Tさんへの手紙 | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

 手紙しなければと思いながら、日毎、その手紙に何を、どのように書いたらよいのかと、いやTさんと言う人の、その人のもつ世界と、絵についてを、私が見た、私が感じた、その画家の見ている、表わそうとしている、存在と世界のことを、

私が20歳の頃、「公害告発展」と題したその画家の個展で出会い、以来、親交を重ね、といってもそれ程多くはなく、何年ぶりかの画家の知床帰りの日、アトリエに招かれ、皆で集い、初めて深くその人を知ることとなった、知床の自然と孤独、番屋での熊との出会い、そして人への郷愁とが、語られた言葉は、体験された生身な時の記録、それらを「江差追分」の絞り出すような声に込め、深く私の心は揺さぶられ、その画家の絵への気迫が伝わり、しかし、描かれた自然の雄大さが、その画家にとって何の意味が、そしてその人が何に向かっているのかが、その頃の私には受け止められず、が、すでに画家には、掴み、感じられていたのだった、それらを、そのために表したいと、苦悶は顔に滲み、人の無理解に、繰り出される言葉が放流となって、自然への、存在への信仰の様な、画家の求める心はそこには示されてあったのだった、

その後、私の病気、画家の孤独の戦いなどから、画家との音信は途絶え、十数年後のこの秋、突然、個展の案内状が届いたのだった、

3.11以降、私に、絵も音楽もあらゆる美的なものへの欲求は失せ、この進行中の生身な悲劇を観劇することの愚劣に、耐え切れず、震災日誌を書きなぐっていた、案内状、閃光のような光の塊を背景に、燃える紅葉と、それらを映し、静まり返った湖水が描かれ、以前、画家は最後の仕事をするのだと、茨城辺りへ蟄居していると、人づてに聞いていた、それが北海道に、大雪山の麓に10年、そして今、「オホーツク賛歌」以来25年振りの個展だという、私は即座に電話したのだった、画家なら、この3.11に対峙しているにちがいない、40年前、この川崎の地で、馬の、生きものたちの叫びを、血の色で描いた画家だったから、

「つかんだよ」と厳かに、そして「超えたよ」と確かめるように、私は観に行かないでいられなかった、書き始めた「私のツァラトウストラ」は、その現代批判のテーマの嫌悪さから頓挫していた、私は私の方法で、この愚劣に対峙していかなければならない、画家の答えを見たいと思った、

札幌の場末の画廊、大個展を想像していたが、質素な数十人のオープニング、十数年ぶりの画家は、腰を病み、年老いて見えた、齢八十に近づかんとしている画家であったから、がその老躯で大雪に向き合い、ものした数十点の作品群は、どんな大画廊で見るものとは違った、フェルメールの絵があの大きさで示す存在のように、私は見ていた、聞いていた、青白い光を放つ沈黙の白に、燃える赤のディモンに、原発に対し、人は死んでも、自然は、大地は残ることの、そこには、人の傲慢を告発するように、画家の自然への畏敬がメッセージされていた、かつて自然をこのように人との対峙を通して描いた画家がいたであろうか、写生ではない、一筆一筆が、時を刻むように、花や木、生物的存在とは違う、それらを含む、宇宙、時空とつながった、山、大地、空、それらを描くことの困難さ、マクロそのものを描くことの、かつて、私が癌のとき、画家に一枚のデッサンを貰った、それを私は病室に飾った、自然の中の生身の時を写した、オホーツクから立ち昇る朝日の風景、私はその絵に、それを見つめる、画家の心の震えを感じ取り、癌に立ち向かったのだった、

かつて知床の岬の断崖を描いた画家の絵を観た日、その存在への、画家の格闘を見た、石一つ、その石一つ一つで出来上がっている大地を、存在と言う、実存の言う存在ではない、大地の、宇宙と対峙している人間がいての存在そのものを、形式や、手法、技術ではない、その人が見た、その人によって捉えられた存在が、階段を一段一段上るように掴み確かめられた方法で、そして現されたものが、あの燃える赤の蝦夷沼であり、後背光のような光に浮かぶ大雪の絵であった、私はその一筆一筆に、赤、黄、緑、青、と無限の色が重ねられた、祈りのような光を見ていた、出会っている人であった、存在という奇蹟に、私は「パンセ」におけるパスカルの存在への震えをその絵に見ていたのだった、デカルト的な理性の存在ではない、即応の、体験された、「公害告発展」から今日の「大雪山賛歌」までの、その意味と世界をつぶさにし、画家の、何かの、誰かのためではない、画家が、この世界に存在したことの、この万物の存在を確かめている人を見ていた、人を超えて在る存在、大地、海であり、時空である、私の奇蹟とはこの存在の奇跡であることの、一度死んだものには解る、私の存在の奇蹟がそこには、

朝起きて、時の中へ、遠くで、街の何かの音の塊、判る車のエンジン音、道を行く人の靴音、カラスの鳴き声、風の音、光、誰かの話し声、動き始める、私というものの意識、時の中へ、今私は生まれている、この時を言葉で表すことの、無限のショット、一日は永い、永遠にと思えるほどの、

いつかアトリエを訪ねた日、私へ解るかなーといった眼付きで、春慶塗のように、薄く薄く塗り重ねて出来上がる、色の透明さの、気の遠くなる製作過程のことを、具材の混ぜ具合のあれこれのことを、畑違いの私に、一つ一つ絵を示しながら語ってくれた人、政治と芸術、生活と芸術の、二律背反の中で、共感し、取り巻く人は多くあったが、孤独の、一人立ち向かっている人であった、芸術の背後にある人の歴史、そこに到り、超えたいとする、同じ人間として、超えられないはずはないと、道を進み続けた人だった、

 

あの日、二次会の席で、挨拶を求められ、私は画家の絵に、私が感じている、時と言うもの、存在と言うものへの信仰がそこには感じられると、そしてなぜ今画家の絵にそうした感情を抱くのかと、誰も黙して語らない原発への怒り、私は癌が治って、おつりの人生と楽しんできたが、3.11の悲劇を体験して初めて思い知ったのだと、妻が孫に「ごめんね、こんな地球にしてしまって」と言った話をしはじめた時、私は涙で声がつまってしまった、それ以上話し続けられず終わったのだが、場は一度に原発と、画家の絵のもつ意味が捉えられていった、原発、人間の愚行に対置できるのは、自然の偉大さだけ、画家は一貫して表現していたのだった、人は死んでも、自然は残ることの、

 

Tさん、今私は、私の方法で、私という存在の仕方で、絵の具を使って形をもって表したTさんを支えに、小説であるなら、人物を通して、物語を通して描いても見たいと、「ペスト」のリュウ医師の誠実のように、作家の誠実とは、書き続けること、それが絶望に対しての唯一の作家が取れる方法だから、

Tさん、まだまだ元気でいて下さい、時に描くことを放棄して、大雪に遊んで、天上の時を楽しんでも下さい、来年には、私の行ける大雪行きを計画したいと思っていますから、

 

それから半年後、何しろ日記でもいいから纏めねばと書いたのが「原発震災日誌」だった、最悪の事態は回避され、東京からの脱出は免れたと、しかし収束のない、進行形の原発震災、

 

私のツァラトゥストラ構想

 

鴨野長明と、「お前さんにしても、生まれた時から諸行無常ではなかっただろうに」と論争する、私自身にもある内なる無常観を辺見に語らせる、

「方丈記」、若き日の長明、宮廷歌人、官職を求め、俗にまみれ、歳を重ね、叶わず隠遁へと、山中の閑居生活、自足の喜びはあるものの、ふと仏徒としての道を問うと、虚妄に感じられ、と自省している、

人に、青年の日の正義感、向上心、行動力、どのように歳を経て偏在していくのかを問答してみる、仏教とキリスト教の違いも考えながら、

次は吉田兼好、西行、芭蕉へと、日本的美意識と遁世の考察、最後はヨーロッパ文明そのものも、

 

宮崎駿の「未来少年コナン」は「残された人びと」アレグザンダー・ケイ(1970年)を、「風の谷のナウシカ」はアメリカの漫画家リチャード・コーベンのコミック「ロルフ」(1971年)をもとに、どちらも人類の最終戦後の世界を、アニメ、SFとして様々に創造されている終末観、現実にはキューバ危機、核保有争いと、運良く現在があるに過ぎないのだということが、9.11、3.11以降、現実のものとなり、