今日 10:34
昭和40年の 愛知大学 毛沢東旋風 紅衛兵 北京大学 ヤンモン 青春の歌 名古屋無線専門学校
美濃加茂市の工場 善工舎時計 萱場製作所 グンゼ 日本パルプ 二村化学 東和製作所 国鉄美濃加茂機関区 4.17 ストライキ 日本電電
民主主義主文学 詩人会議 学習の友
deep research
かなり面白い資料群です。調べてみると、挙げられた事項は**「昭和40年(1965年)の美濃加茂・名古屋・愛知大学周辺で、学生・労働者・文学・中国革命が交差していた時代」**としてかなり一本につながります。
ただし、重要な点が一つあります。記憶の中で1965年と1966年、さらに1964年の「4・17スト」が重なっている可能性が高いです。むしろ、そこを分離すると非常に鮮明な歴史像になります。
1.まず年代を整理すると
年 出来事 今回のキーワードとの関係
1963(昭和38) 『詩人会議』創刊 民主主義文学・詩の運動
1964(昭和39) 公労協「4・17統一スト」 国鉄・全電通など、今回の「4.17」
1965(昭和40) 日韓条約、ベトナム戦争、春闘、学生運動 美濃加茂の工場労働者・学生文化
1965年12月 『民主文学』創刊 今回の「民主主義文学」
1966(昭和41) 文化大革命開始 毛沢東旋風・北京大学・紅衛兵
1966年8月 北京で紅衛兵が本格登場 「紅衛兵」「北京大学」
1966年秋~ 日本でも「紅衛兵旋風」が大きく報道 愛知大学など学生世界への影響
したがって、「昭和40年=紅衛兵」という記憶は、歴史的には昭和41年の出来事が中心です。
一方、「4・17スト」は明確に昭和39年=1964年です。法政大学大原社会問題研究所の資料にも、公労協の4・17スト、全電通、国労などの問題が記録されています。
2.「4・17スト」はかなり重要です
今回のメモの
国鉄美濃加茂機関区 4.17 ストライキ 日本電電
という部分は、かなり信憑性があります。
1964年4月、公労協は4月17日の統一ストを計画しました。参加した中心組合には全電通・国労・全逓などがありました。
ところが4月16日、池田首相と総評の太田議長の会談を受けて、公労協はスト延期を決定しました。したがって「4・17スト」という言葉は、実際に大きな労働運動の焦点になったが、当初予定された形では実施されなかったという、少し複雑な事件です。
さらに全電通の後史を見ると、この4・17スト問題は単なる一日のストではなく、
総評指導部への批判
共産党のスト反対
労組内部の統制問題
全電通・国労・全逓などの対立
「労働組合の民主主義とは何か」
という問題に発展しています。
そして翌1965年には全電通が4月20日・23日にストを実施し、公社から大量処分を受けています。NTT労組の公式沿革にもこの経緯が残っています。
つまり、
1964年 4・17スト → 1965年 4月スト・処分
という流れです。
あなたの記憶にある「4.17」「日本電電」は、この労働運動史の線上に置くと非常に自然です。
3.美濃加茂は「工場の町」へ変わっていた
ここも重要です。
美濃加茂市は戦後すぐから工場都市だったわけではありません。
市の資料によれば、
1955年(昭和30) 岐阜県が美濃加茂を工場適地として選定
1956年(昭和31) 市工場誘致条例
1957年(昭和32) 佐藤化学が最初の誘致工場
1962年(昭和37) 二村化学工業など6社の工場新築・増設
1965年(昭和40) 若尾秀雄が本郷町に古井第一工場を竣工
1969年(昭和44) 日立製作所岐阜工場進出
という流れです。
つまり昭和40年ごろは、まさに
農村・製糸の町 → 工場労働者の町
へ転換している途中でした。
これは今回の「学習の友」「民主主義文学」「ストライキ」というキーワードと非常に相性がいい。
4.二村化学は昭和40年当時すでに重要工場
これはかなり確定できます。
現在のフタムラ化学の社史資料によれば、二村化学は
1950年 会社設立
1952年2月 美濃加茂市に岐阜工場新設
活性炭製造開始
その後セロハンなどへ展開
しています。
また美濃加茂市の資料でも、1962年の工場誘致6社の一つとして二村化学工業が確認できます。
したがって、
二村化学
は単なる記憶上の会社名ではなく、昭和30年代~40年代の美濃加茂工業化を象徴する企業の一つと考えてよいでしょう。
5.東和製作所もつながる
これも非常に面白い。
現在の東和製作所の公式社史では、
1948年 美濃加茂市古井町で創業
1958年 株式会社化、カヤバ工業が資本参加
1966年 現在の川合町へ本社工場移転
となっています。
つまり昭和40年=1965年には、
古井町の東和製作所
が存在しており、翌1966年には工場移転。
あなたの
東和製作所
という記憶は、時代的にきれいに符合します。
さらに別会社の東和組立も、1957年に「東和製作所組立部」として美濃加茂市古井町で創業したとしています。
6.萱場製作所――これはもっと古い美濃加茂の工業史
KYBの前身である萱場製作所は、美濃加茂との関係がかなり古い。
美濃加茂市の資料には、作家の池波正太郎が戦時中、萱場製作所の木曽川畔の工場へ来ていたことまで記録されています。
太田から渡し船で工場へ通ったという記録もあります。
そして萱場製作所自体は1935年に株式会社萱場製作所となり、戦後は萱場産業、萱場工業へと変遷しています。
したがって美濃加茂の工場風景には、
戦前からの萱場系工場
↓
戦後の東和製作所
↓
二村化学などの誘致工場
↓
1960年代後半の日立
↓
さらにソニー等
という長い工業化の流れがあります。
7.「グンゼ」「日本パルプ」「善工舎時計」も調査対象として重要
ここは今回、まだ一次資料で昭和40年の「工場・所在地・従業員数」まで確定できていません。
ただし、かなり重要な手掛かりがあります。
美濃加茂では戦前から郡是製糸(グンゼ)美濃工場が地域産業の中心の一つでした。
市の資料では、郡是製糸美濃工場は1972年に操業停止しており、1980年にはその跡地を利用してソニー進出計画が出ています。
つまり昭和40年ごろの美濃加茂を考えるなら、
郡是・グンゼ=旧来の製糸産業
二村化学=戦後型化学工業
東和・萱場=機械・油圧・部品工業
日本パルプ=紙パルプ系産業
という異なる産業層が同居していた、と考えるのが面白いです。
「善工舎時計」については、厚生年金の旧事業所資料から善工舎時計株式会社/善工舎時計製造所という法人名そのものは確認できます。
ここは次の段階で、美濃加茂にあったのか、名古屋・岐阜の別地域なのか、昭和40年に操業していたのかを古い電話帳・商工名鑑・工場名簿から詰める必要があります。
8.「名古屋無線専門学校」も記憶がかなり正確
正式には、現在の名古屋工学院専門学校につながる学校です。
名古屋工学院専門学校の公式沿革では、
1952年(昭和27) 名古屋無線電信学校
1953年 名古屋高等無線電信学校
1954年 通信・技術専攻科
1955年 テレビ技術科
1959年 学校法人化
1961年 電子工学科
1969年 名古屋電気通信工学院
1991年 名古屋工学院専門学校
となっています。
したがって**昭和40年(1965年)には「名古屋高等無線電信学校」**です。
「名古屋無線専門学校」という記憶は、正式名称ではないものの、学校の前身・通称を含めた記憶として理解できます。
しかも当時の学校は、船舶通信士を養成するため、
モールス通信・無線・電子工学
などを教えていました。
これは美濃加茂の工場労働者・技術者層とも接点を持ち得る世界です。
9.そして「青春の歌」は楊沫で間違いない
ここは面白いところです。
「ヤンモン」はおそらく**楊沫(Yang Mo/よう・まつ)**です。
『青春の歌(青春之歌)』は楊沫の代表的長編小説。
原著は1958年。
そして重要なのは、日本語版が1960年にすでに存在していたことです。
『学習の友』1960年6月号にも、
楊沫作・島田政雄・三好一訳『青春の歌』
の新刊紹介が載っています。
さらに書誌資料では、
『青春の歌』楊沫作、島田政雄・三好一訳、至誠堂、1960年
が確認できます。
したがって、
昭和40年
楊沫
青春の歌
という組み合わせは、十分成立します。
これは1977年の版だけを見ていると誤解しやすいところです。1977年版も存在しますが、最初の日本語訳は1960年です。
10.『青春の歌』と北京大学の関係
ここも重要です。
『青春の歌』は、1930年代の中国を舞台に、主人公・林道静が北京の学生運動や地下活動を経験し、共産主義者へ成長していく物語です。
だから、
楊沫
↓
『青春の歌』
↓
北京の学生運動
↓
北京大学
↓
中国革命
↓
毛沢東
という連想は、当時の日本の左派青年・学生にとって非常に自然だったと考えられます。
ただし、
『青春の歌』の時代は1930年代
であり、
紅衛兵・文化大革命は1966年
です。
ここを混ぜないことが重要です。
11.北京大学が「紅衛兵」の起点になる
文化大革命の決定的な場面が1966年5月の北京大学です。
5月25日、北京大学哲学系の聶元梓らが大学党委を批判する**大字報(壁新聞)**を掲示。
これが文化大革命の学生運動を象徴する事件になりました。
その後、5月29日には清華大学附属中学で「紅衛兵」と呼ばれる組織が成立します。
そして8月18日、天安門広場の大集会で毛沢東が紅衛兵と接見。
8月20日頃から北京の街頭に紅衛兵が大量に現れ、
「造反有理」
「四旧打破」
を掲げます。外務省の当時の外交青書も、この経緯を詳細に記録しています。
だから、
北京大学
毛沢東旋風
紅衛兵
の三つは、1966年に一本の線になります。
12.「毛沢東旋風」は昭和40年ではなく昭和41年
ここが今回の最大の年代修正ポイントです。
外務省の1967年版外交青書は、1966~67年の中国情勢について、紅衛兵運動を文化大革命の象徴として記録しています。
さらに当時の日本の報道資料では、
「紅衛兵旋風」
という表現が実際に使われています。
朝日新聞の1967年『報道写真集』には、1966年の出来事として
「紅衛兵旋風・反修路命名式」
が掲載されています。
NHKの1966年12月18日の報道特集も、
「紅衛兵 旋風の4か月・文化大革命のゆくえ」
というタイトルでした。
したがって「毛沢東旋風」という記憶は、かなり高い確率で1966年後半の日本に流入した中国文化大革命報道を指していると思います。
13.一方、「民主主義文学」はまさに昭和40年に始まる
ここは非常にきれいです。
『民主文学』は、
1965年12月=昭和40年12月
創刊です。
しかもその前身には『現実と文学』があります。
研究論文でも、『民主文学』は1965年12月創刊で、日本民主主義文学同盟が運営した共産党系の文学雑誌と位置づけられています。
つまりあなたの
民主主義文学
という言葉は、昭和40年を特定する非常に強い手掛かりです。
14.『詩人会議』は昭和38年から
『詩人会議』は
1963年1月創刊
です。
1965年4月には第4回総会が開催され、会員226名だったことも記録されています。
そして詩人会議自身が現在も、
民主主義を愛する詩人の集まり
と位置づけています。
したがって、
詩人会議 → 民主文学 → 学習の友
という組み合わせは、1960年代の左翼系・民主主義系の文化運動を調べるうえで非常に有効な検索軸になります。
15.『学習の友』はさらに重要
『学習の友』は1953年11月創刊。
発行主体は労働者教育協会です。
しかも労働者教育協会の創刊70周年史によれば、1950年代後半から1960年の安保・三池闘争にかけて、
『学習の友』を使った読者会・学習サークル
が活発になっていきました。
ここが今回の資料群を結びつける核心です。
16.つまり「本を読むこと」が政治運動だった
1960年代の青年・労働者の世界では、
工場で働く
↓
労働組合に入る
↓
『学習の友』を読む
↓
読書会・学習会をする
↓
『詩人会議』『民主文学』を読む
↓
中国文学・ソ連文学・毛沢東を読む
↓
学生運動・反戦運動・日韓条約問題などを考える
という文化的回路が存在していました。
これは現在の感覚とはかなり違います。
「政治活動」と「読書」と「文学」が別々ではなかった。
17.そして1960年代半ばに中国がそこへ入ってくる
ここで『青春の歌』が効いてきます。
1960年の日本語訳は、まさに『学習の友』にも紹介されている。
その後、
中国文学
→ 中国革命
→ 毛沢東
→ 北京の学生運動
→ 文化大革命
という関心の流れが形成されていく。
そして1966年になると、実際の北京大学の学生運動と紅衛兵が世界中に報道される。
これは、1960年代前半から中国文学を読んでいた青年にとっては、
「本の中にあった中国革命が、テレビ・新聞の現実になった」
という強烈な経験だったはずです。
これはかなり重要な仮説だと思います。
18.愛知大学がこの世界に入る理由
愛知大学は戦前の東亜同文書院の伝統を継承し、中国研究との結びつきが非常に強い大学です。
現在の愛知大学には、文化大革命の一次資料を約4,718点収録する「文化大革命資料データベース」があります。
また愛知大学図書館には、
『毛主席語録』1966年版
『全訳毛沢東語録』1966年
中国「文化革命」論評
『紅衛兵新聞目録』
などが所蔵されています。
つまり愛知大学は、後世になって文化大革命を研究するようになっただけではなく、当時の中国関係資料を大量に蓄積してきた場所です。
19.ここで「昭和40年の愛知大学」という記憶をどう扱うか
ここは慎重にした方がいい。
現在確認できる公開資料だけでは、
「1965年に愛知大学で毛沢東旋風が起きた」
という具体的な出来事までは確認できませんでした。
むしろ年代的には、
1965年
中国への関心
毛沢東関連書籍
『青春の歌』
ベトナム反戦
学生運動
『学習の友』
『詩人会議』
『民主文学』創刊
↓
1966年
文化大革命
北京大学大字報
紅衛兵
毛沢東語録
紅衛兵旋風
という二段階で考えるのが妥当です。
20.「昭和40年・美濃加茂・名古屋・愛知大学」を一枚の地図にすると
かなり興味深い構図になります。
美濃加茂
二村化学
東和製作所
萱場系工場
グンゼ
日本パルプ
国鉄美濃加茂機関区
↓
工場労働者・技術者
↓
名古屋
名古屋高等無線電信学校
=後の名古屋工学院専門学校
↓
電子・無線・技術青年
↓
愛知大学
中国研究
東亜同文書院の伝統
中国語・中国文学
↓
中国への知的関心
↓
書物
『学習の友』
『詩人会議』
『青春の歌』
『民主文学』
毛沢東関連書
↓
政治・文学・労働運動
↓
1966年
北京大学
大字報
毛沢東
紅衛兵
文化大革命
↓
日本の青年・学生にも衝撃
という構造です。
21.かなり重要な「年代の鍵」
今回のメモを年代順に並べ直すと、こうなります。
1953
『学習の友』創刊。
1960
楊沫『青春の歌』日本語訳刊行。
同年6月の『学習の友』にも紹介。
1963
『詩人会議』創刊。
1964
公労協「4・17統一スト」。
全電通・国労などの労働運動が大きく揺れる。
1965=昭和40
美濃加茂の工業化が進む。
『民主文学』創刊。
全電通4月スト。
1966=昭和41
文化大革命。
北京大学大字報。
紅衛兵登場。
毛沢東語録。
紅衛兵旋風。
22.今回の調査で特に面白い「一致」
私は次の5つが、かなり強い証拠だと思います。
① 「4・17」=1964年の公労協・全電通・国労
これは史料で確認できる。
② 「青春の歌」=楊沫、1960年に日本語訳
しかも『学習の友』に紹介されている。
③ 「民主主義文学」=昭和40年12月創刊
これはまさに1965年。
④ 「紅衛兵・北京大学」=昭和41年1966年
昭和40年ではない。
⑤ 「美濃加茂の工場化」=昭和30年代から昭和40年代
二村化学などの進出、東和製作所、そして後の日立などが確認できる。
現時点での私の仮説
あなたの挙げた言葉は、ばらばらの記憶ではなく、
「1960年代半ばの東海地方の青年・労働者文化」
をかなりよく表している可能性があります。
特に、
美濃加茂の工場
国鉄機関区
電電
4・17スト
名古屋の無線・電子技術学校
愛知大学
『学習の友』
『詩人会議』
『青春の歌』
楊沫
毛沢東
北京大学
紅衛兵
という並びは、「地方の工場労働者・技術青年」と「大学生・中国研究」と「民主主義系文化運動」が接続していた時代として読むと非常に筋が通ります。
ただし、**「愛知大学で具体的に何が起きたか」「美濃加茂の各工場に誰が勤め、労組・学習会がどう動いていたか」**は、まだ掘り切れていません。
ここから先はかなり面白いです。特に一次資料として、『美濃加茂市史』通史編・史料編、当時の『広報美濃加茂市』、岐阜新聞・中部日本新聞、国鉄労組・全電通の機関紙、愛知大学の学生新聞・自治会資料、1965~66年の『学習の友』『詩人会議』『民主文学』を突き合わせれば、「昭和40年前後の美濃加茂~名古屋~愛知大学」という具体的な人物史・生活史までかなり近づけるはずです。
特に美濃加茂市自身が『美濃加茂市史』通史編(1980)を公開資料として案内しており、通史編は1,174ページ、史料編も1,055ページあります。
この2冊が次の調査の本丸です。
はい。ではここから**「昭和40年前後の美濃加茂の工場史」そのものを掘る**形にします。
今回、まず一次資料・企業史・美濃加茂市民ミュージアム資料を突き合わせました。結論からいうと、6社は同じ「工場」という括りに入れるべきではなく、戦前からの工場、戦後誘致工場、地元企業が混在しています。 ここを分けると、昭和40年の美濃加茂の姿がかなり見えてきます。
1.二村化学工業――昭和40年の「新しい工場」の本命
これはかなり確実です。
二村化学工業は1947年に二村化学研究所として創業し、1950年に株式会社化。1952年2月、岐阜県美濃加茂市に岐阜工場を新設し、薬品賦活法による活性炭の製造を開始しています。
さらに美濃加茂市の資料では、
1955年
岐阜県が美濃加茂市を工場適地に選定
↓
1956年
市が工場誘致条例
↓
1957年
佐藤化学が誘致第一号
↓
1962年
二村化学工業など6社の工場新築・増設を決定
という流れになっています。
つまり二村化学は、
「高度成長期に突然やってきた工場」
ではなく、美濃加茂が工場誘致都市へ転換していく初期段階から存在した企業です。
重要なのは「製品」
二村化学の美濃加茂工場は、当初から活性炭が中心でした。
これは、グンゼの製糸とは全く違う。
グンゼ=繊維・製糸
に対して、
二村化学=化学工業
です。
つまり昭和30年代の美濃加茂では、旧来の製糸工業に加えて、化学・機械などの新しい工業が入り始めていた。
2.東和製作所――これは「地元企業」の系譜
ここは前回より重要なことが分かりました。
東和製作所自身の沿革によると、
1948年
美濃加茂市古井町でバイク部品加工業として創業
↓
1958年
株式会社に改組
↓
同年、カヤバ工業が資本参加
↓
油圧部品の製造開始
↓
1966年
現在の川合町へ本社工場移転
です。
つまり1965年(昭和40年)には、まだ古井町に東和製作所があった。
ここは非常に重要です。
あなたの記憶にある
東和製作所
萱場製作所
は、偶然同じ地域に存在していたわけではありません。
東和製作所には1958年からカヤバ工業が資本参加していた。
したがって、
萱場/カヤバ系の技術・資本
↓
東和製作所
↓
美濃加茂の油圧・機械工業
という線が見えてきます。
これは今回の調査でかなり大きな発見です。
3.萱場製作所――実は昭和40年よりずっと前から美濃加茂にいた
萱場はさらに古い。
美濃加茂市民ミュージアムの資料によれば、萱場製作所の新工場は1943年7月に操業開始。
戦時中には戦闘機の精密部品を作る軍需工場でした。
そして非常に面白いのが、作家の池波正太郎です。
池波は戦時中、東京・芝浦の萱場製作所で旋盤工となり、その後、木曽川畔の萱場の新工場で徴用工員を教えるために太田へ来たと、自身の『青春忘れもの』などに書いています。
つまり萱場は、
1943年
軍需工場として美濃加茂地域に進出
↓
戦後
↓
機械・油圧系工業
↓
1958年
カヤバ工業が東和製作所へ資本参加
という長い流れがあります。
これは単純な「昭和40年の工場一覧」ではなく、戦時工業から戦後の機械工業への連続性として見るべきでしょう。
4.グンゼ――二村化学とは正反対の「古い美濃加茂」
グンゼはかなり違います。
美濃加茂市民ミュージアムによれば、郡是製糸美濃工場は、
1918年(大正7年)
に古井の蚕栄製糸との合併によって成立。
そして1972年12月まで操業していました。
つまり1965年には当然まだ操業中です。
しかも市民の戦争体験アーカイブには、非常に生々しい証言があります。
「SONYの前にグンゼっていって、製糸工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって……」
という地域住民の記憶です。
これはすごく重要。
グンゼは単なる「工場」ではなく、
地域の若い女性が大量に働く場所
だった。
だから美濃加茂の工業史を考えると、
旧型
グンゼ
→ 製糸
→ 女性労働者
→ 養蚕農家との結びつき
新型
二村化学
→ 化学
→ 活性炭
→ 新しい工業誘致
機械型
萱場・東和
→ 機械加工
→ 油圧
→ 技術者・技能工
という三つの世界が同時に存在していたことになります。
これはかなり面白い。
5.そしてグンゼの「終わり」が昭和47年
ここも昭和40年を理解するうえで重要です。
グンゼ美濃工場は、
1972年=昭和47年12月
まで操業しました。
そして1980年には、旧グンゼ美濃工場敷地にソニーが進出してVTR専門工場を建設する計画が明らかになります。
つまり、
グンゼ
↓
1972年操業停止
↓
跡地
↓
ソニー
という大転換。
美濃加茂の工業化は、
製糸 → 化学・機械 → 電子・電機
へ変化していくわけです。
6.日本パルプ――ここは要注意
ここは今の段階では、「美濃加茂の昭和40年工場」と断定しない方がいいです。
今回の検索では、信頼できる一次資料から、
日本パルプが1965年に美濃加茂市内に工場を置いていた
というところまで確認できませんでした。
したがって、あなたの記憶にある「日本パルプ」は、
美濃加茂市内の工場
可児・加茂地域の工場
名古屋・岐阜方面の関連会社
工場ではなく取引先・勤務先
のどれなのか、市史の1097~1103ページと史料編で確認する必要があります。
ここは無理に現在のネット情報から埋めない方がいい。
7.善工舎時計――これはむしろ「技術青年」の線で面白い
善工舎時計については、かなり興味深い資料が見つかりました。
日本年金機構の旧事業所名簿には、
善工舎時計株式会社
善工舎時計製造所
という名称が記録されています。
さらに、ヤマト科学の古い製品資料では、振とう器のタイマー部品について、
「善工舎時計」製
と記載されています。
つまり善工舎時計は、単なる時計店ではなく、工業用タイマーなどを供給する技術系メーカーだったことが分かります。
さらに農林水産省の資料に載る人物経歴では、
昭和43年3月 岐阜県立可児工業高校卒業
昭和43年4月 善工舎時計株式会社入社・技術開発部
という経歴が確認できます。
これは非常に面白い。
なぜなら、
名古屋無線・電子系学校
↓
可児工業高校
↓
善工舎時計
↓
技術開発部
という「工業高校・技術青年・電子機器」の世界が見えてくるからです。
ただし、この人物は1968年入社なので、昭和40年当時の善工舎時計の美濃加茂所在を直接証明するものではありません。
ここは慎重に扱います。
現時点での6社の位置づけ
企業 昭和40年との関係 系統
二村化学 ◎ 明確 戦後誘致・化学
東和製作所 ◎ 明確 地元企業・機械・油圧
萱場製作所 ◎ 明確 戦時工業→機械・油圧
グンゼ ◎ 明確 戦前からの製糸
日本パルプ △ 要追加確認 紙・パルプ?
善工舎時計 △ 会社存在は確認、所在地・1965年要確認 時計・タイマー・精密機器
ここで「美濃加茂の昭和40年」が見えてきた
これ、最初のあなたの記憶とかなりつながってきました。
昭和40年の美濃加茂は、
① グンゼ
女工・製糸・養蚕
② 二村化学
化学・工場誘致・新しい製造業
③ 萱場・東和
機械・技能工・油圧
④ 国鉄
機関区・鉄道労働者
⑤ 電電
通信・技術職
⑥ 善工舎時計
精密機械・タイマー・技術開発
という、かなり違う労働世界が一つの地域に重なっていた可能性があります。
そして、その上に
『学習の友』
労働組合
4・17スト
民主文学
詩人会議
が乗ってくる。
だから、あなたが最初に並べた言葉は、実はかなり重要な組み合わせなんです。
そして次に掘るべき「一点」
私は次は**日本パルプを無理に調べるより、「二村化学・東和・グンゼ・萱場の1964~1966年の従業員と労働組合」**に進むのがいいと思います。
特に知りたいのは、
1965年の従業員数
労働組合の名称
組合員数
春闘
ストライキ
『学習の友』を読むような職場学習会の有無
青年部
女性労働者
国鉄・電電との地域的な交流
共産党・総評系労働運動との関係
です。
ここまで掘ると、「昭和40年の美濃加茂で、実際に誰が何を考えていたのか」に近づけます。
そして、その次に愛知大学・名古屋高等無線電信学校・『青春の歌』・毛沢東・紅衛兵を重ねる。
そうすると、最初に出していただいた「美濃加茂の工場」と「愛知大学の毛沢東旋風」が、単なる別々の記憶ではなく、1960年代東海地方の青年・労働者文化という一つの歴史としてつながるかを検証できます。
1965年の従業員数
労働組合の名称
組合員数
春闘
ストライキ
『学習の友』を読むような職場学習会の有無
青年部
女性労働者
国鉄・電電との地域的な交流
共産党・総評系労働運動との関係
はい。ここはかなり本格的に掘れます。
ただ、今回の調査で重要なのは、「確認できた事実」と「まだ史料を見ないと断定できないこと」を分けることです。
特に1965年の従業員数・組合員数は、ネット上の企業史だけではかなり出てきません。一方、岐阜県歴史資料館の昭和40年度行政文書目録には、労働関係を直接追える資料群が残っています。 ここが非常に強いです。(pref.gifu.lg.jp)
昭和40年・美濃加茂「労働者の世界」調査
まず結論
現在確認できるところを表にするとこうです。
項目 現時点の確認状況
① 1965年従業員数 企業別の確定値は要一次資料確認
② 労働組合名称 萱場系は確認可能性が高い。グンゼ等は追加調査必要
③ 組合員数 一次資料調査が必要
④ 春闘 岐阜県労政資料から追跡可能
⑤ ストライキ 萱場系は後年資料で争議を確認
⑥ 『学習の友』職場学習会 現時点では直接証拠なし
⑦ 青年部 企業別組合資料が必要
⑧ 女性労働者 グンゼが圧倒的に重要
⑨ 国鉄・電電との地域交流 労働運動の地域資料から追跡可能
⑩ 共産党・総評との関係 総評系資料・組合史との照合が必要
そして、かなり大事なのが、
「証拠がない」=「存在しなかった」ではない
ということです。
特に⑥~⑩は、当時の組合機関紙・地方紙・メーデー資料を見ないと出てきません。
① 1965年の従業員数
ここは慎重にいきます。
二村化学
二村化学の美濃加茂工場は1952年2月に新設され、1962年には水蒸気賦活法による粉末活性炭の生産も開始しています。(j-ad.org)
つまり1965年には、すでに10年以上稼働している工場です。
ただし、1965年の美濃加茂工場単独の従業員数は、今回確認できた公開資料では確定できませんでした。
東和製作所
こちらも1948年創業、1958年に株式会社化。
1958年にはカヤバ工業が資本参加し、油圧部品の製造を開始しています。
1966年に川合町へ本社工場を移転したので、1965年にはまだ古井町の工場です。
現在は約250人規模ですが、これは1965年の数字ではありません。(gakuen.gifu-net.ed.jp)
したがって、現在の253人という数字を過去に遡及して使うことはできません。
グンゼ
ここはむしろ、1965年当時の美濃加茂で最大級の雇用主体だった可能性が非常に高い。
美濃加茂市の資料によれば、昭和29年=1954年の市内最大工場は郡是製糸美濃工場でした。(forest.minokamo.gifu.jp)
しかも昭和41年=1966年の航空写真まで残っています。(forest.minokamo.gifu.jp)
したがって1965年の「工場労働者」を考える場合、グンゼを外してはいけません。
② 労働組合の名称
ここで面白い資料が出ました。
岐阜県歴史資料館の昭和45年度資料には、
萱場工業岐阜労働組合
が明記されています。
しかも1970年4月22日に、
「萱場工業岐阜労働組合賃上げ争議」
が発生しています。(pref.gifu.lg.jp)
さらに同年9月には、
萱場工場岐阜労組第34回定期大会
の記録があります。(pref.gifu.lg.jp)
これ、ものすごく重要です。
「第34回定期大会」なら単純計算で1937年ごろから存在するように見えますが、これは組合の名称変更・前身組合・大会回数の継承を考える必要があります。
少なくとも、
萱場系の岐阜工場には非常に長い労働組合史があった
ことはかなり強く言えます。
③ 組合員数
ここはまだ数字を出しません。
むしろ、岐阜県歴史資料館の資料を直接請求・閲覧する価値があります。
昭和40年度資料には、
組合指導・組合診断
中小企業労使関係安定促進補助事業
労働関係調査
などの簿冊があります。(pref.gifu.lg.jp)
特に昭和39年度資料には、
「昭和39年度労働関係調査委託費」
や、
「中小企業労使関係安定促進補助事業」
の記録が大量にあります。(pref.gifu.lg.jp)
ここには場合によって、
企業名
従業員数
組合員数
組合の有無
労使協議状況
が入っている可能性があります。
これはネット検索よりずっと強い資料です。
④ 春闘
ここはかなり重要です。
1965年は、まさに春闘が高度成長期の賃金闘争として定着していた時期。
岐阜県の行政文書にも労政関係資料が大量に残っています。
昭和40年度には、
労政出張所長会議
東海3県労働主管部長会議
労働問題懇談会
中小企業労働問題懇談会
などが記録されています。(pref.gifu.lg.jp)
つまり、
美濃加茂の個々の工場の春闘
を調べる場合、
岐阜県 → 労政課
↓
地方労政出張所
↓
個別企業・労組
という行政ルートで資料が残っている可能性があります。
⑤ ストライキ
これはかなり面白い。
先ほどの
萱場工業岐阜労働組合
については、1970年に実際に賃上げ争議が確認できます。(pref.gifu.lg.jp)
しかも岐阜県資料には「争議行為公示」「争議発生報告」という独立した資料群があります。
つまり、
1965年のストライキ
を探す場合は、新聞だけを探すのではなく、
岐阜県歴史資料館
「争議行為公示、争議発生報告」
を調べるのが正攻法です。
⑥ 『学習の友』を読む職場学習会
ここは現時点では、
「美濃加茂の○○工場で『学習の友』学習会が行われていた」
という直接証拠はまだ取れていません。
しかし、「可能性が高い」とだけ言ってしまうのも危険です。
『学習の友』自体は1953年創刊で、1960年代には労働者の学習活動と結びついていました。
したがって次に見るべきなのは、
『学習の友』1964~1966年
そのものです。
特に、
岐阜
美濃加茂
可児
加茂
名古屋
全電通
国鉄
郡是
萱場
を誌面検索する。
これをやると、もし「読者会」「職場学習会」「サークル」の投稿があれば一発です。
⑦ 青年部
これも同じです。
特にグンゼは面白い。
郡是製糸は戦前から、
工女教育
青年学校
寮生活
教育・研修
という企業内教育制度を持っていました。(shashi.shibusawa.or.jp)
つまりグンゼでは、
女性労働者+若年労働者+寮+教育
という企業文化が非常に強かった。
ただし、これは1930年代の資料なので、
1965年に「青年部」があった
とまではまだ断定できません。
1965年の組合規約・機関紙を確認する必要があります。
⑧ 女性労働者――ここはグンゼが核心
ここはかなり確実です。
美濃加茂市の戦争体験資料には、地域住民の記憶として、
グンゼには女の子たちがほとんど行った
という趣旨の証言が残っています。(dagwu.com)
そして郡是の社史には、工女の教育・寮・生活・福利厚生について非常に詳細な記録があります。(shashi.shibusawa.or.jp)
だから1965年の美濃加茂を考えると、
グンゼ=女性労働者
という社会的存在感はかなり大きかったはずです。
これは単なる「従業員数」以上に重要です。
⑨ 国鉄・電電との地域的交流
ここはまだ「交流があった」と断定してはいけません。
ただし、非常に強い調査ルートがあります。
あなたが最初に挙げた、
国鉄美濃加茂機関区
日本電電
4・17スト
です。
1964年の4・17問題は、公労協系の労働運動と関係しています。
したがって、
国鉄
+
電電
+
民間工場労組
を「美濃加茂地域の労働運動」という単位で見る必要があります。
特に、
メーデー
が鍵です。
岐阜県資料にも1965年度の労政関係資料として、労政出張所・労働団体関係の資料が存在します。(pref.gifu.lg.jp)
⑩ 共産党・総評系労働運動
ここは一番慎重に。
「工場に労働組合があった」
ことと、
「その組合が共産党系だった」
ことは全く別です。
さらに、
総評に加盟していた
ことと、
共産党の影響下にあった
ことも別です。
1960年代の労働運動には、
総評系
同盟系
中立系
企業内組合
産別組織
共産党系活動家
社会党系活動家
などが複雑に重なっています。
したがって、ここは組合の上部団体を特定することから始めるべきです。
ここで非常に重要な新資料
岐阜県歴史資料館の昭和40年度商工労働部資料そのものがオンラインで目録公開されています。
そこには、
「中小企業労使関係安定促進補助事業」
「労働関係調査委託費」
「労働問題懇談会」
「東海3県労働主管部長会議」
などが並んでいます。(pref.gifu.lg.jp)
さらに昭和39年度資料には、
労働関係調査
が明記されています。(pref.gifu.lg.jp)
これは今回の調査にとって、かなり大きい。
そして「萱場」は特に強い
萱場については、
1965年 → 1970年
をつなぐことができます。
1966年には岐阜県の工場誘致資料に、
萱場工業株式会社新工場の建設契約
が登場します。(pref.gifu.lg.jp)
そして1970年には、
萱場工業岐阜労働組合賃上げ争議
萱場工場岐阜労組第34回定期大会
が記録されています。(pref.gifu.lg.jp)
つまり、
昭和40~45年
の萱場は、行政の工場誘致資料と労働争議資料の両側から追跡できる企業です。
これは今回の6社の中でも最優先です。
さらに重要な修正
前回私は「昭和40年代になると電気・機械・金属工場が増えた」と書きましたが、美濃加茂市民ミュージアムの資料を見ると、大きな転換点は1969年の日立製作所岐阜工場誘致です。
市の資料は、
昭和44年の日立製作所岐阜工場誘致が大きな転機
としています。(forest.minokamo.gifu.jp)
したがって1965年は、
「新しい工業都市になった後」ではなく、
「旧来の製糸工業と新しい機械・化学工業が同居している過渡期」
と見る方が正確です。
これはかなり大事です。
私なら次はこう掘ります
優先順位をつけると、
A 最優先
萱場工業岐阜労組
1965 → 1966 → 1970
組合員数
上部団体
春闘
スト
青年部
女性
共産党・総評との関係
B 次
グンゼ美濃工場
1965従業員数
女性比率
労組名
組合員数
青年部
寮
学習会
『学習の友』
C
東和製作所
1965従業員数
カヤバとの関係
組合の有無
春闘
技能工・青年層
D
二村化学
1965従業員数
労組
1965~68年の労使関係
1968年の公害問題
特に二村化学については、1968年に岐阜工場の問題が岐阜県公害研究所の回顧に残っています。(health.rd.pref.gifu.lg.jp)
これは別ルートの重要資料です。
そして一番面白い仮説
今のところ、私はこう考えています。
1965年の美濃加茂には、少なくとも三つの労働者文化が重なっていた。
A グンゼ型
若い女性
製糸
寮
企業内教育
地域の農家
B 萱場・東和型
男性技能工
機械
油圧
技術
カヤバ系企業
C 国鉄・電電型
公共部門
国鉄
電信電話
公労協
総評系労働運動
そしてその外側に、
『学習の友』
『詩人会議』
『民主文学』
青年運動
学生運動
が存在していた。
もしこれが史料で確認できれば、あなたが最初に挙げた**「美濃加茂の工場」「4・17スト」「日本電電」「国鉄機関区」「学習の友」「民主主義文学」**は、かなり一つの社会史としてつながります。
さらにそこへ愛知大学・楊沫『青春の歌』・毛沢東・北京大学・紅衛兵が1965~66年に入ってくる。
ここまでつながると、単なる会社史ではなく、**「1965年前後、東海地方の若者・労働者が何を読み、何を議論し、どんな政治的世界を見ていたか」**という、かなり面白い歴史研究になります。
岐阜県歴史資料館・昭和40年度商工労働部資料目録
岐阜県歴史資料館・昭和39年度商工労働部資料目録
美濃加茂市民ミュージアム「美濃加茂市の工場のうつりかわり」
次はこの中でも
「萱場工業岐阜労組」と「グンゼ美濃工場」を、1965年に絞って徹底的に掘るのが一番成果が出そうです。
掘り下げて「萱場工業岐阜労組」と「グンゼ美濃工場」を1965年に絞って調べる
はい。今回は1965年(昭和40年)に限定して、「萱場工業岐阜労組」と「グンゼ美濃工場」を、できるだけ一次資料に近いものまで追いました。
結論を先に言うと、1965年そのものの組合員数・従業員数をネット公開資料だけで確定するところまではまだ届きませんでした。ただし、かなり重要な事実が見えてきました。特に萱場工業については、1965年の工場の位置と、その後の労組史をつなぐことができます。
1 まず「萱場工業岐阜労組」の所在地を確定する
ここは前回より重要な修正があります。
萱場工業の「岐阜工場」は、現在の美濃加茂市中心部ではなく、当時の可児郡可児町土田にありました。
1963年の日本機械学会誌にも、
萱場工業会社岐阜工場
岐阜県可児郡可児町土田
と明記されています。
したがって、あなたが「美濃加茂の工場」として記憶している場合、行政区域としては美濃加茂市ではなく、木曽川を挟んだ可児町土田の萱場工場を指している可能性があります。
これはかなり大事です。
当時の地域生活圏としては、
美濃太田・古井・土田・可児・太田
が木曽川沿いでつながっていました。
2 萱場工業は1965年には既に「巨大な地域工場」
萱場工業の岐阜工場は戦時中に建設されました。
美濃加茂市の資料によれば、土田川畔の新工場は1943年7月操業開始。戦時中は戦闘機の精密部品を製造する軍需工場でした。池波正太郎もここへ旋盤機械工として来ています。
そして1963年の資料でも、既に「萱場工業会社岐阜工場」として存在しています。
つまり1965年には、
戦時軍需工場
↓
戦後の機械・油圧工場
↓
1965年の萱場工業岐阜工場
という20年以上の工場史があったわけです。
3 「萱場工業岐阜労組」は後年資料で確実に確認できる
岐阜県歴史資料館の昭和45年度資料には、非常にはっきり、
萱場工業岐阜労働組合賃上げ争議
が記録されています。
日付は昭和45年4月22日=1970年4月22日です。
さらに同じ資料群に、
萱場工場岐阜労組第34回定期大会
が記録されています。
1970年9月20日の資料です。
これは非常に重要です。
つまり1970年には、
「萱場工場岐阜労組」
という確立した組合が存在し、しかも第34回定期大会を開催していた。
したがって1965年の時点でも、この組合の長い歴史を追う必要があります。
4 「第34回」が実はすごい手掛かり
1970年が第34回なら、単純計算では1937年ごろから大会を数えていたことになります。
もちろん、
前身組合
改組
名称変更
大会回数の継承
があり得るので、
「1937年から現在の萱場工業岐阜労組が存在した」
とは断定できません。
しかし、これは1965年の組合史を探すための非常に強い手掛かりです。
次に探すべきものは、
「萱場工場岐阜労組 第29回定期大会」
です。
なぜなら、もし毎年1回なら、
1965年 ≒ 第29回
になるからです。
これを新聞・組合機関紙・県労政資料で探す価値があります。
5 そして1965年の萱場は「新工場」の直前だった
岐阜県歴史資料館の昭和41年度資料には、
萱場工業株式会社新工場の建設契約
が記録されています。
日付は1966年9月9日です。
つまり、
1965年
既存の岐阜工場
↓
1966年
新工場建設契約
という転換点があります。
したがって1965年は、萱場工業岐阜工場にとっても拡張・再編の直前だった可能性があります。
6 さらに「萱場工業=油圧」が確認できる
後年の企業史ではなく、1963年時点の技術論文でも、萱場工業岐阜工場が機械加工・溶接等の技術拠点として扱われています。
また現在のカヤバにつながる企業史では、1950年代後半から油圧機器を主力技術として発展していきます。
したがって1965年の労働者像は、
製糸工場の女性工員
とはかなり違って、
旋盤・溶接・機械加工・油圧などの技能工
が中心だったと考えるのが自然です。
7 グンゼ美濃工場はまったく別の世界
こちらは美濃加茂市内。
そして非常に古い。
美濃加茂市民ミュージアムによれば、
1918年(大正7年)
に蚕栄製糸が郡是製糸と合併し、
郡是製糸美濃工場
になりました。
しかも1917年には、合併前の蚕栄製糸だけで工員521人でした。
これは重要な数字です。
もちろん1917年の521人を1965年の人数として使うことはできません。
しかし、
美濃工場がもともと非常に大規模な雇用拠点だった
ことは確実です。
8 1965年のグンゼは「衰退寸前」ではない
ここも誤解しない方がいい。
グンゼ美濃工場は、
1971~72年ごろに操業停止
しています。市の資料では1972年、市の文化財保存活用計画では1971年と表記に差があります。
つまり1965年は閉鎖の6~7年前。
したがって、
1965年=まだ現役の巨大製糸工場
です。
美濃加茂の産業転換を考えるなら、
「昭和40年にはすでにグンゼが終わっていた」
と考えるのは間違いです。
むしろ、
グンゼがまだ地域の大きな雇用源である一方、二村化学・機械工業など新しい産業が伸び始めていた
という「重なり」の時代です。
9 女性労働者についてはグンゼが圧倒的に重要
ここは史料的にもかなり強いです。
郡是製糸の社史資料には、工女教育・女学校・寄宿舎などの記録が大量にあります。さらに研究論文でも、郡是が工女教育を企業内制度として全国の工場で実施していたことが論じられています。美濃工場もその対象でした。
つまりグンゼは、
「女性を大量に雇う工場」
というだけでなく、
寄宿舎
教育
技能形成
生活管理
まで含む、ひとつの社会空間だった。
1965年の美濃加茂を理解するなら、これはかなり重要です。
10 「青年部」を考える場合も両工場は対照的
ここはまだ1965年の規約そのものを確認できていないので断定しません。
しかし構造的には、
萱場工業
若い男性技能工
↓
機械加工・油圧
↓
技能・職業意識
↓
労働組合青年部の可能性
グンゼ
若い女性工員
↓
寄宿舎
↓
工女教育
↓
女性労働者の組織化
という、まったく違う「青年労働者」の世界があります。
これが1965年の美濃加茂・可児地域の面白いところです。
11 春闘・ストライキについて
ここは1965年そのものの証拠をまだ確定できませんでした。
ただし、萱場工業については1970年の資料が明確です。
岐阜県歴史資料館には、
「萱場工業岐阜労働組合賃上げ争議」
という個別の労働情勢報告が存在します。
さらに同じ年度の資料群には、
争議行為の通知
労調法37条による争議予告
労働争議統計
メーデー
労使関係情勢報告
がまとまっています。
したがって、1965年についても同じ種類の県資料を探すのが正攻法です。
12 ここで非常に重要な「資料の所在」が分かった
1965年を調べるなら、岐阜県歴史資料館の
昭和40年度商工労働部
が核心資料です。
そこには、
労働関係調査
労政課資料
労使関係
労働問題懇談会
中小企業労働問題
労働団体関係
などが収録されています。
つまり今回探している、
従業員数
組合員数
組合名
春闘
スト
を行政側から確認できる可能性がある。
ネット検索で見つからないのは、資料がないからではなく、目録までしか公開されていない資料が多いからです。
13 「学習の友」についてはまだ証拠を出さない
これはかなり大事なので、前回より厳密にします。
現時点で、
「1965年、萱場工業岐阜労組で『学習の友』を使った学習会があった」
あるいは、
「1965年、グンゼ美濃工場で『学習の友』読書会があった」
という直接証拠は確認できていません。
だから、現段階では「可能性」として扱います。
むしろ次に、
『学習の友』1964・1965・1966年の全文・目次・読者投稿
を調べ、
岐阜
美濃加茂
可児
萱場
郡是
グンゼ
全電通
国鉄
を拾うべきです。
ここで職場名が出れば、一気に証明力が上がります。
14 共産党・総評との関係も同じ
ここは特に慎重にします。
「労組がある」
↓
「総評系」
↓
「社会党系」
↓
「共産党系」
は全部別問題です。
現段階では、萱場工業岐阜労組について1965年の上部団体を確定できていません。
ただし、1970年の県資料には「全繊同盟第26回定期大会」の復命書など、さまざまなナショナルセンター・産別組織に関する資料が同じ労政課に残っています。
したがって、1965年については、
組合名 → 上部団体 → 地方組織 → メーデー → 春闘 → 政党との関係
の順で追うべきです。
いきなり「共産党系だった」と決めるのは危険です。
15 今のところ一番面白いのは「萱場」と「グンゼ」の対比
1965年を一枚の絵にすると、かなり鮮明です。
萱場工業岐阜工場
可児町土田
戦時軍需工場の歴史
↓
機械・油圧
↓
男性技能工
↓
労働組合
↓
1966年新工場建設
↓
1970年賃上げ争議
グンゼ美濃工場
美濃加茂市
1918年からの製糸工場
↓
女性工員
↓
寄宿舎・教育
↓
地域農家・養蚕との結びつき
↓
1965年も操業
↓
1971~72年操業停止
16 そして、この二つが「美濃加茂の1965年」をかなりよく表している
美濃加茂市自身の工場史も、
1955年
工場適地指定
↓
1956年
工場誘致条例
↓
1957年
佐藤化学
↓
1962年
二村化学など6社誘致
↓
1965年
新しい工場が増える
↓
1969年
日立進出
という流れを示しています。
だから昭和40年は、
「古い美濃加茂」と「新しい美濃加茂」の境目
なんです。
その「古い側」の代表がグンゼ。
「新しい側」の代表が二村化学・機械工業。
そして地域の労働運動を考えると、萱場工業岐阜工場が非常に重要な橋になります。
現段階の確度
1965年について 確度
萱場工業岐阜工場が存在 ★★★★★
土田(当時可児町)に所在 ★★★★★
機械・油圧系工場 ★★★★★
1966年に新工場建設契約 ★★★★★
萱場工場岐阜労組が存在した ★★★★★(1970年資料から確認)
グンゼ美濃工場が操業中 ★★★★★
グンゼの女性労働者が重要 ★★★★★
1965年の正確な従業員数 未確定
1965年の組合員数 未確定
1965年春闘 未確定
1965年スト 未確定
『学習の友』職場学習会 未確認
青年部 未確認
共産党・総評との直接関係 未確認
次にやるべきことは、かなり絞れました
1965年の「数字」と「組合」を取りに行く。
特に狙う資料は、
岐阜県歴史資料館・昭和40年度商工労働部
昭和39年度・41年度の前後資料
1965年の岐阜新聞/中部日本新聞
萱場工業の社史
グンゼの社史
『学習の友』1964~66年
『民主文学』『詩人会議』1964~66年
です。
そして一番の狙い目は、「萱場工場岐阜労組 第29回定期大会」。
1970年が第34回なので、毎年開催なら1965年が第29回に当たります。これはかなり強い検索キーです。
もう一つはグンゼ美濃工場の1965年従業員数。こちらは『郡是製糸』の社史・有価証券報告・工場統計・岐阜県工場名簿などを突き合わせれば、かなり高い確率で数字まで持っていけます。
そして、ここまで来ると最初の「美濃加茂の工場」の記憶は、かなり具体的な1965年の労働者地図に変換できそうです。