ポール・ゴーギャン8 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

フランスへの帰国

 

パリのアルフォンス・ミュシャのアトリエでハーモニウムを演奏するゴーギャン(1895年頃)。
1893年8月、ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に作品の制作を続けた。『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』、『ナヴェ・ナヴェ・モエ(聖なる泉、甘い夢)』などである[41]。1894年11月にポール・デュラン=リュエルの画廊で開かれた展覧会はある程度の成功を見せ、展示された40のうち11点が相当の高値で売れた。ゴーギャンは、画家がよく訪れるモンパルナス地区の外れにアパルトマンを借り、毎週「サロン」と称して集まりを開いた。この頃インド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲っており、『ジャワ女アンナ(カタルーニャ語版)』のモデルとしている[42]。

11月の展覧会の成功にもかかわらず、ゴーギャンはデュラン=リュエルとの取引を失っており、その理由は明らかでない。これによって、ゴーギャンはアメリカ市場への売り込みの機会を失った[43]。1894年初めには、紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みた。その年の夏には、ポン=タヴァンを再訪した。翌1895年、パリで作品の売立てを行ったがこれも失敗に終わった。同年3月、画商アンブロワーズ・ヴォラールが自分の画廊でゴーギャンの作品を展示したが、この時は2人は取引関係の合意には至らなかった[44]。

また、同年4月に開会した国民美術協会のサロンに、冬の間に陶芸家エルネスト・シャプレ(フランス語版)の協力を得て焼き上げていた陶製彫像『オヴィリ(英語版)』を提出した[45]。この作品はサロンに却下されたという説と、シャプレの後押しによってかろうじて入選したという説がある[46]。

この頃には、妻メットとの破局は決定的になっていた。2人が会うことはなく、金銭問題をめぐって争い続けた。ゴーギャンは、叔父イシドアから1万3000フランの遺産を相続したものの、当初妻に一銭も渡そうとしなかった。最終的に、メットには1500フランが分与されたものの、その後はシュフネッケルを通じてしか連絡をとろうとしなかった[47][33]。

 

 

 

 

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