歴史は面白い。


勿論、私たちは歴史上の人物と対話する事は叶わないし、その時の様子がどうであったかなど目で見、肌で感じる事も出来ない。だからこそ、個々では確証の持てぬ史料というメディアを探索して、取捨選択をしながら知らねばならない。


見る資料によって得られる情報は異なり、新たな発見を見出す事が出来る。情報を切って、貼って、パズルのように当てはめていく。そうすると、人物像や事件の真相に少しずつ近づけたような気がするのだ。それが歴史について調べてきての私の感想である。


私の知識の一部を組み込んで、常日頃から考えている歴史のメディアについて語らせていただいたが如何だったか。歴史に興味がない人にでも判りやすいように努めた所存である。

歴史を知る事において、メディア・リテラシーというものは最も重要な事であると私は考える。現在でもこのメディア・リテラシー…すなわち情報の取捨選択というものは難しい。テレビで流れる情報、新聞で語られる情報が全て事実であると私たちは信じてしまうのである。そのメディア・リテラシーが歴史となると一層難しくなる。何せ数百年、もっと古い物ならば千年以上昔の記録である。


その事実を見極める事は参考にする信憑性のある史料か、そうでないか、から始まる。例に『信長公記』と『明智軍記』を挙げてみよう。

前項でも紹介していたが、前者の作者は織田家の家臣であった太田牛一という人物であり、身近な場所で織田軍を見てきた信憑性の高い史料である。そして、後者。後者の作者は不明。明智光秀死後百年ほど経った頃に成立したものである為に誤謬も多く、一般的に史料の価値は低いといわれている。この二者を比べてみると、『信長公記』の記述の方が遥かに信頼を置けるだろう。


現在は歴史を題材とした本や漫画、ゲームが多く普及している。私の祖母は読書が好きで、歴史の小説を読む事もある。私が今年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国』を見ていた時。丁度、その日の回は明智光秀が死亡する所であった。この大河ドラマのシナリオでは農民に竹槍で刺され、家臣たちに見守られながら切腹…という最期である。祖母はその時、さも自分が話している事が事実だ、というように「光秀は農民に刺されてその場で死んだ筈。信長は本能寺で逃げようと井戸に逃げ込んだが、煙に巻かれて死んでしまった」と私に言ったのだ。光秀の死については小栗栖の竹藪にて中村長兵衛という農民が竹槍で突き、光秀一度は堪えたがのちに落馬、家臣の溝尾庄兵衛に介錯を頼んだという説が一般説だ。光秀の最期(※)については祖母の意見は的を射ているだろう。しかし、信長の最期の展開は加藤廣氏の『信長の棺』によるものであることは間違いない。私はこの時ほど歴史小説というメディアが怖いと思った事はない。信長の死については死体自体は見つかっていないと言われるが屋敷に火を放って其処で自害した、という説が一般説である。

にもかかわらず、私の祖母は小説の内容を信じ切っていた訳である。つまり、歴史のメディアとは知識を大して持っていない人がそれを見れば、それが「史実」であると思い込ませる傾向があるのだ。


歴史小説というものはドラマであり、忠実ではない。歴史の流れを掴むにはこれほど良いものはないが、だからといってこれで忠実を知った気になるのは笑止である。


歴史小説というものは作者の知識、想像力、また人物の好き嫌いで大きく話の内容が変わる。


例えば、作家1は人物Aが好きで人物Bの事を嫌っている。一方、作家2は人物Bを尊敬しており、人物Aを毛嫌いしているとする。そうすると必然、作家1の書いた作品には人物Aが非常に格好良く書かれ、人物Bは酷くださく書かれる。作家2の書物では人物Bは正義、人物Aは悪として書かれるのである。


私の読んだ歴史小説では、三浦綾子氏の『細川ガラシャ夫人』では細川親子は非常に光秀に友好的で光秀に応じなかった事を心苦しく思っている姿が描かれ、桜田晋也氏の『明智光秀』の下巻では親子両方、元管領家としての傲慢さを持ち、見下している態度が見られ、好感が持てない。(個人的には息子の忠興はともかく藤孝は光秀の親友であった為に御家安泰の為とはいえ友を裏切った事に心苦しさを感じていただろう、と思いたい。)視点によっても、語る人によってもころころと変わってしまう歴史のメディアとは非常に厄介である。



※しかし、光秀の死については実に不明瞭で、「明智光秀」として挙げられた首は腐っていて判別が出来なかったと言われている。そして、光秀を殺したという「中村長兵衛」という人物を知る村人は小栗栖にはおらず、光秀に殉死したと言われている二人の家臣はその後細川に仕えているなど、秀吉側の記録に矛盾を感じる点が多い。

歴史とは一般に勝者によって作られてきた。必然、勝利を手にしたものは長所が誇張され、短所は軽微に伝わり勝ちである。方法や過程はどうあれ、大きな事を為した者、高い地位を獲得した者は歴史に名を残す権利がある。しかし、名声の前にその人格的欠陥を薄れさせているという事例が歴史には数多く存在し、私はどのような視点と考え方から勝者を見るべきかをこの項目では論述したい。


私は元々テロリズムや虐殺なるものに「どのような背景があったのだろうか」と強く疑問を良く抱く質であった。犯罪心理学やテロリズムについての本もよく読み漁っている、ニュースで犯罪の事を見て、「何故このような事をするのだろうか」など憤りもよく覚える。だからこそ気になるし、知りたい。学習意欲が刺激されるのである。   


そこで私はある程度光秀公について学習し終えたら、戦国時代を中心に虐殺について調べ始めた。はっきりと判った事としては調べれば調べるほどボロが出てくるという事。今まで知り得なかった事実が次々と出てくるのである。私は驚いた。歴史に興味を持たなければ、こんなにも欠点に気付かないのか…と私は愕然としたのだ。いくつかの例を挙げる。


一つは織田信長による一向一揆鎮圧である。時代が時代であるから、ある程度の殺人は目を瞑るべきだが、あまりに理不尽なものも存在し、それらを見て見ぬふりをする義理は私にはない。確かに一向衆は強大な力を保有していた。信長が一向宗の本山・石山本願寺を降伏させるのに十年もの月日を有しているのがその証拠である。まず、伊勢長島の一向一揆攻め。これは「反故」の例であると言える。反故―つまり争いを終えて和睦した後の騙し、争わない為の双方の決まりごとに対する蹂躙の事である。信長はこの伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降して船で大坂方面に退去しようとした長島城の門徒を一斉射撃、そして同じく投降してきた一向宗徒二万人を柵で囲んで、老人、女性、幼児も関係なく全員を焼き殺した。文字通り騙し討ちである。
そして、越前一向一揆。おそらく私が最も調べた虐殺である。この虐殺について調べ始めたキッカケは私が歴史の人物を簡単に調べる際によく利用しているサイト様『文芸ジャンキー・パラダイス』の光秀と信長の記事を見て、「本当にこんな事があったのだろうか」と疑問に思ったからである。
私的にこれは信長の最大の殺戮だと思っている。信長はこの鎮圧戦では降伏は一切受け付けず、男女の区別なく全てを皆殺しするように命令。これの悲惨さは『信長公記』『北陸七国史』『越州軍記』などに記されている。越前一向一揆攻めについては、信長が村井貞勝に宛てた書状が二つある。紹介する。


八月十七日付
【府中へ十五日相越し候て、二手につくり相待候処、案の如く五百・三百づつ逃げかかり候を、府中町にて千五百ほど首を斬り、その外近辺にて都合二千余をきり候。(中略)。府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候。見せたく候。今日は山々谷々を尋ね捜し打果すべく候。】


八月二十二日付
【西光寺・下間和泉法橋(頼俊)・若林(長門守)・其外豊原西光院・朝倉三郎景胤以下首を刎ね候後、人数を四手に分け、山々谷々残る所無く捜し出し、首をきり候。十七日到来分二千余、生捕り七八十人これあり、則ち首をきり候。十八日、五百・六百づつ方々より持ち来たり候。一向数を知らず候。十九日、滝川左近(一益)、手より六百余、惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)手より六百余、武藤舜秀手にて一乗然るべき者三百余、惟住五郎左衛門尉、朝倉与三要害を構え楯籠もり候を攻め崩し、左右の者六百余を討ち取り、生捕り百余人、則ち首をきり候。廿日、ひなたがけと申山へ前田又左衛門尉(前田利家)、其外馬廻者共遣わし、千余人切り捨て、生捕り百余人。則ち首を刎ね候。】


私が最も織田信長の人間性を疑ったのは一つ目の書状の最後の部分【府中は死骸ばかりにて一円空き所無く候。見せたく候。今日は山々谷々を尋ね捜し打果すべく候。】である。簡単に言えば、「府中の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」というものだ。「見せたい」とはどういう事なのだろうか。織田信長には秀吉の妻・ねねに送られた書状など優しさを感じさせる話も存在する。しかし、このような文章を書く彼の人間性は評価し難い。

歴史に興味が無ければ、これを知っている人は非常に少ないだろう。そういった意味ではマイナーである。英雄にも闇があるというものだ。

なお、信長は志半ばで倒れたため、「勝者である」とは言い難いものがるが、現代日本の評価という点から見てみると「勝者」と評価してもいい気がする。
(これらの一向一揆攻めについて、「一向衆の如き狂信者は成敗されて当然」と言っている人もいるが、この鎮圧は確実に無罪の人も巻き込んでいるだろう。)


そして、もう一つ紹介したいのが、豊臣秀吉による鳥取城攻めである。「明るくて人懐っこい」と想像されがちの秀吉であるが、調べてみれば酷い虐殺の事例がある。この城攻めで秀吉は信長に命じられ、毛利攻めを行った。戦略では兵糧攻めをとり、米を高値で買い占め、兵糧搬入を徹底的に遮断。秀吉は百姓たちに暴力を加えて、城に逃げるように仕向けさせたという。理由は兵糧の減りを速くさせる為である。城にあったのは二週間分の食糧。だが、この兵糧攻めが何処まで長引いたかというと、四ヶ月。『信長公記』(※1)の記述によれば、


【餓鬼のように真っ黒に痩せ衰えた多数の男女が柵際ににじり寄り、飢えに悶えながら城攻めの兵士に向かって、『どうか此処から出してお助け下さい』と泣き叫ぶ声の哀れさは目を背けずにはいられない。柵を乗り越えようとするところを鉄砲で撃ち倒すと、いまだ息のあるその者の所へ人々が集まり、手に手に刃物を持って手足を斬り離し肉を削ぐ。人肉の中でも特に頭は美味いものとみえ、首を奪いあい、逃げ回る。】


この酷い有様を見て城主はやむを得ず、開城して自害する。籠城者の為に粥が用意されたものの、一気に貪り食った為に、生き残った者たちも大半がショック死してしまった…という話であるが、『太閤記』(※2)では「急に米を食うとかえって死ぬ故、粥を一杯ずつ食べよ」と秀吉が言った為、死ぬ者はいなかった…と隠蔽されている。この隠蔽は私に歴史のメディアを疑う必要性、また勝者を疑う必需性を教えてくれた訳である。


私は、「英雄の欠点をつつけ」と言っている訳ではない。功績やうわべだけで人間性については語れない。勝者にせよ敗者にせよ、本当にこのような人物なのだろうか?と疑う必要がある。功績は認めるのは簡単な資料を見ればすぐに判る事であるが、人間性については自分でしっかりと探索し、考えた上で判断してほしいものである。



※1『信長公記』…織田信長の一代記。信長旧臣の太田牛一著。著述姿勢は非常に真摯、作者の詳細なメモを材料にして書かれており、内容的には史料としての信頼が高い。
※2『太閤記』…豊臣秀吉の生涯を綴った伝記。秀吉の右筆としても仕えた小瀬甫庵の著書。甫庵は太田牛一を「愚にして直な(正直すぎる)」と侮蔑の意を込めて評している点や虚構を入れている点などから、今日で言う「歴史家」ではなく「作家」として見る方が適切。

「敗者」とは何なのか。試合で負けた「敗者」、ギャンブルで負けた「敗者」、人生で負けた「敗者」。敗者にも色々あるが、勿論此処で話したいのはタイトル『歴史のメディア』からいうように、歴史における「敗者」である。


歴史の評価は厳しい。一昔前まではいわば「勝てば官軍」の世界で、敗者には容赦なしであった。単に悪者にされただけならまだいい。徹底的にカッコ悪く、イヤらしく歴史に書かれた例も少なくはない。「終わり悪ければ全て悪し」。この言葉が歴史の敗者たちを表すのに相応しかろう。たった一つの敗北で素晴らしい人間性を持っていながら、誇れぬ最期が強調される為に長所が色褪せてしまい、また極端に人物像が歪められてしまう。

私は其処に明智光秀の姿を捉える。現在のメディアにおいて、彼ほど典型的な敗者はいまい。織田信長の一般評とは、言わば戦国のカリスマである。彼が英雄として、歴史の教科書で何ページ、テレビで何時間、と長く広くメディアで扱われる事によって、光秀が自然と「英雄を殺した愚か者」というように他の敗者よりも圧倒的に悪いイメージを持たされるのは必然と言えよう。
もう一度言おう。歴史は変えられる。勝者によって、時の権力者によって。

さて光秀の性格については、よく秀吉と比較して、次のようにいわれている。


【光秀はインテリで陰湿で性格が悪かったため、信長の家臣らからは嫌われていた。それに対し秀吉は明るくひょうきんで親しみやすく、信長の家臣らからも人気が高かった。】
 
この説を主張する方々は「信長家臣らから嫌われていたのは明らかだ。山崎の戦いで信長の家臣らはほとんど光秀につかなかったのがその証拠である。」と、口癖のようにいう。しかし、冷静に数々の史料を眺めてみよう。すると、矛盾点が浮かび上がってくるのだ。

一つ目は他人からの評価である。秀吉の右筆である大村由己は光秀と利三(光秀の家臣)を他の武将たちと比類して、「平生嗜むところにただに武芸のみにあらず、外には五常を専らにし内には花月を玩んで詩歌を学ぶ」と絶賛している。「秀吉」の右筆が、である。秀吉の右筆にさえ好評価を与えている人物が織田家の家臣たちから嫌われていたというのはにわかに信じがたい。
二つ目はこの説における方程式である。もしこの説を採用するならば「光秀は性格が悪く人気がない=信長の家臣らはそのために光秀につかなかった」「秀吉は性格がよく人気があった=信長の家臣らはそのために秀吉についた」という図式を成り立たせる必要がある。しかし実際は、信長の家臣たちのほとんどが日和見を決め込んでいたのだ。光秀の親友である細川藤孝、その息子にして光秀の娘・明智玉子(のちのガラシャ)の夫・細川忠興でさえ光秀につかないという態度を示しただけで、最初から秀吉につく事を決めていた訳ではなかったし、彼らは中立の立場に立ったのである。また、秀吉は「信長様は生きて近江に落ち延びたのだ」という書状や噂を通り道である摂津などにばら撒いており(書状が確認されている)、中川清秀や池田恒興などはこのために秀吉についている訳である。つまり光秀の性格が悪く、秀吉の性格が良いという単純な説は成り立たない。

此処で実に歴史の情報が歪められているかを伺う事が出来る。最後にもう一つ言うならば、数々のエピソードなどから察するに「光秀は性格が悪かった」とは考えにくい。ちなみに宣教師ルイス・フロイスは光秀の敗因を、光秀の組下たちが秀吉の書状戦略より強引に引き抜かれた事から、「組下達から人質を徴して、しっかり地盤を確保しなかったのが光秀の敗因」というように述べている。


もう一つ。秀吉の「本能寺の変」後の信長評を紹介する。


【公は勇将であったが、良将ではなかった。剛が柔に勝つ事はよく知っておられたが、柔が剛を制する事をご存知ではなかった。一度背いた者があると、信長公はその者への怒りがいつまでも収まらず、一族縁者まとめて皆殺しになされた。降伏する者さえも躊躇なく殺すため、信長公への敵討ちはいつまでたっても絶えることがなかった。これは信長公の人間としての器量が狭かったせいであろう。強さや怖さで人に恐れられはしても、敬愛されることはない。例えて言えば信長公は虎や狼のようなもの。人は自分が噛み殺されるのを防ぐために、猛獣を殺そうとするであろう。】


なるほど、これは中々に酷な評価である。信長に対する素直な評価だったのかもしれない。しかし、一般的な秀吉の信長に対するイメージと言えば、やはり「主君の仇討ちをした真の忠臣」というものかと思う。私もこれを見るまではそう思っていたのだ。
本当に信長を敬うならば、もう少し違う言い方があったのではないか。これを信長が見たら、どのような反応を示すだろうか。間違いなく激怒するだろう。「死人に口なし」とはまさにこの事である。

この文を紹介した意図は何か。つまり、相手が死人ならば、その情報が合っていようと間違っていようと、どんなに酷評しようと、自分を英雄として祀り上げようと何とも言われないのである。そのようにして、歴史は歪められているのだ。

また比較的最近の例では、三浦綾子氏の著書『細川ガラシャ夫人』には戦後、戦争中の教科書がいかに天皇中心に編纂され、情報が歪められていたことを知った…という驚きの文章が前書きに綴られていた。そして、海外に飛び出してみると、アメリカによる西部劇もその例の一つと言える。権力者とは恐ろしい。

「明智光秀」という男に興味を持った。


歴史にどれだけ疎くあろうと、一度は授業でその名を聞いた事がある筈。織田信長に反旗を翻し、殺害した謀反人である。「三日天下」「逆臣」と罵られ、学校で教えられる情報に頼っている限りでは彼に好感を持てる人は少ないに違いない。かくいう私も彼が嫌いだった訳ではなかったが、やはり良い印象は持てなかった。

その明智光秀に私はひょんな事から興味を持った。私はウィキペディアに触れ、約二十枚に及ぶ彼の紹介ページを全てコピーした。まず一度、そして二度、ざっと読む。

其処で私はある話に惹かれたのだ。それは、光秀と妻・煕子の美談である。明智光秀室、旧名・妻木煕子という女性は非常に美しい女性であり、二人は許嫁であった。しかし、花嫁修業中、煕子は疱瘡と呼ばれる病にかかり、痘痕だらけとなってしまう。その美貌を一瞬にして失ってしまったのである。「こうなってしまった煕子を明智殿は受け入れてはくれまい…」と煕子の父は良縁の破断を残念に思い、煕子と瓜二つの妹を嫁がせる事にする。だが、光秀はそれが煕子でない事を見破り、「私は他の誰でもない、煕子殿を妻にと決めている。」と言い、煕子を正室に迎え入れた…という内容だ。女の私にとって非常に心に響いた話であった。(ちなみに夫婦仲は非常に良く、当時としては当然であった側室は置かなかったといわれている。)

この他にも気になった話は多々見られ、彼の人柄に酷く興味を持ったのである。私の明智光秀探究は此処から始まった。


私は夢中になって彼の事を調べた。創作活動も全く身に入らず、勉強も身に入らない。家に帰れば、何時間も何時間もパソコンの前に居座り、彼について調べた。

私は当初、歴史というものは好きではあったが、知識は浅かったし、興味があったのは幕末や三国志であった。つまり、戦国時代というものは全く興味がなかったのである。現在人気沸騰中の伊達政宗や真田幸村が一体何をした人物なのかを一つも知らなかったし、武田信玄や上杉謙信という人物の名を聞いた事もなかった。「ゼロ」というに相応しい地点から私の資料探索は始まったのだ。

最初は誰が誰だか判らない事もしばしば、記されている事件がどのような事件であったかも判らず、様々な情報を収集しきれずに混乱によく陥っていたものである。調べていくにつれ、私は「明智光秀」という男に酷く魅せられていった。「本能寺の変」ではなく、「明智光秀」という人間に、である。

妻・煕子との美談は他にもいくつか存在し、そのうちの一つはあの松尾芭蕉をも感動させ、「月さびよ 明智が妻のはなしせむ」という歌を残させている。彼は戦国武将にしては珍しく、非常に家臣を思いやる武将だったようで、負傷した家臣に対する見舞状も多く残っており、「本能寺の変」という事態に対しても家臣たちは誰ひとり裏切らず、更には光秀終焉の戦「山崎の戦い」では、家臣たちが敗走する光秀の身代わりとなり、羽柴軍に突撃をおこなったという記録も残っている。また、税を低くし、人民を重んずる政策を打ち出すなど非常に良い領主であり、かつて彼が治めた丹波の福知山では「御霊さん」と、神として祀り上げられているなど、そのような事例も少なくない。


此処で、かつて私が思い描いていた明智光秀像は完全に打ち砕かれてしまったのだ。世間一般では「裏切り者」と悪いイメージの強い彼が、調べれば調べるほど、良い所が次々と発掘される。好ましい人格を持った人物である事を私は悟ったのである。

『明智光秀と旅―資料で再現する武人の劇的な人生』(信原克哉著)
【★★★★★】

明智光秀公ファンは必読!!!!!
題名で察す事が出来ると思いますが、小説ではありません。
史料をもとに明智光秀の生涯を辿って行きます。
完成度は非常に高いと思います。何よりも愛が伝わります。
写真も綺麗で、解説も詳しく、読みやすい。非常にお勧めの書です。



『浅き夢見し―明智光秀物語―』(高橋和島著)

【★★★★★】

この光秀滅茶苦茶カッコよかった!!!!!です!!!!!!魅力的で、終始、カッコイイ。

また、穏やかな日常パートが多く描かれていたので、個人的に凄く嬉しかったです。

可愛くて、微笑ましい。

文庫本一冊で、文章もとても読みやすいです。



『細川ガラシャ夫人』(三浦綾子著)
【★★★★★】

明智夫婦、明智親子が好きな方は必見です!!
最初からボロ泣きでした。こんな旦那さん私も欲しい。また父親としての顔もたまりません。
これは娘の珠子の話なので、光秀死後の世界も描かれており、凄く面白かったです!
珠子可愛いよ珠子。



『明智光秀』(桜田晋也著)
【★★★★☆】

一冊500P以上で、上中下巻の三部構成の大ボリュームです。

光秀の一代記としては王道的な内容だと思います。
数々の史料をもとにした豆知識が多々。織田時代だけでなく、前半期、朝倉時代も細かく描かれてますので、光秀ファンとしてはとても嬉しい。
ただし、アマゾンのレビューにも書かれていますが、信長の冷酷非道な面が目立ちます。



『国盗り物語』(司馬遼太郎著)
【★★★★☆】

楽しく読ませていただきました。
織田信長編という事ですが、光秀は主人公と言っても過言ではない程の露出度だな、と思いました。
一つ残念と思う事は光秀の気持ちが若干濃姫寄りな所でしょうか…。



『光秀の定理』(垣根涼介著)
【★★★★☆】

かなり異色な歴史小説。でも面白い。
主人公はオリジナルキャラクターの坊主・愚息と兵法家・新九郎、光秀の三人制か。しかしオリジナルの方が濃く、光秀は脇のような印象を受けたりも。
此処の光秀は青くて不器用で可愛らしい印象。舞台は出世前がメイン。戦地を駆け回りさらには本能寺の変もあっさり。で、最後愚息と新九郎によって光秀という人物と叛因が語られる。
それぞれのキャラクターが凄く活き活きしていました。


『明智光秀 物語と史跡を訪ねて』(早乙女貢著)
【★★★☆☆】

私が初めて読んだ光秀の本です。
ざっぱざっぱと書かれているのである程度知識を身に着けた上で読むことをお勧めします。最後は天海説をほのめかすような…?
またタイトルの通り史跡の事がいくらか書かれています。


★『明智光秀』(高柳光寿著)
歴史研究の権威者・高柳光寿先生による明智光秀研究発端の書です。
アマゾンのレビューでは色々と言われていますが、この人が動き出さなければ、光秀の研究が始まっていなかったことは事実。本書を読んだ小和田哲男先生は影響を受け、彼が大河制作に関わってからは光秀は好意的に描かれるようになったこともまた事実です。
悪書を都合よく採用しており、現在の本能寺の変研究が停滞しているのもこのためだ…という意見がレビューにありますが、その場合は気を付けて読むべきでしょう。
それだけでこの本を否定する気には私はなりません。
高柳先生が推すのは野望説。また、光秀の魅力を…という人には勧めませんが、文献を漁ってみて、本書を参考文献に加えてないものはありません。光秀の研究を試みるなら必ず踏まなければならないものだと私は思うのです。
最後に、桑田忠親先生の本とあわせて読むことを勧めておきます。意見が対立しており、史実研究の不安定さについて考えさせられます。

この二方を意識して小和田哲男先生の書いたもの、近年発行された明智憲三郎先生のものも中々面白かったので併せて勧めておきます。

人によって情報や考えが異なることは多々あります。故に一人の意見を鵜呑みにすることは危険です。

今まで多くの本を漁ってきましたが、その本の記述全てが信用に足る、と思ったことは一度もありません。読めば、「うんんん…これは違うんじゃないかな…」と頭を捻る所が何ヶ所も出てきます。穴は必ずあるのです。

一冊で満足をせず、クリティカルな思考を持ち、自分の考えを築き上げてほしいと思います。

まあ、当たり前だが、私は明智光秀という人物に会った事はない。

私の考えが「正解」とはとても言えないが、愛妻家としての一面、家臣への労り、領民への思い…それらを挙げていく限りでは私は彼の事を「ただの悪人」と見る事が出来ないのだ。


エピソードの数々から推測するに光秀は几帳面で律義。情が深く、優しい心を持った分別のある人物で、
城攻めに於いては先ず相手を説得して投降を勧めて、相手の地位、立場を剥奪する事なく、迎え入れるというやり方を取っていた点でも、非常に人間性のある御方だったのではないか。

また、信長に対しても、「子子孫孫まで信長公から受けた恩を忘れてはならない」と書き残していた面(結果はああなってしまったが…彼らの間に何があったのだろうか…)、一時世話になった越前の住民を虐殺から守った面、義理堅い人物であったのではないか。

また、越前の住民を虐殺から救ったことが、明智神社がつくられる所以となり、それは今日の「明智光秀公顕彰会」発足を促した。


数々の話を挙げてみたが、貴方の中で「明智光秀」という人物の印象は変わっただろうか?
少しでも見直してくれれば嬉しい。


光秀について調べるのは楽しい。一般常識では「裏切り者」という印象しか出てこないが、漁って行けば漁って行くほど彼の良い面が見えてくる。また、謎も深まっていく。
彼の事を調べて行くにつれ、こうやって彼の事を自分の手でまとめていくにつれ、どんどんと惹かれて行くのを私は感じる。


彼の人生は悲運に終わった。
政府には「大悪人」という不名誉な称号も貰った。
それでも丹波の人々などを代表に彼を慕う人間が尽きなかったのは何故だろうか?
それは言うまでもないだろう。

■京都府亀岡市


『光秀に纏わる数々のエピソード』で述べた通り、光秀が攻略し、街の基礎を築きあげた場所だ。

亀山城は既に解体されており、現在は城跡として堀や石垣、更に光秀手植えの大銀杏(イチョウ)が残っている。
司馬遼太郎は『街道をゆく』で、亀山城のことを「闇夜に打ち上げられた大輪の花火のように華麗ではかない」という風に感想を漏らしている。

光秀は亀山城に敵を容易に近付けさせないように、城下町の道路は迷路のようにはりめぐらされており、あわせて先が見通せない工夫をした。


また、此処は光秀を名君であると奉っている場所である為、


5月3日に「亀山光秀まつり」。
毎週日曜また祝日には「明智光秀が築いた亀山城跡と城下町を巡るガイドツアー」(参加してみたい)
さらに光秀をストーリーの基盤とした宝探しゲーム(参加しました)


などなど様々な活動に取り組んでいる。


そして、明智光秀の真の人物像を世間に知ってもらうべく、
現在明智光秀を主人公とした大河ドラマを実現する為に著名活動も行っている。
亀岡市観光協会のHP にて行っているので、協力していただければ幸いです。



■京都府福知山市

「明智光秀丹波を治め、ひろめ丹波の福知山」。

この地で光秀はこう唄われている。

此処も丹波攻略の際に拠点となった場所である。
光秀は此処でも地子の免除・町づくり治水などに励むなどの善政を敷き、名君と謳われ、神として御霊神社に祀られた。


10月上旬に行われる恒例の御霊祭は、光秀の霊を慰める為に江戸時代に始まったという。


光秀が築いた城・福知山城は明治時代のはじめに廃城令で取り壊され、石垣と銅門(あかがねもん)番所だけが残されていたが、市民の瓦1枚運動などの熱意によって、3層4階の天守閣が、1986年11月に再建。
天守閣は、望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとなっているらしい。


また、御霊神社には、光秀の軍隊の規律が書かれた明智光秀家中軍法をはじめ、明智光秀にかかわる3通の古文書が残されている(郷土資料館にて保管展示)。


どれもこれも光秀ファンならば行ってみたい場所ばかりである。

細川ガラシャ夫人こと明智珠子。
細川忠興の正室であり、光秀の三女である。


光秀が謀反をした事によって、逆臣の娘となるが、忠興は珠子と離縁する気になれず、丹後味土野の山中に幽閉する。

血の通った家族を一気に失い、嫁いだ細川家は明智家を見限り、身籠っていた子供は幽閉中に死産――彼女の心情はいかなるものだっただろうか。


その後、豊臣秀吉の取りなしで、大阪城の方へ呼び戻された。


そして、キリスト教の思想に惹かれ、キリシタンへ。
その時の洗礼名が「ガラシャ」である。


関ヶ原の戦い直前。
石田三成はガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒否。
三成は実力行使に出て、屋敷を囲ませた。

キリスト教では自殺は大罪であり、天国へは行けないという教えが一般的である為、
ガラシャは家老の小笠原秀清に槍で部屋の外から胸を貫かせて死亡。この時ガラシャは38歳であった。


散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ


これが彼女の辞世の歌である。

彼女の死は多くの人に衝撃を与えたのだという。

山崎の戦いにて、命を散らせたと言われる明智光秀。

しかし、実は生き延びていて、転身したという説は二つある。



①南光坊天海

この説は非常に有名と言える。


南光坊天海とは徳川家康の幕僚として活躍した僧である。
絶大な権力を持ち、将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。
様々な学問に加え、陰陽道や風水にも通じていたという。
また彼の経歴には不明な点が多い。


光秀は実は出家をし、改名して「南光坊天海」と名乗り、徳川にスカウトされたというのだ。
「そんなバカな!」と思うが、南光坊天海と明智光秀には奇妙な接点が数点ある。


異説の根拠はこれだ。


●天海と光秀が生まれたと推定される年が近い事

●天海が光秀の家紋であった桔梗紋を用いていた事

●天海が日光に「明智平」という区域を作った事
(理由を訊かれた際「明智の名前を残すのさ」と答えたと言われている)

●徳川家光の「光」は、明智光秀の「光」からとられており、日光東照宮輪王寺には、天海が家光を名付けたときの直筆の紙片が残っており、それは不思議にも折り畳むと文字がちょうど「光秀」と読めるようになっているという事。

●光秀が亡くなった筈の1582年以後に比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている事

●学僧である筈の天海が着たとされる鎧が残っている事

●光秀の家老・斎藤利三の娘が徳川家光の乳母となった事

●光秀の孫にあたる織田昌澄が大阪の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されている事

●天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」という結果が出ている事

●天海の戒名は「慈眼大師」で、光秀が建てた丹波亀山城があった京都府の周山村には「慈眼寺」がある事

●「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したものであるという事

●家康から高く評価されていた事

●天海が江戸で初めて家康と出会った時、初対面である筈の二人が、まるで旧知の間柄の如く人を避け、密室で四時間も親しく語り合った事
(大御所が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例はない)

●家康の死後の名を「東照大明神」とする動きがあったのを天海が猛反対し、「東照大権現」とした事
(秀吉が「豊臣大明神」だったから)

●天海の墓が滋賀坂本(光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所)にもある事
更に天海の墓の側には家康の供養塔も建っている

●小栗栖で光秀の脇腹を竹槍で刺したのは「中村長兵衛」と言われているが、13人の家臣に気付かれずに接近し、刺す事は不可能ではないかという事

●「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった事

●首は見つかったものの、顔が判別出来ていないといわれている事

●小栗栖は天皇の側近の領地である事
(領主の公家は生き残った明智一族の世話をしていたといわれており、どのような工作も可能なのでは)

●比叡山の文庫の中に光秀が僧となったという旨を記してある書物があるという事

●光秀の肖像画がおさめられている本徳寺に、光秀が生きており寺の寄進者になったという証拠や、「光秀が亡命して来て隠棲し、仏の修行三昧をしていたが、今はここを去って行った」という意味にとれる賛が残っている事。


などの例が挙げられる。


一つ、もしこれが事実ならばとんでもなく長寿となってしまうが、そこは家臣の明智秀満と二代に渡って演じたという説がある。
(秀満が天海だという説もある)



②千利休

これは天海よりも遥かにマイナーな説だと思われる。


光秀は「例えどのような事情があったにせよ、一度主君殺しの汚名を着た者が天下を取っても永続きがせぬ」という事をよく承知し、秀吉に山崎の戦いにて勝利を譲る。

そして、彼はお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中で天下の大事を論じ、謀を巡らして、秀吉の太閤の地位まで押し上してしまったのである。
しかし、この千利休説では、秀吉に切腹を命じられてしまう。


彼も一武将、天下を夢見る野心はあっただろうが、上洛の際権力者である光秀を迎えようとする公家衆を不要であると断り、細川への手紙の通り「すぐに平定し、自分は引退するつもりだ」と記している点此処まで固執するようには思えないが…面白い説ではある。





私は正直これらを信じているとは言い難い。
しかし、このように生存説が挙げられている点、民に「光秀は小栗栖で死なせるには惜しい」という気持ちがあったのは確かである。