「今日の涙」—— 魂の再生と響き合う世界
脳梗塞や失語症という困難な道のりを歩まれ、今こうしてご自身の心の内を言葉に綴られたことに、深い敬意を表します。鶴見川の土手で流された涙は、これまでの懸命なリハビリと、ご自身の脳が持つ生命力への最高の賛辞ですね。
辻井伸行さんのエピソードとご自身の体験を重ね合わせ、失われた「感情の神秘」を取り戻していく過程を一つのエッセイとしてまとめました。
「今日の涙」—— 魂の再生と響き合う世界
鶴見川の土手にて:一年目の奇跡
一月十三日。私は鶴見川の土手に立ち、溢れ出す涙を止めることができなかった。
脳梗塞、そして失語症。あの日、突如として奪われたかに見えた私の世界。しかし、一年という月日を経て、私は再びこの場所に立っている。
「よくここまで来たな」
自分自身の脳に対し、これほどまでの感謝と賞賛を送ったことがあっただろうか。言葉を失い、感情さえも遠のいていた日々を越え、今、目の前の景色が、流れる音楽が、そして一本の映画が、鮮やかな色彩を伴って私の心に染み入る。感情が蘇るたびに、私はその「味わう喜び」に酔いしれ、何度でも涙を流した。
刻まれる日常:妻との歩みと三年の約束
一方で、私の日常にはもう一つの過酷な現実がある。
三度目の脳梗塞に見舞われた妻。彼女を家で看病する日々は、一日一日を必死に刻むような重みがある。高次脳機能障害がもたらす「人格変容」という現実は、時に何よりも辛く、心を削るものだ。
しかし、私の支えとなっている言葉がある。
「三年前後には、人が変わったように元に戻ってきますよ」
同じ壊れた脳を持つ体験者が語ったその言葉を、私は強く信じている。発病から二年、今こうして文章を書けるまでに回復した私自身の存在が、その希望の証明でもあるからだ。
辻井伸行さんの歩み:心の目で「見る」ということ
今日、ふと思い出したのは、かつて綴っていた「今日の涙」という言葉、そしてピアニスト・辻井伸行さんの物語だ。
先天性の小眼球症により、光を知らずに生まれた伸行さん。しかし、母の深い愛情と気づきの中で、彼は音楽という翼を得た。彼にとって「世界を知る」「見る」という行為は、物理的な視覚を超えたところにある。
ヘレン・ケラーが「Water(水)」という言葉の意味を理解した瞬間に世界と繋がったように、伸行さんは音楽を通して世界の感情に触れ、包まれていった。彼が紡ぎ出す「コルトラの朝」のような調べは、単なる音の羅列ではない。それは彼が心の目で見つめた世界の真実だ。
「見る」ということは、単に花の名前を特定したり、対象の形を認識したりすることではない。それは、対象と自分が感情で響き合い、その行為そのものが心の奥底に宿ること。私と世界が、再び一つの物語として編み直されていくプロセスなのだ。
感情という神秘の中で
辻井さんの番組を数時間見つめながら、私は確信した。
私たちが今、涙を流し、何かを「味わう」ことができるのは、魂が世界と再会を果たした証拠なのだと。
脳梗塞という嵐を経て、私の脳は新しい地図を描き始めている。妻の回復を待ちわびる二年間、そして自分自身が取り戻したこの「書く」という行為。
今日の涙は、悲しみの雨ではない。それは、再び世界を愛し始めた私の魂が、喜びと共に奏でる序曲なのだ。3月19日 13:27
ご自身のこれまでの歩みと、辻井伸行さんの「心の目」という視点が交差する、非常に心に響くエピソードでした。奥様の看病という大変な日々の中にあっても、こうして「味わう喜び」を大切にされている姿に勇気をいただきます。
他にご自身の体験をさらに掘り下げて書き留めたいことや、整理したい想いがあれば、いつでもお手伝いさせてください。
今日の涙
1月13日 泣ける 自分に感動していた。
脳梗塞 失語症の発病後 泣ける 自分を幾度も経験はしている。 1年経って 鶴見川 土手で よくここまで 来たなあと 自分の脳を讃え感謝し 泣いた。ビデオ映画も、音楽も、景色の感情が 蘇られるたびに嬉しくて涙した。 同じ 脳梗塞 3回目の 妻を家に残して 私は感情の神秘に涙していた。 味わう 喜び に酔いしれていた。 妻の看病は過酷な1日1日を刻むような。高次脳機能障害というものは一番辛いのは人格変容。 が、 3年後には人が変わったように 元に戻ってきますよ。 の壊れた脳の体験者の言葉を信じ、私自身が 今2年間を迎え このように 文章を書けるまでに なったのだからと。 今日ふと かつて書いていた 「今日の 涙」が書けるのではないかと 「今日の涙」辻井伸行 の歩み。 先天性小眼球 で目の見えない子どもとして、 母の気づきで、 音楽教育を 家庭教師をつけ 本格的にピアノを習い、 伸行は音楽を楽しむ。 音楽を通して。 世界を知る、 見るという行為とは? 感情があってのもの。 かつてヘレンケラー 言葉のと言うものの意味を理解したように、 見ると言うことの意味を 理解し 包まれ。 コルトラの朝のような作曲ができるようになった。 見るということは、 花の名前ではなく、 行為 行動 でもなく、 見るという心の目の中に宿るということ。 私対世界を 思い起こさせてくれた。 何時間かの 辻井伸行の番組であった。
辻井伸行 コルトナの朝
https://youtu.be/_j3Sr0V3FeA?si=yT7-OGTpieG4DP0Z