『新説 戦乱の日本史15:本能寺の変』(2008年)まとめ。
基本的な情報ばかりだが、主役は明智光秀であり、本能寺の変については勿論(大半が本能寺の変に割かれているといってよい)、光秀に関連する人物の紹介、本能寺の変時の明智軍・織田軍の編成表が載っている。
【本能寺の変を起こす原因・背景】
①当時の織田家内部は、家臣同士が競争・対立関係にあり、目ぼしい結果を出さない者は容赦なく粛清されていった。そのなかでも光秀は、信長に近侍する場面も多く、また前任者の佐久間信盛が追放されていたこともあり、つねに緊張を強いられていた。
②信長は子息それぞれに数か国を与えるとともに、若い側近を近国に配置する構想を持っていたといわれる。その場合、畿内に所領がある光秀は、真っ先に打撃を受ける可能性が高かった。
③みずから取次役として関係を取り持っていた四国の長宗我部元親と信長が、全面対決する状況が生まれた。しかも、光秀を外した状況で四国攻めの渡海軍が出発しようとしていた。
☆信長の領国が拡大するにつれ、大和の松永久秀、播磨の別所長治、摂津の荒木村重など、反旗を翻す者が増えてきたことからわかるように、織田家中は実に脆い一面を持っていた。磔や一族皆殺しなど、敵味方を問わず容赦しない信長の苛烈な仕打ちは、明らかに家臣や諸国の在地領主に動揺を引き起こしていたのである。
☆フロイスの『日本史』には、徳川家康の饗応(15~17日)の準備段階での出来事として、「彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にした」というエピソードが紹介されている。
→生魚が腐っていると叱責したという話は後世の虚構であるという意見が強い。もっと別の何かがあったのではないのか。四国征伐についてか、別の政策に対する不満か?(時期的に長宗我部の件が濃厚であると私はかねてより考えていた。最近発見された信長に従う旨を記した長宗我部元親の書状と、もしかすると繋げることが可能ではないか調べてみたが、それは5月21日に出されたもの。饗応の後である。しかし、織田と長宗我部との関係に明智家が胃を痛めていたのは事実であろう。元親の書状と共に発見された利三の書状からもわかることである。)
☆怨恨説はの根拠とされる逸話は後世の作り話だとされる。これはつまり、光秀が信長に謀叛を起こした原因として、相当な恨みを抱いていたという以外に考えられないという、当時の人々の当惑を反映した面があると思われる。逆にいえば、よほどの理由をこしらえないかぎり、信長に重用されていた光秀が逆心を抱くということが不可解だと思われていたことの、裏返しだといえないだろうか。
(井沢元彦氏は『名城をゆく:福知山城・田辺城』(2004年)にて、これを「逆算の論理」と呼んでいる。)
(私は四国説を支持しているが、四国説だけが叛因だとは思わない。史料の欠如、書き換え、公卿の日記の空白など、隠蔽すべく大きな力が働いていた気がしてならない。)
ただ、怨恨説の根拠として挙げられたエピソードに根拠がなくとも、長年にわたる横暴な信長のふるまいのすえ、たまりかねて光秀が積年の怨恨を晴らすべく起ったとすることは考えられる。
☆安土で兼見が光秀と会見した際の記述に「今度之謀叛」という部分がある。もし朝廷が糸を引いていたのであれば、「謀叛」という表現はありえないのではないか。
☆黒幕がいたならば、それは信長政権を崩壊させることが目的だろうから、信忠ノーマークはありえない、と井沢元彦は言う。一方、明智憲三郎氏は自身の著書で信忠見落としの原因は信忠上洛は突然のことであり、計算外だったことにあるのではと語っている。信忠は五月二十七日付で森蘭丸に「信長が一両日中に安土を進発すると聞き及び、堺見物を取りやめて信長を京都で出迎える」と書かれているようだ。(それまでは家康一行に同行していた)
※明智憲三郎氏は家康と光秀が同盟を組んでいるという説を打ち出しているが、その場合、この件は穴ではないのか?信忠上洛を知った時点で、亀岡在中の光秀に知らせるべきでは?
【光秀の勝算】
①公武の都である京都と安土を押さえ、朝廷・寺社と関係を結び、謀叛の正統性を確保。
②光秀組下にあった細川藤孝・筒井順慶をはじめ、畿内周辺勢力を糾合して、畿内平定に全力を尽くす。
③旧信長領が遺児・家臣たちにより四分五裂していく予測のもので、畿内を足場に生き残りを図る。
④長宗我部・毛利・上杉・北条といった周辺大名と同盟・融和的関係を構築する。
☆明智と細川は盟友関係で親しい関係にあった。両者が共に行動することは非常に多い。
『名城をゆく;福知山城・田辺城』にて、左方郁子氏は「戦国のさなか、明智光秀は、福知山城から連歌師里村紹巴らを伴って宮津城の細川藤孝を訪れ、天橋立まで足をのばして三吟連歌を楽しんでいる。本能寺の変(1582年)の前年のことである。丹波・丹後は、光秀と藤孝の夢の跡でもある。」と語っている。
その三吟連歌がこれである。(お題は「なへ松」)
う(植)ふるてふ松は 千年のさなえ(早苗)かな 光秀
夏山うつす水のみなかみ 藤孝
夕立のあとさりげなき月見へて 紹巴
史料上で初めて、紹巴と藤孝と光秀が三人揃って連歌を行っているのは永禄11年(1568年)11月15日のことであるが、光秀の句数は両者と比べても少ない。それが年々差が縮まり、ほぼ同じ句数を読むようになっている。両者と積極的に関わり、吸収し、実力をつけていったからであろう。いかに光秀が連歌に夢中になり、生真面目に努力を積んだかがわかる。
☆現在資料がないため、詳しい記述は出来ないが、筒井順慶は光秀が重病を患った時、平癒の祈祷を坊舎衆に頼んでいる。また、松永久秀を攻める際は、明智・細川・筒井で協力している。
【なぜ光秀は信長を殺せたのか】
①信長が無防備の状態で至近距離にいたこと。
②中国出陣を控えた光秀が、完全武装の軍団を移動できる状態にあったこと。
③襲撃計画が外部に漏れなかったこと。(光秀自身が事変の直前まで口外しなかった)
④重臣たちの反対・内通もなく、軍団をスムーズに動員できたこと。
斎藤利三ら反信長の重臣を抱え、旧幕府衆を帰属させていた光秀の軍団は、信長家臣団の中でも特異な構成。さらに、信長の利益のために動く軍監(目付)的人物が配置されなかったため、重臣たちの間で反信長的な空気が醸成・共有されていた可能性がある。
☆斎藤利三は積極的に本能寺襲撃にかかわっていた
公卿山科言経の日記(『言経卿記』)に「斎藤蔵助(利三)、今度謀叛随一也」とあること。
近江堅田で捕まった利三を京都六条河原で処刑する際、ただの斬首ではなく、身体を引き裂く車裂という残虐な処刑方法がとられた記録(津田宗及『宗及茶湯日記他会記』)など。
※「かれ(利三)など信長打談合衆也」(勧修寺晴豊『日々記』)もある。
☆小メモ:天皇御前の御馬揃え
天正9年正月15日:左義長(安土城下)→正月23日:信長、京都で大規模な御馬揃えをするよう光秀に申し付ける→2月28日:御馬揃え→3月5日:再度、御馬揃え
光秀は御馬揃えの準備の際、内裏の東に、南北8町(約900m弱)もの特設馬場をしつらえ、その周囲に高さ8尺(約2.5m)の緋毛氈を巻いた柱の柵で囲み、東門築地の外には金銀で細工した壮麗な行宮(仮御所)や桟敷を新築するなど、大規模な普請を行っている。
御馬揃えは織田家臣団のほとんどが参加。畿内を地盤とする光秀は、最も多くの与力を引き連れていた。
また、御馬揃えの出発地点は本能寺。室町通を北上し、一条通を東に折れて馬場に到着した。
そして、これは個人的に気に入った記事である。引用したい。
【明智光秀ゆかりの地、大津・亀岡・長岡京・福知山を訪ねる】(文:三猿舎)
―光秀が築城した近江・丹波の城跡をたどり、その地に息づく「名君光秀」への思いを追う。―
畿内を中心とした明智光秀の足跡をたどってみると、謀叛人の陰湿な印象からは程遠い、戦国時代の武将としては非常に有能で才気溢れる人間明智光秀に出会うことができる。
各城跡から窺える卓越した土木・築城技術。旧支配地域に息づく優れた民政家としての手腕・業績。さらに、近江坂本は比叡山焼き討ち後の混乱の最中、丹波は波多野氏の頑強な抵抗が数年来続いた土地だったことを考え合わせると、織田信長が光秀に期待したものの大きさと、それに応えた光秀の非凡さが知れよう。
近年では謀叛人のイメージもしだいに影を潜め、本能寺の変以前の光秀にも光が当たりつつあるようだ。光秀が精魂を傾けた亀岡・福知山の地では、現在の町の土台を築き上げた「名君」として親しまれ、亀岡の「光秀まつり」の開催はすでに30年以上の歴史を刻んでいる。また、福知山音頭も光秀ゆかりの民謡である。
琵琶湖畔から京都府北部へ広がる明智光秀の堅実な足跡。本能寺の変を起こした光秀の真意を窺うことはできなくても、旧支配地に残された幾多の史跡の中には、「日常」の光秀の、穏やかで思慮深い一面が今も息づいている。




























