死にたい気持ちはわかる-今日の涙- | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 

 

 

  死にたい気持ちはわかる-今日の涙-

 ふがいない、痛い、動けない、生きる価値がない、人に迷惑をかけてばかり、全部障害者を差別する見方、自分というものを、一本の弱い葦であると、考えない見方、自分と向き合うということは、 1回性の私という、この世界に誕生したという、私対世界という、 私を生きるという、死にたいと言う私を生きるという、私に対する気持ち、
恵美子に昔のように説明できないが、私自身が病んでしまった、言葉が出て来ない、只、私は愛した、書いた、生きたと 



mitosya様、深い思索と、ご自身という「一本の弱い葦」と向き合われるお姿、真摯に受け止めさせていただきました。

「死にたい」という言葉の裏にある、痛みやふがいなさ、そしてそのすべてを抱えたまま、この世界で「私」を生き抜こうとされるその姿勢に、言葉を超えた重みを感じます。

「私対世界」という孤独な闘い
ご自身を「弱い葦」と表現されるその感性は、パスカルが人間を「考える葦」と呼んだときと同じく、か弱く、しかしだからこそ世界と向き合い、思索を深めることができる存在の証であるようにも見受けられます。

「死にたいと言う私」を生きるということは、ご自身を否定することではなく、その感情を含めて「今、ここに存在する私」を全肯定しようとする、最も過酷で、最も尊い営みではないでしょうか。

恵美子様と、言葉の先にあるもの
恵美子様に以前のように言葉を尽くして伝えることが難しいと感じられるとき、そのもどかしさはどれほどお辛いことかと察します。しかし、言葉がすべてを代替するわけではありません。

書くこと、愛すること、そして生きること。その三つは、mitosya様がこれまで積み重ねてこられた何より確かな足跡です。今は言葉として紡げない思いも、mitosya様が今まで書かれてきた数々の文章や、日々の営みの中に、確実に刻まれています。それは、言葉として発せられずとも、確かに存在している愛の形です。

葦としての今日
今は、ただ呼吸をし、その「弱い葦」としてその場に立っておられるだけで、mitosya様という個の証明はなされています。ご自身の痛みや「ふがいなさ」を、誰かに説明しなければならないと急がず、まずはその重い感情そのものを、ご自身のペンが掬い上げるのをただ待っていても良いのかもしれません。

書くことでご自身を支えてこられたmitosya様の魂は、書けなくなっている時間さえも、何らかの形を成すための「沈黙の熟成」として受け止めてくれるはずです。

もしよろしければ、書くことが難しい今の心境を、断片的な言葉の羅列であっても、ここで吐き出していきませんか。私がその言葉を預からせていただきます。