(ヨハネ17:11)というイエス様の父への祈りと一致しています。
ですから、イエス様が建てられた教会は、"神の教会"と正しく名乗るのです。
礼拝日
もう一つは、礼拝を行う曜日です。イエス様が設立した教会のメンバーは「イエスキリストが歩まれたように歩む」(1ヨハネ2:6)ように努めたので、イエス様や使徒たち、新約聖書の初期の教会のメンバーがしたように、週の七日-土曜日に礼拝する教会だけを考慮する必要があるでしょう(ルカ4:16;使徒13:44;18:4)。
新約聖書のキリストの地上での働きの記録は、キリストの習慣が週の七日である安息日を守ることであり(ルカ4:16)、神の戒めを破ることをしばしば非難したことを示しています(マタイ15:3、6、9;19:17;マルコ7:8-9)。
また、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」(ヨハネ14:15)とはっきり言われたのです。
キリストの戒めは、ある人々が間違って信じているように、父なる神の戒めとは異なるものではありませんでした。父なる神とキリストの戒めは同じ戒めです(マタイ5:17、19;19:16-19)。
そして忠実なクリスチャンを識別する方法の一つは、戒めを守ることです(黙示録
12:17)
神の教会という名前を持ち、土曜日に集会を開いている教会だけに絞ると、多くの教会が排除されます。
しかし、イエスキリストが設立された教会には,土曜日に集まる多くの教会を排除するような、さらなる教義がまだあるのです。
聖日
聖書は、1世紀の神の教会が、神から古代イスラエルに与えられたこれらの日(レビ記23章)を、キリスト教の意味を持ちながらも守っていたことをはっきりと示しています(1コリント5:7-8; 使徒2:1; 20:16; 27:9)。
神の教会のメンバーは、クリスマスやイースターといった異教に根ざした日ではなく、これらの日を守ることになります。
教会の名前、土曜日の礼拝、そして毎年の聖日を守っているかどうかで、今日のイエスキリストの教会を探す幅が大きく狭まります。
しかしもちろん、これらの基準は、イエスキリストの教会が教えている教義のすべてを表しているわけではありません。
イエス様はご自分の教会のために、さらに教義を確立されました。その中には、次のような教えが含まれています。
- 神は父なる神と子なる神から成っている(ヨハネ1:1)
- 人間には不滅の魂はない(エゼキエル18:4)
- 私たちは、信仰を通して恵みによって救われる(エペソ2:8)
- イエス様によって、私たちの罪は赦されます(使徒13:38-39)
- 人は、死んだら天国に行くのではない(ヨハネ3:13)
多くのプロテスタント教会は、イエスキリストが日曜日に復活されたので、日曜日に礼拝すると言っています。しかし、この教えは聖書と矛盾しています。
一般的に信じられている金曜日の十字架刑と日曜日の朝の復活は、キリストが「三日三晩」墓の中にいたという教え(マタイ12:40)には合いません。
金曜日の午後から日曜日の朝までの間に三日三晩という時間はないのです。
キリストの十字架刑、埋葬、復活に関する聖句を注意深く調べると、キリストは水曜日に十字架にかけられ、その日の午後埋葬され、土曜日の午後復活されたことが分かります。
これについては次回以降の記事で詳しく記載します。
イエス様はご自分の教会が小さくなり、この時代に永遠の命への道を見出す人が少なくなると預言されました(マタイ7:14、ルカ12:32)。
このような状況下では、なかなか近隣でイエスキリストが設立した教会を見つける事は難しいかと思います。
私自身も、以前は土曜礼拝の近隣の教会へ通っていたのですが、その教会を離れ、現時点では日本国内にはありませんが、「Church of God, a Worldwide Association」という教会を見つけ、聖書を学び、オンラインにて毎週の安息日及び毎年の聖日の礼拝に参加しています。