『新説 戦乱の日本史15:本能寺の変』(2008年)まとめ。


基本的な情報ばかりだが、主役は明智光秀であり、本能寺の変については勿論(大半が本能寺の変に割かれているといってよい)、光秀に関連する人物の紹介、本能寺の変時の明智軍・織田軍の編成表が載っている。



【本能寺の変を起こす原因・背景】

①当時の織田家内部は、家臣同士が競争・対立関係にあり、目ぼしい結果を出さない者は容赦なく粛清されていった。そのなかでも光秀は、信長に近侍する場面も多く、また前任者の佐久間信盛が追放されていたこともあり、つねに緊張を強いられていた。

②信長は子息それぞれに数か国を与えるとともに、若い側近を近国に配置する構想を持っていたといわれる。その場合、畿内に所領がある光秀は、真っ先に打撃を受ける可能性が高かった。

③みずから取次役として関係を取り持っていた四国の長宗我部元親と信長が、全面対決する状況が生まれた。しかも、光秀を外した状況で四国攻めの渡海軍が出発しようとしていた。


☆信長の領国が拡大するにつれ、大和の松永久秀、播磨の別所長治、摂津の荒木村重など、反旗を翻す者が増えてきたことからわかるように、織田家中は実に脆い一面を持っていた。磔や一族皆殺しなど、敵味方を問わず容赦しない信長の苛烈な仕打ちは、明らかに家臣や諸国の在地領主に動揺を引き起こしていたのである。


☆フロイスの『日本史』には、徳川家康の饗応(15~17日)の準備段階での出来事として、「彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にした」というエピソードが紹介されている。

→生魚が腐っていると叱責したという話は後世の虚構であるという意見が強い。もっと別の何かがあったのではないのか。四国征伐についてか、別の政策に対する不満か?(時期的に長宗我部の件が濃厚であると私はかねてより考えていた。最近発見された信長に従う旨を記した長宗我部元親の書状と、もしかすると繋げることが可能ではないか調べてみたが、それは5月21日に出されたもの。饗応の後である。しかし、織田と長宗我部との関係に明智家が胃を痛めていたのは事実であろう。元親の書状と共に発見された利三の書状からもわかることである。)


☆怨恨説はの根拠とされる逸話は後世の作り話だとされる。これはつまり、光秀が信長に謀叛を起こした原因として、相当な恨みを抱いていたという以外に考えられないという、当時の人々の当惑を反映した面があると思われる。逆にいえば、よほどの理由をこしらえないかぎり、信長に重用されていた光秀が逆心を抱くということが不可解だと思われていたことの、裏返しだといえないだろうか。

(井沢元彦氏は『名城をゆく:福知山城・田辺城』(2004年)にて、これを「逆算の論理」と呼んでいる。)

(私は四国説を支持しているが、四国説だけが叛因だとは思わない。史料の欠如、書き換え、公卿の日記の空白など、隠蔽すべく大きな力が働いていた気がしてならない。)

ただ、怨恨説の根拠として挙げられたエピソードに根拠がなくとも、長年にわたる横暴な信長のふるまいのすえ、たまりかねて光秀が積年の怨恨を晴らすべく起ったとすることは考えられる。


☆安土で兼見が光秀と会見した際の記述に「今度之謀叛」という部分がある。もし朝廷が糸を引いていたのであれば、「謀叛」という表現はありえないのではないか。


☆黒幕がいたならば、それは信長政権を崩壊させることが目的だろうから、信忠ノーマークはありえない、と井沢元彦は言う。一方、明智憲三郎氏は自身の著書で信忠見落としの原因は信忠上洛は突然のことであり、計算外だったことにあるのではと語っている。信忠は五月二十七日付で森蘭丸に「信長が一両日中に安土を進発すると聞き及び、堺見物を取りやめて信長を京都で出迎える」と書かれているようだ。(それまでは家康一行に同行していた)

※明智憲三郎氏は家康と光秀が同盟を組んでいるという説を打ち出しているが、その場合、この件は穴ではないのか?信忠上洛を知った時点で、亀岡在中の光秀に知らせるべきでは?


【光秀の勝算】

①公武の都である京都と安土を押さえ、朝廷・寺社と関係を結び、謀叛の正統性を確保。

②光秀組下にあった細川藤孝・筒井順慶をはじめ、畿内周辺勢力を糾合して、畿内平定に全力を尽くす。

③旧信長領が遺児・家臣たちにより四分五裂していく予測のもので、畿内を足場に生き残りを図る。

④長宗我部・毛利・上杉・北条といった周辺大名と同盟・融和的関係を構築する。


☆明智と細川は盟友関係で親しい関係にあった。両者が共に行動することは非常に多い。

『名城をゆく;福知山城・田辺城』にて、左方郁子氏は「戦国のさなか、明智光秀は、福知山城から連歌師里村紹巴らを伴って宮津城の細川藤孝を訪れ、天橋立まで足をのばして三吟連歌を楽しんでいる。本能寺の変(1582年)の前年のことである。丹波・丹後は、光秀と藤孝の夢の跡でもある。」と語っている。


その三吟連歌がこれである。(お題は「なへ松」)


う(植)ふるてふ松は 千年のさなえ(早苗)かな 光秀

夏山うつす水のみなかみ 藤孝

夕立のあとさりげなき月見へて 紹巴


史料上で初めて、紹巴と藤孝と光秀が三人揃って連歌を行っているのは永禄11年(1568年)11月15日のことであるが、光秀の句数は両者と比べても少ない。それが年々差が縮まり、ほぼ同じ句数を読むようになっている。両者と積極的に関わり、吸収し、実力をつけていったからであろう。いかに光秀が連歌に夢中になり、生真面目に努力を積んだかがわかる。


☆現在資料がないため、詳しい記述は出来ないが、筒井順慶は光秀が重病を患った時、平癒の祈祷を坊舎衆に頼んでいる。また、松永久秀を攻める際は、明智・細川・筒井で協力している。


【なぜ光秀は信長を殺せたのか】

①信長が無防備の状態で至近距離にいたこと。

②中国出陣を控えた光秀が、完全武装の軍団を移動できる状態にあったこと。

③襲撃計画が外部に漏れなかったこと。(光秀自身が事変の直前まで口外しなかった)

④重臣たちの反対・内通もなく、軍団をスムーズに動員できたこと。


斎藤利三ら反信長の重臣を抱え、旧幕府衆を帰属させていた光秀の軍団は、信長家臣団の中でも特異な構成。さらに、信長の利益のために動く軍監(目付)的人物が配置されなかったため、重臣たちの間で反信長的な空気が醸成・共有されていた可能性がある。


☆斎藤利三は積極的に本能寺襲撃にかかわっていた

公卿山科言経の日記(『言経卿記』)に「斎藤蔵助(利三)、今度謀叛随一也」とあること。

近江堅田で捕まった利三を京都六条河原で処刑する際、ただの斬首ではなく、身体を引き裂く車裂という残虐な処刑方法がとられた記録(津田宗及『宗及茶湯日記他会記』)など。

※「かれ(利三)など信長打談合衆也」(勧修寺晴豊『日々記』)もある。



☆小メモ:天皇御前の御馬揃え

天正9年正月15日:左義長(安土城下)→正月23日:信長、京都で大規模な御馬揃えをするよう光秀に申し付ける→2月28日:御馬揃え→3月5日:再度、御馬揃え

光秀は御馬揃えの準備の際、内裏の東に、南北8町(約900m弱)もの特設馬場をしつらえ、その周囲に高さ8尺(約2.5m)の緋毛氈を巻いた柱の柵で囲み、東門築地の外には金銀で細工した壮麗な行宮(仮御所)や桟敷を新築するなど、大規模な普請を行っている。

御馬揃えは織田家臣団のほとんどが参加。畿内を地盤とする光秀は、最も多くの与力を引き連れていた。

また、御馬揃えの出発地点は本能寺。室町通を北上し、一条通を東に折れて馬場に到着した。




そして、これは個人的に気に入った記事である。引用したい。


【明智光秀ゆかりの地、大津・亀岡・長岡京・福知山を訪ねる】(文:三猿舎)

―光秀が築城した近江・丹波の城跡をたどり、その地に息づく「名君光秀」への思いを追う。―


畿内を中心とした明智光秀の足跡をたどってみると、謀叛人の陰湿な印象からは程遠い、戦国時代の武将としては非常に有能で才気溢れる人間明智光秀に出会うことができる。

各城跡から窺える卓越した土木・築城技術。旧支配地域に息づく優れた民政家としての手腕・業績。さらに、近江坂本は比叡山焼き討ち後の混乱の最中、丹波は波多野氏の頑強な抵抗が数年来続いた土地だったことを考え合わせると、織田信長が光秀に期待したものの大きさと、それに応えた光秀の非凡さが知れよう。

近年では謀叛人のイメージもしだいに影を潜め、本能寺の変以前の光秀にも光が当たりつつあるようだ。光秀が精魂を傾けた亀岡・福知山の地では、現在の町の土台を築き上げた「名君」として親しまれ、亀岡の「光秀まつり」の開催はすでに30年以上の歴史を刻んでいる。また、福知山音頭も光秀ゆかりの民謡である。

琵琶湖畔から京都府北部へ広がる明智光秀の堅実な足跡。本能寺の変を起こした光秀の真意を窺うことはできなくても、旧支配地に残された幾多の史跡の中には、「日常」の光秀の、穏やかで思慮深い一面が今も息づいている。



この二つが揃ったので取り敢えずパシャリ。

山崎にも明智光秀にも説明書きが書いてあるのでまとめてみようと思いました。



【清酒】明智光秀 (アルコール分15.0度以上16.0度未満)


「土岐氏の名門一族頼兼が美濃国可児郡明智の荘に住し明智氏を名乗り、元祖明智城主となす。光秀まで十一代に及ぶも弘治二年斎藤義竜の攻略により落城して二百十余年の歴史を閉じた。現在は明智光秀生誕の城址は可児市の史跡として保存されています。 店主」


明智光秀の故郷と言われている可児市で販売されている日本酒です。

通販で簡単に取り寄せることができるので是非。飲みやすく、とても美味しいですよ!(私は買うのはこれで3度目です笑)

明智光秀についても詳しく書いてるこのサイトからどうぞ。→http://bsi.fc2web.com/mitsuhide/index.htm



【ウイスキー】山崎 (アルコール分43%)


「1923年『世界に誇る、日本のウイスキーをつくりたい』。サントリーの創業家である鳥井信治郎の夢から、ジャパニーズウイスキーの歴史の幕が開きます。スコッチ製造法に関する文献から土地の重要性を学んだ信治郎は、日本初となる蒸溜所の建設地に京都郊外の山崎を選びました。そこは、茶道を極めた千利休も茶を点てた名水の地。桂川、宇治川、そして木津川の三川が合流する霧が発生しやすい湿潤な気候で、まさにウイスキーづくりの理想郷と呼べる場所です。」


「山崎 テイスティングノート(Tasting Notes)

色:赤みがかかった明るい琥珀色

香り:苺・さくらんぼ

味:蜂蜜・なめらかな口あたり・広がりを感じる甘み

フィニッシュ:甘いバニラ・シナモン・綺麗で心地よい余韻」


山崎とは山崎の合戦が起こった地、光秀の最後の戦となった地です。

その地で作られているウイスキーがこの「山崎」となっております。

また、ウイスキーを作っていく過程で蒸発して樽の中身が減る現象を「光秀の霊が飲んでる」と言うそうです。ウイスキーはとても度数が強いのですが酔わないのでしょうか(笑)

ちなみにサントリーの工場付近には光秀の陣地跡が、敷地内には山崎合戦戦死者の供養塔があります。


最後に「山崎」、世界一おめでとうございます!!→【詳細記事】http://newsphere.jp/business/20141104-2/

①天寧寺

②内堀・大手門跡

③常照寺

④広小路通り

⑤御霊神社

⑥明智藪

⑦福知山城


三泊四日で、広島福山→岡山→京都福知山に旅行に行きました。

今回はかねてよりも行きたいと思っていた明智光秀公の領地である福知山に訪れました。8月中旬、大雨が凄かったので行けて本当に良かったです!!

福知山は今でも善政を敷いていた光秀公のことを慕っていて、御霊神社にて彼を神として祀り上げています。


足を運んだ順は上の通りです。

今回は常照寺に13時に伺うと電話を入れていたのでこのような順番になりました。行ったり来たりで少し面倒くさかったです。

私としては、朝に天寧寺→昼から福知山城→明智藪→(常照寺)→広小路通りを通って御霊神社→余裕があれば内堀・大手門跡、くらいのルートが一番すんなり行けるかなぁと思います。




【天寧寺】

北近畿丹後鉄道・下天津駅から歩いて40分。下天津駅は福知山駅から電車で10数分。

しかし、電車の本数は少ない田舎なので気を付けてください。逃せばかなり待たされると思います。

福知山駅からタクシー便が出てるのでそれで行くのも手かもしれません。


天寧寺は、福知山の北方の山間にある禅宗寺院です。1365年、高僧愚中周及を開山として開かれました。

足利義持ら将軍家からも信奉され、室町時代の禅宗文化を伝える名刹です。

(所々に引両紋がありました)


光秀は福知山を治める際、この寺の住職にアドバイスを受けたとされ、1580年2月に判物を発給しています。

「当寺事、任往古之旨、諸式令免許訖、仍陣取并竹木等剪捕之事、堅令停止之状、如件  天正八 二月十三日  光秀(花押)  天寧寺」

これは光秀が遠隔であれ、福知山の治世にあたっていたことの証です。


また、この寺は現在確認されている唯一の秀満発給文書があることでも知られています。

秀満の発給した文書は光秀のものより一年後の1581年。この段階で、正式に秀満への委任が完了したものと思われています。(明智秀満は明智家の重臣であり、福知山城代)

「当寺之事、光秀判形之旨無相違、諸色令免許訖、被得其意、可被任覚悟者也、仍如件  天正九 十月六日  明智弥平次秀満(花押)  天寧寺 納所禅師」

この文書の中で秀満が「光秀」と敬称を略している点は、この頃には相応の地位を確保していたことの表れでしょう。

また、1581年の4月、秀満は福知山城にて、主君である光秀をはじめ、細川父子、津田宗及をもてなしています。


福知山市の観光ページに「文化財の見学には事前の連絡が必要」と書いてあったので、電話をかけてみたものの、書状や文化財を見ることは叶いませんでした。今は公開していないようです。


光秀たちも訪れただろうと取り敢えず足を運んでみたものの、徒歩40分は少し長かったです(笑)

電車の時間も考えて、30分ほどゆっくりしました。寺に住んでいる父子が外で遊んでいて癒されました。




【内堀・大手門跡】


下天津から福知山駅に帰ってきました。

常照寺に行く途中。福知山駅→お城通りを直進したのちに左折→城下通りと商店街の間の通りを歩いていたら、偶然見つけたのでパシャリ。

説明文は次の通りです。


「大手門は福知山城の北面正面、二重にめぐらされる内堀の外側の渡り土手上に設けられた町屋敷地区と城郭地区を区切る門です。大手門の左右には内堀に面して東西一九八間の瓦塀がめぐらされ、城郭の範囲を固めました。内堀にはかつて水が満ちていましたが、享保二十年(一七三五)卯年の大洪水以降、空堀にされたといわれています。」


また、この通りでなく、由良川に沿って歩くと明智藪が見えます。




【常照寺】

事前に連絡をしていた常照寺へ。工事中でした。

明智光秀の位牌があるということで伺ったものの、結局見ることはできませんでした。

理由としては、工事中であること、開示すると「大火災が起こる」という言い伝えがあって封印しているということ、光秀の丹波攻略によって倒れた横山氏にもゆかりがあり、今なお繋がりがあるその遺族のことを考慮して……とのことでした。

最初の電話の段階では「見せてくれる」という話だったので、「すみません、また今度来てください」と何度も謝られました。少し残念ではありましたが、出してくれたお茶はとても美味しかったです。

光秀の位牌は見れませんでしたが、横山一族の供養塔には案内してもらいました。合掌。


また、信原克哉氏は『明智光秀と旅』の中で、

「光秀の霊を勧請した朽木稙昌公と町民達の願いは、大火災や水害を防ぐためのものであった。御霊神社では光秀の霊を祀り、その近くの常照寺ではその霊を忌み嫌って封印する、変わったところである。」

と語っています。


また、福知山の蓮行寺という寺にも位牌があるという話でしたが、事前の調べでも蓮行寺という寺は一切ヒットなし。信原氏も探訪を断念しており、私も住職さんに聞いてみましたが「知らない」とのことでした。





【広小路通り】

 

広小路通りではこのような像がズラッと並んでいます。福知山音頭です。

福知山音頭は城改築の際に領下のものが材石や木を運ぶとき、ドッコイセ、ドッコイセと楽しげに掛け声したのが始まりとされています。

「福知山出て長田野越えて、駒をはやめて亀山へ」、「お前見たかやお城の庭を、今が桔梗の花ざかり」、「明智光秀丹波を拡め、ひろめ丹波の福知山」……といった歌詞が唄われます。
8月中旬から下旬にかけて、福知山ドッコイセまつりが開かれるので、今度はその時期に合わせて行ってみたいですね。


この通りにある、川見風月堂という和菓子店には「御霊太鼓」という桔梗紋の入ったどら焼きが売ってあるので是非。とても美味しかったです。




【御霊神社】

 

 


広小路通りを真っ直ぐ進むと御霊神社につきます。

明智光秀公を祀る神社で、1705年に福知山城下に創られ(常照寺?)、1918年に現在の場所に移されました。


「光秀公は丹波治世の拠点としてここに本格的な城郭と城下町を構えました。この所を「福智山」と命名、堤防を築いて由良川の流路を変えて洪水を防ぎ、楽市楽座や地子銭(宅地税)を免除するなど善政を敷いて領内の発展をはかりました。一方元禄の頃には、火災・水害・地震などの災害が頻発、人々はこれを光秀公の怨霊の為す所と恐れました。御霊神社は光秀公の御霊を慰め、その善政に感謝する人々の心から生まれたのでした。」 (御霊神社パンフレットより)


また、光秀は、水害を始めとした災害から守る神様でもあり、商売の神様でもあるとか。


御霊神社には光秀の書状が三通ありますが、これは福知山城内の郷土資料館に保管されています。

一つ目は明智光秀家中軍法、二つ目は光秀の城郭破却命令に背いた何鹿郡山家の城主和久左衛門大夫並びにその一族に成敗を加えたことを船井郡和知の土豪片山氏・出野氏に対して知らせたもの、三つ目は八上城攻囲中の動向を奥村源内宛てに伝えたものです。

家中軍法は他の二通と比べると細かく、丁寧に書かれているような印象でした。軍法ですし、気合いを入れて書いたのかもしれませんね(笑)


「老人雑話」には光秀は味わい深い文字を書く謹厚な人、高柳氏は草書のほうはすこぶる闊達で迫力があり余韻さえあると評しています。


御朱印を書いてもらう際に、神主さん(?)とお話をしたのですが、今年の10月頃に大正期に書かれた光秀について書かれた本(御霊神社所蔵)を訳したものが出版されるらしいです。

本を送ってあげる、と言われ、現住所をノートにサラリ。

光秀の話を色々してもらい、とても有意義な時間でした。






【明智藪】

福知山のメイン河川・由良川の氾濫防止と水運業発展を目的に、光秀が築いたと言われる堤防です。多くの竹が水防林として植えられています。


この堤防を作ることのメリットは三つ。新たに生み出された土地に城下町を作った、水害が減った、由良川を城の堀として利用した、です。すなわち一石三鳥であったことがわかります。

また、これを作るには大量の土砂が必要でした。

福知山市役所の裏山には伯耆丸公園があり、ここはに三の丸があったそうです。この場所は光秀が来るまでは福知山城と繋がっていたらしく、光秀が築城をする際にこの丘を切り離したと考えられます。(※裁判所付近に二ノ丸だったそうです)

それは鉄砲を活用した戦闘に強い城を作るためでした。

また、堀を作るのにも、大量の土砂が発生するので、光秀は丘の切り離し工事と堀作りで大量に発生した土砂を堤防に使用したのです。


すなわち光秀では、戦闘に強い城、堤防、城下町作りを同時並行して行ったことになります。


また、明智藪というと小栗栖のものもありますが、こちらは光秀の終焉の地なので、同じ明智藪でも全く違いますね。





【福知山城】

 

福知山城!!!と有名な転用石です。


福知山城は、明治時代のはじめに廃城令で取り壊され、石垣と銅門(あかがねもん)番所だけが残されていましたが、市民の瓦1枚運動などの熱意によって、1986年11月に再建したものです。


天主台から本丸にかけての野面積の石垣は穴太積と呼ばれる積み方で、約400年もの歳月を耐えてきています。たくさんの五輪塔や宝篋印塔が使われているのがこの福知山城の特徴です。

何故光秀がこれらを用いたのかという理由ははっきりしていませんが、性急な工事であったこと、光秀が神の権威を恐れていないことの表れ、そして逆に神の権威を福知山城に取り入れたい故にこれらを組み込んだなどが言われています。


福知山城の中は郷土資料館になっていて、この時は特別展「明智光秀と細川幽斎」展を行っていました。

現在、明智家と細川家をクローズアップした大河を作ろうと協力して署名しているからでしょうね。




豊磐の井。

本丸、天守の東側にある井戸は、直径2.5メートル。50メートルの深さは日本一を誇ります。

明智光秀が掘った井戸という話を聞いていたのですが、もっと後の朽木氏の時代のもののようです。

この「豊磐」という名前は、福知山藩主朽木氏初代稙昌の神号「豊磐稙綱彦命」にちなんだものらしいです。

伝承ではこの井戸には抜け穴があって、西方二ノ丸の北側、対面所(現在の裁判所)裏にあった横穴に通じているとか?

①鞆の浦

②御殿山


足利義昭ゆかりの史跡です。

後輩のルドロスちゃんの実家が広島県福山市ということで案内してもらいました!!

彼女のお母様に鞆の浦とか御殿山まで連れて行ってもらいました;;;;;ありがたしありがたし;;;;;

行く方向は違えど、鞆の浦も御殿山も、福山駅から車で行ける距離でした。




光秀は義昭と信長と二人の主君に仕えていたと言われています。信長は義昭のことを傀儡としか思っていなかったため、二者は対立。光秀は義昭を見限り、信長につきました。

光秀は信長によって最初に城を持つことを許されましたが、これは比叡山の焼討の後です。

坂本城を構えることを許された理由としては、これまでの目覚ましい働きが評価された、焼討で成果を上げた(光秀が土豪を懐柔した書状が見つかっている)、近江~京の通路を確保する信長の政策の一環(光秀は京で政治をしており、光秀の与えられた志賀郡坂本は近江の中でも京に近い)など、数々の意見が飛び交っていますが、はっきりした理由はわかっていません。

また、この時期、光秀は完全には信長についていない微妙な時期です。これはアマチュアに過ぎない私の勝手な意見ですが、「坂本をくれてやるから、義昭なんぞよりも織田に来い」といった意味合いもあったのでは…?と思っています(それが主な理由である、とは思わないですが……)。光秀が二者に挟まれ苦悩していた時期なら、この待遇は信長方につくことを決心するに足るものであったように思います。




【鞆の浦】


京を追放された後、足利義昭は毛利に身を寄せました。その際にいた城が鞆城です。義昭はこの場所で鞆幕府を開きました。

また、鞆の浦は、尊氏が新田義貞追討の院宣を光厳上皇より受けた場所で、足利家にとってゆかりは深いといえます。

現在は鞆の浦歴史民俗資料館となっています。

義昭はここから景色を見ていたのだろうか?




【御殿山(津之郷)】


 


義昭隠棲の地。鞆城を去った後(1582年)にこの辺りで過ごしたといわれています。

写真の神社は惣堂神社といい、足利義昭が祀られている神社。この地で義昭は鷹狩などに興じていたとか。

神社は現在荒廃して、将軍がいた面影はない。何とも寂しい場所でした。

1587年7月、義昭を見限った細川幽斎は津之郷にあった義昭の居館を訪れたそうです。


8月31日、岡山の林原美術館に行ってきました。

石谷家文書中の本能寺の変新資料を見るためです。これは四国説を補強するものでした。

本能寺の変が起こった時、織田軍は四国に攻め入る直前。長宗我部元親と織田信長の同盟の間を取り次いでいた光秀は何かしら思うことがあったと思います。

信長が光秀寄りの長宗我部氏より秀吉寄りの三好氏をとったこと、光秀が四国攻めに抜擢されなかったこと、明智家の重臣・利三と元親の義理の兄弟関係などの事実関係より私はかねてより本能寺の変の叛因の一つとして推していました(四国説だけが叛因であるとは思ってませんが……数々の要素が絡み合って本能寺の変は起こったと思います)

そのため今回の発見は喜ばしいことでした。


石谷家は室町幕府の奉公衆で、13代将軍足利義輝に仕えていた一族です。本領は、美濃国方県郡石谷。明智光秀、斎藤利三も美濃出身として知られています。
石谷光政(号:空然)は、足利義輝の側近で、義輝暗殺後、娘が嫁いでいた長宗我部元親のところに身を寄せています。

また、光政の養子である石谷頼辰は斎藤利三の実の兄(利三同様、当然元親夫人の異父兄であり、元親の義兄にあたる)で、後に利三と共に光秀に仕えています。光秀死後は長宗我部元親の所に身を寄せ、娘は元親嫡男・信親の妻となりました。1586年の戸次川の戦いで信親と共に戦死。



本能寺の変に関するものとして展示されていたのは、


①空然宛斎藤利三書状(1582年1月11日)

②斎藤利三宛長宗我部元親書状(1582年5月21日)


期間の関係で、実物が見れたのは利三書状のみ。元親書状はパネルでした。


利三の書状は、信長の命令(朱印状)を受け入れることが元親の為であると説得した様子や、この時土佐へ派遣された使者は、元親の義兄であり、利三の実兄である石谷頼辰であったことも確認できます。

また、文字の乱れ具合から、利三が取り乱していた様子が伝わります。かなり緊迫した状況で、利三は疲弊した状態だったのかもしれません。その主君である明智光秀もまた然りか。

↑スケッチしてきた、利三の文字と花押。



斎藤利三宛長宗我部元親書状は本能寺の変の起こった日に非常に近いです。

信長の命令(朱印状)に従うとする元親の書状は今回初めて発見され、本能寺の変研究に大きな影響を与えました。

「阿波国の一宮、夷山城、畑山城などの一部の地から撤退していますが、海部・大西城は土佐国の門(入り口)にあたる場所だからこのまま所持したいこと、甲州征伐から信長が帰陣したら指示に従いたい」と利三に伝えています。また「何事も頼辰へ相談するように」とも述べており、利三・頼辰で連携をとって交渉していたことがわかります。

元親の説得に成功したにも関わらず、信長が四国を攻めようとしていたという事実は、信長と光秀の間に亀裂を入れる一因になったのではないのでしょうか。




また、本能寺の変後の石谷頼辰宛稲葉一鉄書状も展示されていました。個人的にとても好きだったので紹介したいと思います。


「稲葉一鉄は、土岐氏、斎藤道三から斎藤氏三代、織田信長、豊臣秀吉に仕えた美濃国の戦国武将。一鉄は、「頑固一徹」の語源になったとされ、とても意思の強い人物として有名です。
 
一時、稲葉一鉄に仕えていた斎藤利三は、後に明智家に転じ明智光秀の重臣となります。本能寺の変の直前には、利三の帰属をめぐって稲葉一鉄が織田信長に申し入れをしており、斎藤家と稲葉家の関係は悪化していました。
このような状況の中で、本書状は、六月二日に本能寺の変が起きた後、罪人として処刑された斎藤利三の家族を稲葉一鉄が 探していたことがわかります。罪人の親族、一族は通常、同罪扱いにされることが多く、利三の家族をかくまうことは、稲葉一鉄の身にも危険が及ぶ可能性がある中、一鉄の姪が斎藤利三の夫人だったことから、利三亡き後、遺族を必死に守っていこうとしている一鉄の男らしさが伺える書状です。」

①吉田神社(写真なし)

②真如堂(斎藤利三、海北友松墓)

③南禅寺(天授庵)

④金地院(明智門)


※()は載せる写真を表記


同志社大学(地下鉄今出川駅直結)に集合し、そのまま京阪出町柳駅方向にぶらぶら歩いて、史跡巡りをしました。

上記の史跡はそこそこに歩きますが、全て徒歩で回れる距離です。




【吉田神社】

デジカメでは撮っていたのですが、スマホでは撮り損ねてました……

明智光秀と懇意であった吉田兼見が神主を務めた神社。

兼見宅の石風呂に二度にわたって入りに行く、細川藤孝たちと共に兼見所有の馬場に訪れ、乗馬の鍛錬するなど親密な交際がありました。また、光秀にとっての最後の寛いだ夕餉は兼見の家にて行われました。

吉田神社についての詳しい記事はこちら

京都大学に近いため、京都大学受験者は吉田神社に参拝するらしい。しかし、効果はいまひとつの模様。



【真如堂】


真如堂、正式名称は鈴聲山(レイショウザン)真正極楽寺。比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院。

今から、約1千年前の984年、比叡山の戒算上人が、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を、現在の近くにあった東三條女院(藤原詮子。円融天皇女御・一條天皇の御母)の寝殿に常荘厳を施して安置したのが始まり。

徳川綱吉の母である桂昌院を始め、女人の深い帰依を受けており、「女性に足を向けて寝られないんですよ」と住職さんが語ってくれました。

写真はこの真如堂にある、明智家の重臣・斎藤利三、その親友の画家・海北友松の墓です。(手前:利三、奥:友松)

友松は謀反人である利三の首を手厚く葬っており、磔にされていた利三の遺体を槍を振るって奪い返したと言われています。また、当時の真如堂住職であった東陽坊長盛は友松に協力し、お経を読んで気をそらしていたとか。

篤い友情の話だ~~。




【南禅寺・天授庵】


天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師・無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔。1339年に建立。

1602年、細川幽斎の寄進により、現在の本堂、正門、旧書院を始め、諸堂を重建。天授庵再興となる。

墓地には幽斎夫妻の墓、細川忠利遺髪塔の他、細川家の墓が多数あります。(最も有名な幽斎の肖像画は天授庵所蔵のもの)

光秀と深い関係にあった幽斎ゆかりの塔頭に咲く桔梗の花。ロマンを感じます。

桔梗の花の咲く季節には是非。




【金地院】


金地院は応永年間に大業和尚が足利義持の帰依を得て北山に開創した禅寺。慶長の初めに徳川幕府のブレーン「黒衣の宰相」として名高い金地院崇伝が南禅寺塔頭に移建して現在に至っています。

南禅寺の山門から出て、大通りに向かって少し歩いた左手にこの門が。この門を潜り、右手に行けば、拝観できます。


金地院内にある明智門。

1582年、明智光秀が母の菩提のため、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したもの。これは明治初年に金地院に移建したものだそうです。

金地院崇伝といえば、南光坊天海のライバル。そして、明智光秀の南光坊天海説は有名。金地院に明智門が移されたのは明治なので、関係があるとは思えないですが、感じる所はあります。

また、金地院内(開山堂だったかな?)に崇伝像が安置されています。

斎藤秀夫『桔梗の花さく城-光秀はなぜ、本能寺をめざしたのか-』(2006年)まとめ。

斎藤秀夫氏による「本能寺の変」の真相に思いを馳せながら城址・城郭を巡り歩く、歴史紀行エッセイ。




◆桔梗:古名「岡止々支(おかととき)」=岡に咲く神草

止々支の生えている土地から「土岐」の語ができ、土岐氏が家紋に桔梗を用いるのはこのためだといわれている。

(『家紋逸話事典』丹波第二著より)


◆桔梗紋が日本に最初に現れるのは『太平記』

「東の方を見ると、土岐のききょう一揆の者、水色の旗を指して大鍬形を夕日に輝かして六、七百騎ほど控えていた」




◆「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也 明智十兵衛尉、その後、上様より仰せ出せられ、惟任日向守になる。名誉の大将也、弓取はせんじてのむべき事に候」(1579年6月に丹波一国を征服次第、知行するよう命じられた際の記事)

著者:立入宗継(左京亮):光秀と同時代に生きた人物で、朝廷の御倉職(皇室の米銭や物品などの保管や出納を任せられた役人)にあり、織田政権と朝廷の間を取りもった男。


◆「惟任方もと明智十兵衛尉といいて、濃州土岐一家牢人たり」

『京畿御修行記』(1630年に書かれた時宗の同念上人の記録)

※この記録には一時期、光秀が称念寺の門前に住み、そこから仕官し、出世していったという話が書かれている。芭蕉が詠んだ句、「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」で有名な場所である。

※比較的信頼できる?


◆「惟任日向守、この人明智十兵衛と申され美濃の源氏土岐氏の一流……」

『武功夜話』:戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。成立年代や史料的価値には問題が指摘されおり、研究者の中でも論が割れている。江戸時代中期~後期に成立か。




◆坂本城址の場所に関する記述

①「七本柳ノ二町程湖辺ニ、明智日向守光秀ノ城跡アリ」

 『近畿歴覧記』:1678年、京都の医師黒川道祐によって書かれたもの

②「坂本城の城跡に一寺を建てたのが今堂(東南寺)であり、古城地の石垣が今に残っている」

 『近江輿地志略』:1734年成立

 ※東南寺は今も坂本城址の石碑の近くに残っており、境内には坂本城戦死者供養塔がある。



?1576年正月、安土城築城を思い立った信長に光秀は、「安土山に、五層の天守のある城を築いたらいかがでしょう」と進言したという。他の書籍でも触れられていることである。この話が載っている文献は何だろうか。調べてみたい。




◆近江土豪連合は明智光秀をバックアップしていた?

・「明智殿逆心の以後、山崎古(久)我縄手合戦のみぎり、多賀新左衛門尉、久徳六左衛門尉に誘われ候て、光秀卿方に罷りあり」(湖東犬上郡土田村の土豪、馬場氏の由緒書の一節)=山崎の戦いに参加している証拠か

・猪飼野甚介(比叡山焼き討ちの際に光秀が書状を送った和田秀純の娘婿である堅田の土豪猪飼野宣尚の息子)は光秀の与力として、本能寺の変に参加している。

・山崎の戦い後、斎藤利三は堅田に逃げ込んでいる。これは単なる偶然ではない?



◆今谷明氏「なぜ、光秀が愛宕山に登ったか。それは、洛中鳥瞰にある」

月輪寺のほうに歩を運べば、市中の眺めは容易?




◆千利休→息子・少庵(1582年5月28日)書状

「殿様、御下向成られず候に付いて、我等式を初め、南北銘(名)々力を失い候、茶湯面目を失い候、返す返す御残多き次第、御残多き次第」

信長の嫡男・信忠を招いて行うはずだった茶会が、突然中止されて、誠に残念でならないと落胆している。


信長は大坂を押さえ、やがては博多を本拠地として、海外貿易を盛んにして、国を豊かにしていくビジョンがあると、著者は考えている。

自由商業都市堺の商人たちは自分たちの利潤を守るべきか否かの瀬戸際に追い込まれたともいえた。博多に市場を持っていかれたら、彼らの死活問題となる。(=堺商人黒幕説)


◆信長と堺商人たちとの過去の経緯について

1568年9月、三好三人衆と松永久秀を追い払い、京を掌中に収めた信長は、摂津、和泉の各都市、寺社等に矢銭(軍資金)を差し出すよう命じた。特に当時の日本を代表する貿易都市堺には、二万貫(八万石相当)の矢銭を要求、あわてた堺の、富商三十六人によって組織されている会合衆たちは、早速談合を開始する。

『重編応仁記』(江戸中期成立、小林生甫著)によれば、堺商人は信長と戦う構えを見せる。それに対して信長は要求を飲めないなら町を焼き払い、老若男女問わず、撫で斬りにすると恫喝したという。




◆荒木村重謀反の叛因とは?

①中川清秀が無断で敵側である石山本願寺門徒衆に対し、兵糧を送っていたことが露見→咎められる

②村重が毛利攻めの副大将でありながら、播磨の神吉城攻めの際、城内にいた神吉藤太夫を始めとする敵方の将兵を逃がしてやったこと(※『信長公記』の記述からもこの話は事実と見える)


著者はそれよりも以前の1576年4月14日の村重のとった行動(信長による本願寺攻めの先陣の命令を村重が断ったこと)に、謀反の兆はすでにあったと解釈している。




◆1579年、光秀は宇津頼重の居城である宇津城を攻めた。禁裏御料地である山国荘や、細川家の領地である細川荘の年貢を横領したためである。翌年、光秀は周山城を築いた。

『老人雑話』には「光秀は主君信長を、古代中国の悪王、殷の紂王に見立て、自らを周の武王に準えた」といった話があるが、『北桑田郡誌』では「彼(光秀)の周山城を築けるは、宇津その他土豪の再起に備へんが為のみ、所謂謀反の宿志ありしにはあらず」とあり、野望説をあっさりと否定している。


また「周山」というのはもとからあった地名であるという。よって、『老人雑話』の話は成り立たない。

これはあくまでも私の推測であるが、『老人雑話』の語り部である江村専斎は光秀が生きた時代は完全に一致していない。ゆえに「明智光秀が謀反をした」という結果論から周山をもじったこの逸話が作られ、囁かれたのではなかろうか。


なお、光秀は禁裏御料地を回復した礼に、正親町天皇から馬鎧とかけふくろ20個を貰っている。(『御湯殿上日記」1579年7月24日の条)


◆1581年8月14日、光秀は親しい仲である津田宗及を招いて、周山城の一室で、十五夜の月見を楽しんだとする記録が『津田宗及茶湯日記』に残されている。

宗及「宮古人 月と酒とのこよいかな」




◆信長は安土城に天皇を迎えるための宮殿を作った。ルイス・フロイスは「宮殿は、彼の邸(天主閣)よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた」と言っている。

こういうこともあり、信長が天皇をないがしろにしたという話を否定する意見もある。しかし、著者は「本当に信長に天皇を敬う気持ちがあれば、自分が見下ろす場所に、天皇の御所を造営するはずがない」と主張している。

御殿から天主へ行こうとすれば、階段を登らなければならない作りになっていたのだ。




◆洲本城の重要性

大阪湾の制海権を掌握し、近畿、淡路を支配下に納める場所にこの洲本城はある。

1581年11月、機内への進出を図る長宗我部元親は、淡路土着の水軍の将、菅平右衛門にこの城を占拠させている。本能寺の変後は、羽柴秀吉は、仙石権兵衛、石井与兵衛を洲本に差し向けて、菅平右衛門を降したと『広田家文書』にある。

明智家は長宗我部家とは深い関係を持っている。故に光秀はどうしてもこの洲本城を確保しておくべきであったと著者は語っている。




◆かつて京都の奉行をしていた時、光秀は市中の民政を担当していたが、評判がよく、彼が出陣するに際しては、市民たちが、ちまきや酒、肴などを進物して、明智軍を見送ったと言われている。なかでも乾飯(乾燥して貯えておく飯。水に浸せば、すぐに食べられる)が積み上げるほど集まったというから、光秀に人望があったのは確かといえる。


(すごく……なつかしくなった……そんなんもあったなぁ……)




◆著者は勧修寺晴豊が黒いのではと推測している。

①勧修寺晴豊は信長討ちの談合に加わっていた?

「斎藤蔵助ト申者、明智者也、武者なる物也。かれなと信長打談合衆也、いけとられ車にて京中わたり申候」

「近衛殿、入道殿(晴豊の祖父、勧修寺尹豊)、嵯峨御忍候、打可申候とて、人数さか(嵯峨)へ越候。御ぬけ候。近衛殿今度ひきょ(非挙=いわれのない事)事外也」=「斎藤内蔵助が捕えられたのを見て、嵯峨に逃げ出すとはずるいではないか。おまけに、80歳の祖父を巻き添えにするとは、いったい何という男なのだ」?近衛前久の関与?

(『天正十年夏記』:勧修寺晴豊の日記)

②晴豊は明智秀満の妻を助け、その継子を保護している。これは彼が光秀に「信長打」を依頼したからでは?依頼した以上晴豊にはその一族を保護する道義的責任があった。

③光秀が討ち取られたといわれる小栗栖は勧修寺晴豊の領地である。光秀は坂本城へたどり着く前にまず、この勧修寺に立ち寄ることを考えたのでは?晴豊が光秀を消して、真実の隠蔽を考えようとした場合、光秀の特徴を百姓たちに事細かに教えることは可能だろう。

武光誠『たけみつ教授のこれぞ、戦国武将!-乱世に散った10人の鬼才-』(平成18年)まとめ。



◆光秀が低い身分から立身したと記す文献

『校合雑記』(様々な史料をまとめたカタログのような史料で、幕末に編纂されたものと言われている?):光秀はもとは細川藤孝の徒の者であったとする。そして、のちに細川家を出て、信長の徒の者になった。そのあと、信長に気に入られ、知行をもらって痩せ馬一匹の主になり、次第に出世していったという。

『籾井家日記』(明智光秀によって落とされた八上城の主であった戦国領主波多野秀治一族の興亡史をまとめたもの。落城後、家臣であった籾井五郎右衛門らが高野山中に隠れ、書き残した。全7巻。しかし、5巻以下は1714年の写本):信長が明智十兵衛という族姓も知らぬ者を、武辺者といってだんだんに取り立てていったとしている。そして惟任日向守の名を与え、大将分にして、丹波国平定を命じたという。


武光先生は「このような記事によって、光秀が戦国時代に多くいた腕自慢の牢人(浪人)の一人であったとみることもできる。光秀はある時期に細川家に仕え、そののち、朝倉義景に雇われたのだろうか。(中略)通説では、光秀は、もとは細川氏や朝倉氏に仕えた下級武士であったとしている。そうであっても、私は細川氏に仕える前の光秀は、かなり良い身分の出ではなかったかとみている。」と語っている。

光秀の教養の深さからも十分考えられる話である。

※朝倉氏のもとにいたことは『古案』という古文書集中の文書からもわかるのでは。



◆当時の京都の都市民は「町衆」と呼ばれていた。

彼らは、朝廷の保護下にあり、自分たちは地方の農民より高い身分にあるとの誇りを持っていた。京都をおさえる武家は、自ら商工民に命令を下すことはできなかった。彼らの同業者の組合である座を支配する、公家や寺社を通じて交渉するのである。

公家や寺社に気前よく土地を与えれば、京都の町衆を味方につけることができるが、無制限に優遇するわけにはいかない。そこで、公家や寺社との交渉には、高度の政治的駆け引きが必要になる。

さらに、公家や寺社は「自分たちこそ日本の文化の担い手だ」という誇りを持っている。風流のわからない「いなか侍」は軽蔑される。

(中略)

そこで、もっとも頼みとする側近の秀吉に、京都の政治を行わせた。秀吉は、低姿勢で人当たりが良い。ようやく、信長政権と朝廷との関係は落ち着いて生きた。

ところが、永禄12年(1569)3月、秀吉は京内の皇室領の一部を没収して、公家たちの反感をかった。こうなると、信長と朝廷は衝突寸前の状況になる。

そのとき、光秀が上手に朝廷をなだめた。いったん取り上げた土地を返すと、信長の権威が傷つく。そこで、光秀は宇津頼重から丹波国山国荘を取り上げ、それを皇室に渡すことを提案した。

これによって収入増になった皇室は満足し、信長の名代をつとめた秀吉の体面も傷つくことがなかった。



※1569年4月12日、丹羽長秀・中川重政・明智光秀・秀吉、立入宗継に、禁裏御料所丹波山国荘の直務の相違なき旨を伝える(「立入家所持記」)、 4月18日、丹波宇津頼重に山国荘の違乱を止めるよう命じる(立入文書)……のことだろうか?


※ちなみにその10年後の1579年7月19日に光秀は丹波宇津城を攻め落とし(「信長公記」)、7月24日に正親町天皇より御料所丹波国山国荘回復の賞として物を賜っている(「御湯殿上日記」)。



◆武光先生は光秀の謀反を朝廷の立場を考えた上でのものとし、「知恵とと武勇で苦労して成り上がってきた光秀が、命を粗末にしたとは思えない。……農民の落武者狩りにあうような不注意な振る舞いはしなかったであろう。」と生存説を支持している。

井上智勝『吉田神道の四百年―神と葵の近世史』まとめ。


明智光秀公と無関係ではない吉田神道についてまとめる。

吉田神社の神主、吉田兼見(兼和)は光秀と非常に親密な関係であった。



◆天下人に頼られる吉田家


①豊臣秀吉の娘である豪姫が病に冒された。この娘は子宝に恵まれなかった秀吉夫妻が前田利家に貰い受けた子どもである。

医者に診断させたところ、病因は「狐憑き」であるという。

ここで秀吉は稲荷大明神に対して、

「私の娘に取り憑くなど許すまじき所業であるが、今回だけは許してやる。しかし、これ以上娘を悩ますのであれば、日本中で毎年狐狩りをする。詳しいことは、吉田の神主に伝えさせる。」

という旨の命令っを下した。

この時の「吉田の神主」とは、「吉田兼見」のことである。天下人といえども、神に関することについては、吉田家に頼るしかなかったのだ。


②足利義満は1394年、日吉神社参拝を計画していた。しかし、神社には身内や周囲に不幸があった際、鳥獣や魚を食べた時、女性の月水などの場合は、参拝を遠慮しなければならない一定の期間があった。

神の怒りを恐れた義満は、“穢れ”や参拝にあたっての作法を専門家に尋ねていた。それが「吉田の神主」、「吉田兼敦」であった。


③徳川家光の治世下の1624年、“伊勢踊り”が大流行したことがあった、これは、伊勢神宮のご託宣や奇端があった時に、人々が群れを成して乱舞する現象である。世を治める者にとって、このような民衆の宗教的エクスタシーは、何とも不気味で、得体のしれないものだった。そして、この時家光は、京都所司代板倉重宗をして、「吉田の神主」にこの“伊勢踊り”について意見を聴収した。



◆「神ならば吉田存ずべき儀」……これは徳川家康のブレーン、黒衣の宰相、金地院崇伝のコメントである。意味は、「神様のことなら何でも吉田の神主へ」ということである。



◆「吉田の神主」は「神使い」?

「吉田は神つかひにて、梅のずはへを以て、神をつかはるる」

吉田の神主は、梅の枝を振り振り、神様を意のままに操るという。なんだか魔法使いみたいだ。



◆応仁・文明の乱より、京、伊勢神宮は大打撃を受けた。吉田神社もまた然りである。

しかし、吉田神道の開祖、吉田兼俱は本社の再建を急がず、室町殿の南の馬場の自邸内にあった斎場所を吉田山に移すことを優先させた。斎場所は「日本最上神祇斎場」ともいい、日本国内すべての神様がうち揃う神社のことである。

すなわち、兼俱は吉田山を天下無双のパワースポットに仕立て上げようとしたのである。

◆1489年、3月25日と10月4日、二度にわたって、不思議な器物が吉田山斎場所に落下してきた。吉田兼俱はこれを、「お伊勢さんの御神体」と天皇に判断させることに成功し、世論を味方につけた。

無論、「御神体が吉田山に逃げてしまった」とされた、伊勢の側としてはたまらない。末代まで怨敵として憎まれていくことになる。



◆六畳上皇、後堀川天皇は吉田兼俱にこのような旨の書いてある文書を一通ずつ与えている。

「祖先神天児屋命の妙業を受け継ぎ」「天児屋命の大業をただ一人受け継いできた」。

この二通の文書によれば、兼俱は天児屋命の子孫ということとなる。

天児屋命とは、天上世界の神道を司った神様で、天孫降臨に際して、お供として地上に降り、神道の面で天孫を助けたという。つまり、天上世界の神道を地上に持ってきた唯一の存在だ。そして、その「妙業」「大業」をただ一人受け継ぎ、伝えてきたのが吉田家、ということになる。

これらの文書は、吉田家の先祖がそのサラブレッド性を天皇・上皇に認められ、それゆえ神道界のリーダーたることを当然視されていたことを示している。

これは“神使い”にふさわしい家系であるといえる。



◆吉田兼俱登場以前の神道説は、仏教の影響を強く受けていたが、兼俱はそのような状況を断ち切り、神道の独立を勝ち取ることに成功した。



◆1572年12月、明智光秀から吉田兼見のもとに一通の書状が届いた。

「美濃国にいる親類が、山王神社の敷地に新しく城を築いて以降、身体の調子が優れないというのです。是非吉田殿に祈祷をお願いしたいと思います。」

といった内容である。

兼見は光秀に対して、「鎮札」「地鎮」を調達することを約束している。



◆水を使って行水するのは冷たくかなわないのでお湯を使って行水したい、神様が遠くてお参りやお世話が大変なので近くへ神社を移したい……など、吉田家は神様に対する人間のワガママに最大限応えていた。そして、応えることによって、“神使い”としての名声をますます高めた。

そして、吉田家は人間のワガママに「鎮札」という護符を授与して応えていた。これを突きつけられた神様は、人間のワガママを聞き入れる吉田家の呪力に従って、ただ怒りを抑え込むしかないのだ。



◆「宗源宣旨」は、神様に称号や位階を与えたり、承認するために、神祇管領長上が各地の神社の神様に宛てて発給した文書である。

吉田家はこれを機嫌の悪い神様に与えて宥めるという手法で使っていた。

神様に称号や位階を与える権限を有したのは本来天皇であったにも関わらず、吉田家がこれを行う――理由は吉田家がかかる権限を天皇から委任されていたからである。



◆「神道裁許状」というものがある。「鎮札」は神様に宛てられたものである一方、これは人間に対するものである。神道裁許状の記載内容を遵守する限り、神様の祟りは人間に及ぶことはない。



◆御霊神興というものがある。これは非業の死を遂げ、その恨みや無念を祟りによって晴らす人物を神に祭ることで宥め、祟りを鎮めるという考えを持っている。

吉田家はこれに基づく神様のクリエイターとしての役割もおっていた。名もない山伏や下女も神様として祭られた。



◆吉田兼見は、戦国乱世から天下統一の激動の時代に、卓越した手腕を発揮して家を守り、発展させた人物だ。彼は吉田家歴代の中でも、卓越した世渡りの上手さと、鋭敏な政治感覚を具えていた。

―1575年、織田信長が岐阜から入京した時、子息を伴って出迎え、馬上から餅を貰って喜ぶ。(由緒正しいお公家さんが、たかだか守護代上がりの侍に対し、卑屈というべき腰の低さ!)

―信長の京都滞在中、手土産を携えて頻繁に挨拶に訪れている。たとえ面会してもらえなくてもくじけない。

―信長への働きかけの甲斐があってか、1578年は知行を授与するという言葉を得、1579年は吉田家を堂上公家に格上げしてほしいと朝廷に要請。

―豊臣秀吉は死後、「豊国大明神」として祭られることになるが、これを主導したのは兼見であった。



◆しかし、徳川家康の神号問題にて、吉田家は仏教界の怪物南光坊天海に手痛い敗北を喫した。

天海の主張した「大権現」号の効力は以下の通りである。

天下を掌握した武家たちは、やがて天皇の掣肘から自由になろうと欲す。その場合、天皇を頂点とする秩序を築く神道は不都合である。天皇権威の相対化には、仏教という選択肢が有効であった。

また、戦国乱世で最も強力に立ちはだかったのは比叡山や一向一揆といった仏教勢力であった。宗教の力は恐ろしい。故に、日光山に輪王寺門跡を創出し、仏教界の頂点に位置付けることによって、幕府は仏教界を制圧する。

「大明神」号は神道界でしか通用しない神号。「大権現」は仏教界だけでなく神道界にも通用する神号。どちらを採用するのが得策かは、誰の目から見ても明らかであった。


※なお、兼見の跡を継いでいた兼治は家康が「大権現」として神に祭られる前に亡くなっており、当主不在。梵舜はあくまで兼治の代理に過ぎなかった。



◆零落しかかった吉田家を憂いた、吉田家から出た豊国社の神主、萩原兼従は「この時期、吉田神道の奥義を究めていたのは、私だけだ」と主張した。

1653年、吉川惟足が神道の教えを乞いに兼従のもとにやってきた。兼従は惟足に大きな信頼を寄せることとなり、吉田神道の奥義を託した。吉田家と全く血縁のない人物に伝授されたのは前代未聞のことであった。

以後、惟足は保科正之や稲葉正則など、有力大名の信任を得て、吉田神道の再興に大きく貢献した。



◆神道界の天下人。吉田家は大きな力を持っていたが、それを快く思わない神職は多かった。神道界の天下人という自負が強すぎた結果として、暗雲が立ち込み、鍍金が剥がれていく。



◆吉田神社に深い恨みを持ち続けた伊勢外宮の神官が綿密な考証で吉田家を批判した『弁卜抄』という本がある。内容はこうである。

・吉田家は天児屋命とは無関係、つまり吉田家の系図は捏造されたものである。

・吉田家は、もともとは亀の甲羅を灼いて占いを行っていた神祇官の下級技術吏員である。

・吉田家やその先祖が神祇伯に就任したことは、過去に一度もない。

・「神祇管領長上」の職は、亀の甲羅を灼く技術者の長にヒントを得た吉田家の創作である。

・吉田家が活動根拠とする綸旨・院宣類はニセモノである。

・斎場所の由緒はウソである。

・宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書である。

これは精緻を極め、現在の研究水準からみても、相当にレベルの高いもので、説得力を認めざるをえないものであった。

かつては誰も疑わなかった吉田家の正統性の根拠は、神職の官位執奏への独占欲から他の公家と争う中で厳しく吟味され、今ここに崩れ去った。



◆江戸時代に諸国の神様に位を与えていたのは吉田家である。そして、吉田家に宗源宣旨を行う権限を与えたのは他ならぬ天皇であった。これは天皇を認識するための素地となり、大政奉還後の天皇の権威確立に大いに役立った。徳川政権にとっては皮肉なことである。

そして、明治国家は吉田家が仏教から独立させた唯一神道の路線の上に国家神道を創出してゆくのである。

『明智光秀=南光坊天海説』はよく取り上げられる光秀の生存説である。

私は今までいくらかの書物、サイト、知恵袋などを巡ってきたが、説の根拠を述懐するに過ぎないものが多く、考えも散っているように感じた。
そこで私は伝承など不確定な部分を省き、事実的証拠また物的証拠を取り上げて、さらにそれに対する反論意見もまとめ、私の考えも整理しようと思う。

天海説の根拠は『【戦国】セレクション:俊英明智光秀』を引用する。それに対して人の反論や私が感じたことを「⇒」の後に記したい。
【戦国】セレクション色々な人の記事が書かれているため、勉強になる本である。しかし、他の文献に関しても言えることだが、鵜呑みはしてはいけない。記事には必ず反論が付きまとい、間違いもある。事実、この一書の中でも筆者が違う故に、相反する意見が多数見受けられた。
そこを踏まえた上で考えてみたい。



①東叡山寛永寺を建立
天海が第一世となった徳川家祈願寺・廟所の東叡山寛永寺は、光秀が一時期籠もり愛着の深かった比叡山を関東に新たに作ったもの。

②川越に残る光秀の影
川越喜多院の山門は、光秀と関係の深い近江坂本から連れて来られた宮大工により建築された記録が残る。

③比叡山の再興
天海は、”比叡山再興の祖”といわれている。これは、光秀時代に信長の命で焼かざるを得なかった比叡山に対する贖罪であった。


⇒光秀は近江坂本を治めており関係の深いことは確かであるし、当然比叡山とも関わりがある。比叡山焼討の後、密かに仏閣などを経営し、僧侶たちのために庵室を結んだという話も残っている。また比叡山三塔の一つである横川への登り口に位置する天台真盛宗総本山・西教寺には光秀の寄進状も現存し、境内には明智家の供養塔も建てられているのだ。
しかし、天海の前半生は謎に包まれているとはいえ、彼は比叡山で修業をしたと言われている。天海は天台宗の僧であり、天台宗の総本山たる比叡山に上るのは至極自然なことである。1607年には比叡山探題に命ぜられており、ここで愛着や親交を深めたという可能性も十分ある。
ゆえに、比叡山延暦寺や近江坂本に関する根拠は、天海と光秀を繋げることはできるものの、根拠としてはやや不足しているように私は感じるのである。
また、近江坂本には天海と家康の墓も存在している。



④光秀寄進の石灯篭
比叡山には、「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯篭が現存している。これは光秀が慶長20年(1615)まで生きていた明らかな証拠。


⇒慶長20年2月というと、大坂冬の陣が終了し、豊臣政権が終わりを見せていた時期に当たり、光秀は豊臣家の滅ぶよう願をかけたのでは?とも言われている。
これは確かに光秀生存の証拠と見られるが反論もある。それはこの灯篭が偽造であり、ここに記されている「光秀」が「明智光秀」とは限らないということだ。しかし、これに関しては考え始めればキリがない。



⑤秩父札所の符号
秩父札所34所の9番を明智寺、13番を慈眼寺という。もともと明智寺は明地正観音、慈眼寺は壇の下と呼ばれていたが、天海の時代にわざわざ改名されたという。

⑥慈眼寺釈迦堂の位牌と木像
光秀の位牌と木像が安置してあるのが、京都府北桑田郡京北町周山村の慈眼寺釈迦堂。この寺号は、天海が死後贈られた諱の「慈眼大師」と同じ。


⇒秩父札所に明智寺と慈眼寺があること、光秀の位牌と木像のある場所が慈眼寺であり、天海の諱が「慈眼大使」であることは事実。そこは認めてよい。
しかし、「慈眼」とは観音経にある言葉で、碩学の天海がその名をつけるのは不思議でないとの反論がある。また、天海の宗派は「天台宗」、慈眼寺は「曹洞宗」である。



⑦江戸崎不動院
天海が最初に関東で入山した江戸崎不動院の開山は、当時江戸崎で上杉氏の代官を務めていた土岐氏。光秀は「土岐氏」の傍流であり、同じ土岐氏を頼り、住持として入山したのだろう。


⇒確かに光秀が再起を図るにはうってつけの場所であったかもしれない。しかし、光秀と天海を同一人物だと考えているからこそ気になる事柄であることを考慮する必要があるように思われる。
また、天海は陸奥国の出身(船木兵部小輔兼光の息子?)と言われており、足利将軍落胤説もある。さらに、天海の両親の墓が会津高田に発見されているとのことだ。



⑧家光の名付け親
徳川嫡流の家光の「光」は「光秀」からとられた。日光東照宮輪王寺には、天海が家光を名付けたときの直筆の紙片が残っており、それは不思議にも折り畳むと文字がちょうど「光秀」と読めるようになっている。


⇒実際に見ていないのでどのようなものかはわからないが、実物が残っているようなので、そこに関しては反論の仕様がないだろう。しかし、「光秀」からとられたかは知る由もない。



⑨春日局の存在
三代将軍家光の乳母・春日局は、光秀の家臣・斎藤利三の子である。春日局が家光乳母となった経緯は公募とされているが、これは明らかにおかしく、天海が差配したに違いない。


⇒徳川政権は「忠」を重視した。ゆえに謀反は許されないものである。これを考えると謀反人の家臣の娘である春日局の抜擢は明らかにおかしいもののように思え、家康たちがそれを知らないとは思えない。何故次期将軍である家光の乳母にあえて春日局を抜擢したのだろうか。謀叛人の娘という系譜がどれほど影響のあるものであったかはわからないが、それでも刺激にはなっただろう。公募制であるならば他にも適した人材がいたのではないか。このことに関しては。光秀=天海説を抜きにして見ても、私は不可解に思う。
また春日局の父である斎藤利三は山科言経による日記『言経卿記』では主犯者的な扱いであり、「日向守内斎藤蔵助、今度謀叛随一也」と記されている。



⑩秩父に残る桔梗紋の武士と僧侶の像
家康が東照宮のひな形として造営を命じた秩父神社には、武士と僧侶の二体の像がある。この両者には桔梗の紋がついており、僧侶は天海、武士は光秀と考えられる。

⑪東照宮に残る桔梗紋
東照宮の陽明門を守る木像武士の鎧の足の部分には桔梗紋があり、陽明門前の鐘楼のひさしの裏には隠されたおびただしい数の桔梗紋がある。


⇒秩父神社にある桔梗紋は光秀の使っていた桔梗紋というより、太田道灌が使っていた「丸に細桔梗」、日光東照宮の武士の足に見られる桔梗紋は織田信長が使っていた「木瓜紋」に近いように思う。しかし、鐘楼に見られる桔梗紋は光秀のものに近いだろう。
しかし、桔梗紋=光秀というのは短絡的な考えであり、他にも使っている人はいる。



⑫比叡山長寿院の足跡
横河にある比叡山文庫の資料「横河堂舎並各坊世譜」の「長寿院」の項には、比叡山で修業した光秀の足跡が残り光秀生存を裏づける。

⑬本徳寺の光秀の位牌
大坂・岸和田の本徳寺に残る光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」とあり、慶長4年(1599)に光秀が生きており、寺の寄進者になった証拠。

⑭本徳寺の光秀の肖像画と讃
本徳寺に残る肖像画の讃の一文には、「放下般舟三昧去」とあり、「光秀が亡命して来て隠棲し、仏の修行三昧をしていたが、今はここを去って行った」と意味をとることが出来る。


⇒比叡山の文庫の中には、「光秀は比叡山に入り、是春と名乗り、剃髪して仏教を学んだ。そして、大僧都にまでなった」といった旨が書かれているそうだ。特に隠されている訳ではないようだが、他の史料同様、そう簡単に信用するわけにはいかないと思うため判断はしがたいと私は考えている。
しかし、これらはどれにしても光秀が生存して僧になったことを示す興味深いものである。



⑮東照大権現

家康の死後の名を「東照大明神」とする動きがあったのを天海が猛反対し、天海自身が山王神道から発展させた山王一実神道に基づいて「東照大権現」とした。「大明神」は秀吉を指すためである。


⇒「もっともか」と言われることもあろうが、私はこれをもって天海=光秀と結びつけるのは短絡的すぎると考える。何故ならば、光秀が天海でなくとも、十分説明がつくからである。

山王一実神道とは法華一実の教えを基本とする神道説であり、これはあくまでも天台の神道説を基礎としている。家康を神として祀った山王一実神道の教えは「現世安穏、後生善処」である。すなわち、これは徳川幕藩体制の維持と徳川家の子孫繁栄を願うもので、徳川家の永久なるわが国支配を確立するための万世不易の大法、政治的色彩の強い宗教である。

高藤晴俊氏は『政界の導厙―天海・崇伝』の記事にて、このような考えを述べている。


家康自身の遺言に「一周忌を過候て以後、日光山に小き堂をたてて、勧請し候へ」(『本光国師日記』)と、死後の祀りの場として、明確に日光を指定していたことは、祭祀を天海に委ねることであり、それは山王一実神道で祀られることを意味している。したがって神号も権現号が前提となる。第一、秀吉の豊国大明神を凌駕した神格を求める者にとって、明神号は最初からあり得ない選択肢であった。このことは、将軍や崇伝にとっては既に了解事項であったと考えられる。


すなわち、「大明神」は、徳川政権を立てるにあたって、まったく適していなかったのである。

ちなみに高藤氏は、「神号問題」の本質は、徳川王権構想ともとられかねない日光山選定の意図を隠蔽するために、崇伝から持ち掛け、天海と二人で演じられた…といった推測もしている。




以上が、私が取り上げる事実的・物的根拠である。
明智平や、家康との初めての出会いは、確実な事実証拠がない伝承であると考えたため、省かせていただいた。


天海説は面白い。

しかし、私は天海説を信じているとも信じていないとも言えない。
400年と前のことだ。真実はこれからもわかることはきっとないだろう。
小栗栖で落ち武者狩りが行われていたことは『兼見卿記』から事実だと思われる。しかし、光秀の死に関しては疑問視を覚えることは多々ある。
光秀は小栗栖で死んだのかそうでないのか――
生きてはいたかもしれないが、本当に天海僧正となったのか――?
現代を生きる私たちがアレコレ考えようと真実はやはり闇の中である。
無益なことだ、とわかってはいるが考えてしまう私がいる。
光秀の死は不明瞭な点が多く、小栗栖で死んだとは私は信じ切れてはいない。不明瞭さは光秀の首塚が三つ(京都東山区、亀岡谷性寺、宮津盛林寺)も存在することからもわかるだろう。


光秀=天海説は今までもこれからも賛否両論の説だろう。
しかし、この説を私は嫌いではない。もしそうであったならば一つの浪漫だと思っている。
このような説が生まれるということは「光秀をあのまま殺すにはもったいない」と思った気持ちがあったからに相違ない。
その点において、私はこの説を評価したいと思っている。




※私もまだ勉強途中ですので、誤りはあると思います。書き直すべき点もあるかもしれません。


※取り上げませんでしたが、『関ヶ原戦屏風』では「南光坊」という男が家康本陣におり、彼の甲冑が大坂城博物館にあるそうです。天海が僧兵であった、という可能性もありますし、これで光秀と同一人物と決めつけるのもまた短絡的な気がします。


※天海僧正は当時の人にしては珍しく長寿であると知られており、これを根拠に光秀=天海説はありえないとされています。光秀は享年55歳の1528年生誕説が定着していますが、彼の前半生は不明であり、彼の生年も不明であるというのが実情です。これを考えれば、単純には反論できないようにも思うのです。