放射能に、何故あれ程怒り、絶望し、書いてきたのか | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

放射能に、何故あれ程怒り、絶望し、書いてきたのか、Jが何故書いたのか、Sが被災者でもないのに、Mが天皇制こそ問題だよ、MLがそれがどうしたのよ、と、3.11が人工地震、原発が、人命無視の、同じ人間の、ワクチン村の、
私がミナマタだ、私がフクシマだ、私がコロナだ、これら邪悪に、加担し、無視し、無知、無責任の自らの結果であることの、被災者、当事者たちの慚愧、ミナマタを許し、フクシマを許し、そして今また、コロナを、

「反権力の原発、容権力のコロナ」

チッソが国策であり、不知火がチッソ城下町であり、住民はチッソで働き、アセトアルデヒドはプラスチックの原料、原発と同じ構造、

「青春の殺人者」

中上が何故私の読書リストに無いか、映画は見ているが、中上作品は読んでいない、

中上文学が、私の生い立ちからの解放には、意味を持たなかったということか、被差別部落、異母兄弟、カオス、混沌、暴力、殺人、性的、土俗、これらは、私の逆境にも、しかし、私は私を生きるという方法で、解放した、作品世界ではなく、現実世界で、世界と私とを俯瞰した、

「夢を見た」

Sと、もう一人誰か、そして女、文学学校での、私の作品に対する批評、「あれが文学と言えるのか」「私は一行読んで、これはだめだと」一連の批評に対し、作者の私は黙する他なく、批評の初体験の記憶は、高1の時、「あれは、詩ではなく、スローガンだ」、と美術教師の詩人に言われ、以来、同人仲間、知人、友人から、様々な批評を受けた、が、今や、誰も文学などやってはいない、彼らと会うこともない、私一人が、去就知れずの、多くの、文学仲間の面影が浮かび、今や仕事も全部やめたのだから、これからは、じっくり書いていきたいなーと、

「日本的ヒューマニズム」

今井正がヒューマニズムの映画監督だと、世界は、今やヒューマニズムが問題ではない、ヒューマニズムなど自明で、問題は、人間という種が有史以来、強者が弱者を、そして今、自然、環境を、不可逆的に破壊していることの、CO2ではない、大気、水、を核で汚染していることの、文学、芸術の、何が成立するのか、人間の糾弾、そんな反文学、反芸術こそ、

今井正
1912生まれ

武士道残酷物語、~忠君という、愛国という、愛社という、
キクとイサム
また逢う日まで
どっこい生きている
ひめゆりの塔
にごりえ~底辺を生きる女性の悲劇、
ここに泉あり~音楽はこんなところから始まり、
真昼の暗黒

純愛物語
堀川波堤
橋のない川
ああ声なき友
あにいもと
戦争と青春~無差別爆撃の東京、

こうした悲惨の中から、戦後の世代が、人間の尊重という、我よりも、社会全体の、封建からの、個のない、近代以前の中から、戦後が誕生し、民主主義、個人主義は、高々70年の、

「共産主義、民主主義」

共産主義が、民主主義が、多数決ではなく、どこまでも個人を尊重するのであるのなら、無政府主義も、ニヒリズムもいらない、私対世界の、個人において求められるものは、共産でも、民主でもなく、普遍の私を、無の上に、絶望の上に置くとなる、

「風邪のウイルスに、エイズのウイルスを入れ」

インドの学者の発表が、コロナからエイズの遺伝子を発見、巧いことを考えたものだ、非接触でも感染する、実際、何が入っているのか、国を持たない、NWOにとっては、確実な兵器、細菌兵器、人口削減方法、核と同じ兵器としての開発が、ヒト遺伝子組み換えという、不可逆の結果に、

「ロラン、アインシュタイン、フロイト」

ロラン~絶対平和主義から、反ファシズムへ、
アインシュタイン~徴兵拒否運動から、反ファシズム、原爆開発へ、
フロイト~人の暴力性と平和性は本能、文化性で、

戦争をさせる者と、させられる者、1%対99%の構図において、徴兵拒否の、非暴力不服従、亡命、難民の、逃走に、有効性が、

「コロナパンデミック」

世界が経済を通して、グローバルであることが、パンデミックを起こし、空気も水も、国境を作っても、グローバルで、このウイルスはエイズのように死滅することはなく、人類に引き継がれ、核汚染のように、世界に蔓延し、人間は助け合う以外に道はなく、主義を超えざるを得ず、絶望をとおして、希望に至る時代に至ったという、

「感染症と免疫」

動物にアミラーゼは無い、動物のフンは完全消化、生ものには消化酵素があり、縄文、犬と女性が一緒に埋葬、3割が65才超え、2℃高温、虫歯がある、草食、虫歯が少ないグリーンランド、

ウイルスは、細菌は、生命誕生よりあり、それらは共生し、ペストが、コレラがというのは、集団免疫、獲得免疫の喪失が故、あらゆる疾病は、免疫不全に起因、インフルエンザの流行とは

「青い芝の会とアウシュビッツ」

社会と共感は出来ない、社会は無価値、異端を許さない、嫌われ、排除される存在としての、障害者、世界はこれを容認し、実行した社会、アウシュビッツであり、相模事件であり、現代の様々な差別、理不尽、それらが、放射能、農薬、医療、によってもたらされているものであっても、改めることのない、現代文明というもの、絶望の何者でもない、支配している者は、世界金融資本、それに加担、組する者ら、

核の支配~原爆投下の要因、ソ連参戦、冷戦想定、
ロスチャイルド一族~キューリーラジウム研究所、キューリ基金、1966アフリカダイヤモンド鉱山、マンハッタン計画、CIA設立、IAEA創設、AFE設立、キッシンジャー、クーンローブ商会、アインシュタイン書簡、ノイマン、ソ連側科学者、イギリス王室、ノーベル賞とロスチャイルド、

「コロナパンデミックが」

世界をNWO支配に変えるか、絶望の共有を通して、意味世界へと向かうのか、意味とは生きていることの喜びと充足の人生へと、見納めの世界を、愛して生き始めるのか、原罪ではない、絶望の肯定の、たとえ世界をDSやら、それらを取り巻く多くの、洗脳された人間たちが、1984のようにAIを使って、コントローする社会を作ろうとしても、自殺ができる、死を知っている、汝自身を知っているという、人間という生物は、最後には殺すしかない、家畜には出来ない、犬にはならないという、

「コロナを通して」

世界が、今まで陰謀論と言われ、伏されていたものが、パンデミックという、世界同時進行によって、世界が何者であるかが、白日化され、反原発の動きとは違った、世界の本質、意味に向かって、覚醒され、私対世界が、自明のものとなり、癌や、病気を経ずとも、私とは何かが、唯一者とその所有のように、世界は所有され、

「棄民の国」

棄民がゆえに国家意識が無い、よって徴兵制も無いと考えるなら、この国は自然な国、我が道を行くで良い、民主主義や、福祉や、理想、希望を持つ必要もない、核汚染の地で、余命を生くで良い、核汚染を忘れていても良い、この国が終わっていることを、忘れていても良い、

「コロナの事実と意図」

世界は、ある意図をもって操られている、で良いだろう、が、コロナ終息後は、更に世界規模のコントロールが進み、国家の私物化、一極集中が進み、

「価値基準の無化」

コロナが絶望主義を、明瞭にしている、葬儀は出来ない、結婚式は出来ない、人との共感、共有が出来ない、金は使えない、飲食、集会、イベントは出来ない、人を見たらコロナと思え、無症状感染する、etc、価値観の転倒が、原発震災以上に、ハッキリと表され、原発は、国が危険を隠蔽、軽視し、プルトニウムは飲んでも安全、アンダーコントロールしている、コロナはインフルエンザ以下の、風邪に、恐怖を煽り、感染爆発、何十万人の死者がと、いつも御用学者が登場し、マスコミがお膳立てし、