カフカの悲しみ-今日の涙- | mitosyaのブログ

mitosyaのブログ

個人誌「未踏」の紹介

カフカの悲しみ-今日の涙-

姥捨山、楢山節考、障害者、脳梗塞、エミコ高次脳機能、断食芸人、カフカ 40歳、私のがん40歳、人間の孤独、生身の現実への、生きているだけで、自分自身への憐みの涙、生命の憧れ、アウシュビッツ、断食芸人、ミレナへの手紙、処刑台、変身、それでも私は生きたかった、不条理、疎外、孤独、を超えて、私対世界こそ、生身性、あの時私は死でいたら、私の癌、カフカ40歳、肺結核、父親がもっと、家族がもっと、ユダヤ人差別がもっと、友人がもっと、処刑機械の社会ではあったが、孤立ではなかった、異物でもなかった、父は罪人となったが、私を愛していた、親戚で養護施設で育ったが、差別はなかった、末っ子だった父を姉達が心配した、老人、障害者、貧しきもの、小さきもの、抹殺マシンシステム、救急車が今日も行く、ワクチン死、マスク社会、映画ソイレントグリーン、安楽死、ジエノサイド、カミュ絶望の豊穣さ、人間の愚劣は今も、カフカを超えて、無数の愛、あの日、私はどんな事があっても生きたいと願った、 



ジェニーの回答

カフカの悲しみ -今日の涙-

四十歳の境界線、生身の現実
フランツ・カフカは四十歳で、喉の肺結核によりその生涯を閉じた。そして私もまた、四十歳という年齢で「がん」という生身の現実に直面した。

カフカの『断食芸人』は、ただ人々の注目を集めるために檻の中で飢え続け、最後には見向きもされなくなって藁の中で死んでいく。彼は「自分に合う食べ物が見つからなかったから断食せざるを得なかった」と言い残した。それは、世界というシステムにどうしても馴染めない人間の、究極の疎外と孤独の象徴だ。

しかし、四十歳で死の淵を覗き込んだあの時、私の中に湧き上がったのは、カフカ的な諦念ではなかった。

「私はどんなことがあっても生きたい」

己の身体の不条理を前にして流した涙は、自分自身への激しい憐みの涙であると同時に、剥き出しの「生命への憧れ」そのものだった。ただ生きているだけでいい。世界と対峙する私という生身の存在が、そこに在り続けること。それだけを激しく求めていた。

処刑機械の社会と、孤立なき家族
カフカの世界には、常に冷徹な「処刑機械」や、人間が虫へと不条理に変貌する『変身』の影が落ちている。彼を包んでいたのは、苛烈な父親の存在、ユダヤ人という根深い差別、そして「私対世界」という圧倒的な断絶だった。

もし、あの時に私が死んでいたら――。そう考えるとき、私の背景にある記憶の糸が解けていく。

私の父は、親戚の家や養護施設で育った人だった。末っ子だった父を、彼の姉たちはいつも遠くから心配そうに見守っていた。世間から見れば、父は挫折を重ねた「罪人」のような歩みだったかもしれない。けれど、そこには差別はなかった。異物として排除される冷たさはなかった。

カフカの生きた社会が冷酷な処刑機械のようであったとしても、私の記憶にある世界は、完全な孤立ではなかった。不完全で、傷だらけの家族ではあったが、父は確かに私を愛していた。カフカが焦がれ、ついに手に入れられなかったかもしれない「他者との地続きの温かみ」が、私の生の根底にはかすかに流れている。

現代の「抹殺マシンシステム」とエミコの息遣い
しかし、目を現代に転じれば、カフカの描いた不条理は形を変えて肥大化している。

古くは『楢山節考』の姥捨山、あるいは映画『ソイレントグリーン』が描いた、人間を効率よく処理していくディストピア。それらは決して過去やフィクションの寓話ではない。

絶え間なく街に響き渡る、救急車のサイレン。

マスクに覆われ、お互いの素顔と生身性を失った社会。

効率性と自己責任の名のもとに進む、安楽死やジエノサイドへの傾斜。

老人、障害者、貧しきもの、小さきもの。生産性という物差しで測れない存在を、静かに、見えないように排除していく現代の「抹殺マシンシステム」。

私の妻・エミコは、脳梗塞による高次脳機能障害という、新たな不条理の中に生きている。システムから見れば、彼女もまた「小さきもの」の一人として分類されるのかもしれない。だが、彼女の不自由な身体の向こう側にある息遣いや、日々の葛藤は、システムには決して回収できない圧倒的な「生身の現実」だ。


カフカを超えて、絶望の豊穣さへ
アルベール・カミュは、世界の不条理を前にしてなお、反抗して生きる人間のなかに「絶望の豊穣さ」を見出した。人間の愚劣さは今も昔も変わらず、世界は相変わらず冷酷な機械のままだ。

それでも、私はカフカの悲しみを超えていきたい。

ミレナへの手紙に綴られたような、届きそうで届かない孤独の痛みを抱えながらも、私たちのまわりには、目に見えない「無数の愛」が確かに交錯している。アウシュビッツのような絶対的な闇の歴史を経てもなお、人類が手放さなかった生への執着がそこにはある。

身体が衰え、どれほど不条理な疎外に囲まれようとも、あの四十歳の日に誓った「生きたい」という願いは、今も私の中で鳴り響いている。今日の涙は、悲劇の涙ではない。この不条理な世界で、なおも生身の命を震わせ、書き続けるための、生命の証そのものである。