ポール・ゴーギャン7 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

最初のタヒチ滞在

1890年までには、ゴーギャンは次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオー(英語版)で行った売立てが成功し、旅行資金ができた[29]。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼されたオクターヴ・ミルボーが好意的な批評を書いたことによるものであった。コペンハーゲンに妻子のもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した[30]。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった[31]。とはいえ、彼はこれまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった[32]。

タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。レジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパペアリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)(英語版)』や、『イア・オラナ・マリア(英語版)』といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている[33]。

ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイ(英語版)という独自の共同体やオロ神(英語版)についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が『アレオイの種』であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。

彼がパリの友人の画家モンフレーに送った絵は全部で9点であり、これらは、コペンハーゲンで亡きファン・ゴッホの作品と一緒に展示された。しかし売れたのはわずか2点で、ファン・ゴッホの作品と比べても不評だったものの、好評だったとの報告を聞いてゴーギャンは意を強くし、手元の70点ほどを携えて帰国しようと考えた[35][36]。いずれにせよ滞在資金は尽きており、国費で帰国するほかなかった。その上健康も害しており、当地の医者に心臓病だとの診断を受けていた(梅毒の初期症状であったとの見方もある[37])。

ゴーギャンは後に、『ノアノア』という紀行文を書いている。当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていたが、現在では空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されている[38]。この本で、彼はテハーマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしている。1892年夏の時点で彼女はゴーギャンの子を妊娠していたが、その後どうなったかの記録はない[39]が、流産したとされている[40]。

 

 

 

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