ポール・ゴーギャン9 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

2度目のタヒチ滞在

ゴーギャンのタヒチ・プナッアウイアでの家(1896年撮影)。
ゴーギャンは1895年6月28日、再びタヒチに向けて出発した。一つの原因は、『メルキュール・ド・フランス』1895年6月号に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレール(英語版)がそろって自身を批判する記事を書いたことにある。パリの美術界で孤立したゴーギャンは、タヒチに逃げ場を求めるほかなかったといわれている[48][49]。

同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどをパペーテ周辺の画家コミュニティで暮らした。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになった。ただ、1898年から1899年にはパペーテで事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録は余り残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕なプナッアウイア(英語版)地区に家を建て、広大なアトリエを構えた[50]。

好きな時には、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていた。『メルキュール・ド・フランス』を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていた[51]。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌『Les Guêpes(スズメバチ)』に寄稿し、更には自ら月刊誌『Le Sourire(後に『Journal méchant』)』を編集・刊行するようになった[52]。1900年2月には、『Les Guêpes』の編集者に就任し、1901年9月に島を去るまで続けた。彼が編集者を務めていた間の同誌は、知事と官僚に対する口汚い攻撃が特徴であったが、かといって原住民の権利を擁護しているわけでもなかった[53]。

 

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