記憶は、私の最初の時へと、生まれた地、加茂野駅前の商店街の地図が、ノートには、 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

記憶は、私の最初の時へと、生まれた地、加茂野駅前の商店街の地図が、ノートには、

思い出を書くことの、今や何と詰まらないことか、3.11でコロナで、世界は終わっているとしている私にあって、これは私のノスタルジーなのか、地球という祖国喪失の、ホモサピエンスの祈りなのか、

母の家出~市橋へ、私は、線路を伝って学校へ、途中の交番、納屋で生のサツマイモ、毎食の居候、お櫃のごはん、いざりの御祖母さん、ケイコは施設へ~新屋のおばあさん、母を探していると、土田の伯母さん、太田の伯母さん、父が事件を、祖父の家の畳が燃えて~父は刑務所へ、執行猶予で、3ケ月、古井で手伝い、ヤギ餌取り、蚕の桑摘み、父帰る
グミの木で、三ツ池で、父が一緒に死ぬかと、
そして私は養護施設へ、

これら記憶の断片、私の少年時代として、作品化して、ある方向性を持たせることの、詰まらなさ、私が読んで、私自身が味わえるものでないなら、書いても、意味を持たず、

「母の記憶~吉城郡行き」

汽車に乗ったことなどなかった私は、伯父さんのいる吉城郡へ行くと聞いたとき、さっそく地図を開いて場所を確かめたのだ、そして、そこが岐阜県の一番北にあり、線路にはトンネルが多いことを知った、
母が私を連れて行くのは、母一人では心配なこともあるが、私を伯父さんに見せて、お金を貰い易すくしたいということからと思えた、
伯父さんは、両親を早くに亡くし、母の実家に世話になって、その恩返しのつもりで母に、援助をしていた、母とは従甥よりも遠い親戚で、四日市に住み、四日市の伯父さんと呼んでいた、ダムの建設技師で、あちこちのダム建設に携わっていた、その時の現場は何処だったのだろう、高山線の長い汽車の旅だった、母は、当座は伯父さんに助けてもらって乗り切れるが、その先どうしていくのか、心配している、そこまで拗れた、父との暮らしに、不安を募らせていた、私が車窓を眺めながら、トンネルに入る度に、トンネルの数を数えるのを、うわの空で聞くばかりだった、母の浮かない様子は、私にも感染し、伯父さんにお金を工面をしてもらいに行く事が、重苦しくなってきた、トンネルは52を数えて、列車は止まった、そこからバスで、山を越えまた延々と、そしてやっと着いた、大きな川原の中にある、ダム現場の飯場、川の中の砂利石の中を伯父さんの居る事務所へ、「よう来た、よう来た」伯父さんの明るい、気さくな言葉に接し、それまでの不安や疲れが吹き飛んだ、伯父さんは、小学校もろくに行かせて貰えず、菓子屋に奉公に出され、その後、独学でダム建設技師の資格を取り、今では、日本中のダムを作っている凄い人と、母が敬っていた、後年、四日市に伯父さんを訪ね、お世話になったお礼をした、「子供には罪はないからなー」と、母を助けた訳を語ってくれた、


私の「最初の時」

加茂野時代

岐阜県加茂郡富田村 1954年に富加町、
借家だった、私の生まれる前に亡くなった祖父の代からの桶屋、その家の間取図が書かれている、隣家と壁続きのウナギの寝床のような、奥に長い土間のある家、道路に面して明り取りのガラス戸がはまり、中の作業場の様子が良く分かる、作業場の壁には、大小様々な鉈、鉋がきれいに掛けられ、お祖父さん代には何人もの職人が居たと聞く、次に寝室の座敷、一段下がって居間と台所、そこには穴ごたつがあり、煮炊きするクドが、その先が広場と便所と風呂場、そして隣家との共同井戸、二階があり、入り口脇の階段を上ると、天井の低い、

ヴァージニアウルフ「波」~密度濃く、意識の流れを押し寄せる波のように追っているが、私は、私の文体で、私の記憶を、一連の短文世界を、生い立ちを、私独自のものにするとは、私の鑑賞に堪えれる、文体世界という事、
再度、挑戦してみよう、メモではない、私の世界を、全作品の再考を、ルオーのように、生涯手直しを、これが作家としての私対世界だろう、私の時という、

町が俄かに薄気味悪くなってきた、マスクをするということの、その自己防衛が、集団となって、マスクをしない者へ異端視、BK、スーパーetcでの、マスクのお願いアナウンス、死者は12万分の1だと言うのに、感染者も12000分の1だというのに、


富加駅の桜~首飾り
芝居小屋~大人の世界と、子供の世界、
酒屋の娘~スカート捲りの詰まらなさ、
ブリキ屋の男~耳に長いイボが、
東屋の男~八百屋、金持ち、腕白坊主、
隣のミシン掛け~暗い、金切り声の、
味噌や~遊び場、
前のガンヤ~母の行き付け
幼稚園~神社の中、下痢で、裸で、
小学校~桜の絵
二階でツバメ~
製材所で母~繭取、畑仕事
軍手を納品に~キンカン
蓄音機~薫さんが持ってきた
犬を捨てて~父と川へ
母を迎えに父と~
父の自慢の肥桶~銅貼りした、
母の入院~肋膜
ウナギ取り~
古井の本家のお祭り~花見
コタツから火事~予感
桶づくり父とタガ作り
立派なふろ場~犬小屋
井戸端~共同井戸の
池の側の豚小屋~泥沼の池
家賃を払いに大家へ~
交通事故~道路で敬老水をもって、バイクにはねられ
父は炭鉱へ~
やっちゃんが遊びに~
伊深正眼寺~町会の旅行、川でおぼれ、
弟子の薫さんがコメを届けに~
市橋へ行く途中のでんぷん工場~匂い

掌編で何処から

嫌悪で生い立ちを見ると


「幼稚園」
何故か、私は幼稚園に通っていた、神社の境内、誰かと遊ぶことも無い、人の遊びを見ているばかり、

「小学校入学」
校舎、黒塗りの、2階建ての、背の高い、長方形の箱が幾つも、晴れがましさはない、新しい鞄、学生服、記憶はない、母も、近所の人々の姿も、ただ桜の花びらが吹雪いていた、

「ツバメを閉じ込め」
玄関の土間の天井に、ツバメが巣を、何かの拍子で、親ツバメが2階の物置へ、桶の材料を下す穴から、窓を開けてやれば、ツバメは外に出られるが、私は閉じ込め、

「母の内職」
父の桶屋の仕事が減り、母は軍手の指篝の内職、納の日、母の背中には妹、両手には風呂敷包み、私は寄り道、キンカンをちぎったり、母を困らせ、

「隣家のミシン掛けの」
けたたましい音、睨みつける顔、それでも見続ける私、我が家の桶屋、一軒先の篭屋、前のガン屋、見ることを、

「桜の花びらで」
首飾りを作るのが流行っていた、誰にあげるでもない、薄い花びらを、糸を通した針に、

「母の記憶」
私は待っている、桑畑、飛騨川、川合ダム、一軒の菓子屋、川合駅、一時間に一本程の電車、ホームには腰掛の付いた待合室、川向こうの多治見方面からの、夏は明るい内から、自転車を三角乗りして、夜道が怖いと聞いてから、タイル貼りで、手にアカギレをつくっていたから、父とよく喧嘩をして泣いていたから、駅前の菓子屋で、パンを買ってもらえるから、
32歳の母、家出する予感があった、
でも、まだ小学校にも上がってない妹を置いては、と、半信半疑だった、
そんな母を繋ぎとめられるのではと、小学2年の私は、夕方になると、遊びを切り上げ、母を迎えに行くのだった、

「父の記憶」
父は何故働かなくなったのか、大腸カタルを患っていたこともあったが、桶屋を畳んでからは、兄の家督相続に異議を持つようになり、財産分与を、父兄に求めた、まだ相続の済んでいない、祖父名義の畑を分けてもらう事になったが、伯父が難癖をつけ、中々な実行してくれないことに腹を立てていた、父はその分け扶ちを当てにして働かず、伯父は、働かなければ、分け扶持は直ぐ無くなってしまうと渋り、父との関係は険悪になっていった、
ある夜の事だった、真っ暗闇の外へ、「今日こそ殺してやる」と私を連れ出し、手には桶屋で使っていた刀のような、曲がった鉈が握られていた、数日来、伯父との諍いが続いていた、

「芝居小屋」
我が家の裏道に、芝居小屋へと通じる道があった、小屋の裏口では、よく役者がタバコを吸っていた、

「タバコ屋の女の子」
幼稚園か、小1だったか、近所のタバコ屋の女の子、威張った、我儘な奴と思っていたのか、その頃はやっていたスカート捲りを、私は一人でその子にしたのだった、私は皆と同じよう、追いかけてスカートを捲るのではなく、何食わぬ様子でその子に近寄り、スカートを捲り、それに気づいた女の子は「何するの」と驚き、私の手を払いのけ、そして「言いつけてやるから」と睨みつけ、

「ブリキ屋」
そう呼ぶ、ブリキ加工の店があった、ブリキや銅の板が、切られ、曲げられ、

「味噌屋」
天井に届きそうな、味噌樽が幾つも、味噌を売っている様子もなく、暗く、じめじめした店、

「籠屋」
一番飽きず眺めた、みるみる竹が、籠になっていき、おじさんが手を休めることなく、話しかけてくれる、

「ガン屋」
葬式の花や道具が、紙で作った様々なものが、
母はなぜかよく遊びに、

「製材所の母」
多く母は製材所の雑用仕事を、畑仕事、繭の糸取り、遊びが見つからない時、母の仕事を見て過ごし、母、25.6歳、