山崎の戦いにて、命を散らせたと言われる明智光秀。
しかし、実は生き延びていて、転身したという説は二つある。
①南光坊天海
この説は非常に有名と言える。
南光坊天海とは徳川家康の幕僚として活躍した僧である。
絶大な権力を持ち、将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。
様々な学問に加え、陰陽道や風水にも通じていたという。
また彼の経歴には不明な点が多い。
光秀は実は出家をし、改名して「南光坊天海」と名乗り、徳川にスカウトされたというのだ。
「そんなバカな!」と思うが、南光坊天海と明智光秀には奇妙な接点が数点ある。
異説の根拠はこれだ。
●天海と光秀が生まれたと推定される年が近い事
●天海が光秀の家紋であった桔梗紋を用いていた事
●天海が日光に「明智平」という区域を作った事
(理由を訊かれた際「明智の名前を残すのさ」と答えたと言われている)
●徳川家光の「光」は、明智光秀の「光」からとられており、日光東照宮輪王寺には、天海が家光を名付けたときの直筆の紙片が残っており、それは不思議にも折り畳むと文字がちょうど「光秀」と読めるようになっているという事。
●光秀が亡くなった筈の1582年以後に比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている事
●学僧である筈の天海が着たとされる鎧が残っている事
●光秀の家老・斎藤利三の娘が徳川家光の乳母となった事
●光秀の孫にあたる織田昌澄が大阪の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されている事
●天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」という結果が出ている事
●天海の戒名は「慈眼大師」で、光秀が建てた丹波亀山城があった京都府の周山村には「慈眼寺」がある事
●「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したものであるという事
●家康から高く評価されていた事
●天海が江戸で初めて家康と出会った時、初対面である筈の二人が、まるで旧知の間柄の如く人を避け、密室で四時間も親しく語り合った事
(大御所が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例はない)
●家康の死後の名を「東照大明神」とする動きがあったのを天海が猛反対し、「東照大権現」とした事
(秀吉が「豊臣大明神」だったから)
●天海の墓が滋賀坂本(光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所)にもある事
更に天海の墓の側には家康の供養塔も建っている
●小栗栖で光秀の脇腹を竹槍で刺したのは「中村長兵衛」と言われているが、13人の家臣に気付かれずに接近し、刺す事は不可能ではないかという事
●「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった事
●首は見つかったものの、顔が判別出来ていないといわれている事
●小栗栖は天皇の側近の領地である事
(領主の公家は生き残った明智一族の世話をしていたといわれており、どのような工作も可能なのでは)
●比叡山の文庫の中に光秀が僧となったという旨を記してある書物があるという事
●光秀の肖像画がおさめられている本徳寺に、光秀が生きており寺の寄進者になったという証拠や、「光秀が亡命して来て隠棲し、仏の修行三昧をしていたが、今はここを去って行った」という意味にとれる賛が残っている事。
などの例が挙げられる。
一つ、もしこれが事実ならばとんでもなく長寿となってしまうが、そこは家臣の明智秀満と二代に渡って演じたという説がある。
(秀満が天海だという説もある)
②千利休
これは天海よりも遥かにマイナーな説だと思われる。
光秀は「例えどのような事情があったにせよ、一度主君殺しの汚名を着た者が天下を取っても永続きがせぬ」という事をよく承知し、秀吉に山崎の戦いにて勝利を譲る。
そして、彼はお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中で天下の大事を論じ、謀を巡らして、秀吉の太閤の地位まで押し上してしまったのである。
しかし、この千利休説では、秀吉に切腹を命じられてしまう。
彼も一武将、天下を夢見る野心はあっただろうが、上洛の際権力者である光秀を迎えようとする公家衆を不要であると断り、細川への手紙の通り「すぐに平定し、自分は引退するつもりだ」と記している点此処まで固執するようには思えないが…面白い説ではある。
私は正直これらを信じているとは言い難い。
しかし、このように生存説が挙げられている点、民に「光秀は小栗栖で死なせるには惜しい」という気持ちがあったのは確かである。