フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)Ⅱ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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晩年のニーチェ。ハンス・オルデ撮影、1899年

狂気と死

1889年1月3日、ニーチェはトリノ市の往来で騒動を引き起し、二人の警察官の厄介になった。

数日後、ニーチェはコジマ・ヴァーグナーやブルクハルトほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では


「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔(はりつけ)にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」


と書き、またコジマ・ヴァーグナー宛の手紙では、


「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…リヒャルト・ヴァーグナーだったことがあるような気もしないではありません。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」
というものであった。

1月6日、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せたが、翌日にはオーヴァーベックのもとにも同様の手紙が届いた。友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。ニーチェの母フランツィスカはイェーナの病院で精神科医オットー・ビンスワンガー(Otto Binswanger)に診てもらうことに決めた。

1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウス・ラングベーン(Julius Langbehn)が治療に当たった。彼はニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失った。フランツィスカは1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。
エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年

この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ヴァーグナー』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。

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エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年

エリーザベトと『力への意志』

1893年、エリーザベトが帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。彼女はニーチェの著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を振るうようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。

1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトはニーチェの面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中にはルドルフ・シュタイナーもいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。

1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で没した。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。ニーチェは「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトはニーチェの友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。

―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」[9]

エリーザベトはニーチェの死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。エリザベートの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」との誤解を生む原因となった(次節参照)。決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者マッツィノ・モンティネリは「贋作」と言っている。

思想

ニーチェはソクラテス以前の哲学者も含むギリシア哲学やアルトゥル・ショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。先行の哲学者マックス・シュティルナー との間に思想的類似点(ニーチェによる「超人」とシュティルナーによる「唯一者」との思想的類似点等々)を見出され、シュティルナーからの影響がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な言及はない。そのことはフリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性の記事に詳しい。

ニーチェは、神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰、力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

有名な永劫回帰(永遠回帰)説は、古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。

彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。

すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理は全て力への意志と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。

ニーチェの思想は妹のエリザベートがニーチェのメモをナチスに売り渡した事でナチスのイデオロギーに利用されたが、そもそもニーチェは、反ユダヤ主義に対しては強い嫌悪感を示しており、妹のエリーザベトが反ユダヤ主義者として知られていたベルンハルト・フェルスターと結婚したのち、1887年には次のような手紙を書いている。
“ お前はなんという途方もない愚行を犯したのか――おまえ自身に対しても、私に対してもだ! お前とあの反ユダヤ主義者グループのリーダーとの交際は、私を怒りと憂鬱に沈み込ませて止まない、私の生き方とは一切相容れない異質なものだ。……反ユダヤ主義に関して完全に潔白かつ明晰であるということ、つまりそれに反対であるということは私の名誉に関わる問題であるし、著書の中でもそうであるつもりだ。『letters and Anti-Semitic Correspondence Sheets』[10]は最近の私の悩みの種だが、私の名前を利用したいだけのこの党に対する嫌悪感だけは可能な限り決然と示しておきたい。 ”

また、1889年1月6日ヤーコプ・ブルクハルト宛ての最後の書簡は、「ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」と記している。主著『善悪の彼岸』の「民族と祖国」ではドイツ的なるものを揶揄して、「善悪を超越した無限性」を持つユダヤ人にヨーロッパは感謝せねばならず、「全ての疑いを超えてユダヤ人こそがヨーロッパで最強で、最も強靭、最も純粋な民族である」などと絶賛し、さらには「反ユダヤ主義にも効能はある。民族主義国家の熱に浮かされることの愚劣さをユダヤ人に知らしめ、彼らをさらなる高みへと駆り立てられることだ」とまで書いている。にもかかわらずナチスに悪用されたことには、ナチスへ取り入ろうとした妹エリーザベトが、自分に都合のよい兄の虚像を広めるために非事実に基づいた伝記の執筆や書簡の偽造をしたり、遺稿『力への意志』が(ニーチェが標題に用いた「力」とは違う意味で)政治権力志向を肯定する著書であるかのような改竄をおこなって刊行したことなどが大きく影響している。

しかしながら、ルカーチ・ジェルジや戦後に刊行のトーマス・マンの、ニーチェをモデルにした小説『ファウストゥス博士』において、ニーチェをナチズムと結びつけて捉えるべきかのように示唆する観点をもつ研究者や作家も存在する。

とくにそれは優生学に基づいた政策を人間に当てはめることを肯定する態度に表れている。
“ 「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や精神薄弱症にかかっている者の場合である。…社会は、生の受託者として、生自身に対して生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、 またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべきである。しかもその上、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、 事情によっては去勢をも用意しておくことが許されている。」(『力への意志』734) ”

ナチスはユダヤ人虐殺以前に、障害者を強制「断種」して、 その後、精神病院にガス室をつくって障害者を多数「安楽死」させていた。T4作戦も参照。上記のニーチェの思想はナチスの行為を正当化するものとの誤解を与えかねないものであった。

それ以後の哲学・思想への影響

ニーチェの哲学がそれ以後の文学・哲学に与えた影響は多大なものがあり、影響を受けた人物をあげるだけでも相当な数になるが、彼から特に影響を受けた哲学者、思想家としてはハイデガー、ユンガー、バタイユ、フーコー、ドゥルーズデリダ らがいる。1968年のフランス五月革命の民主化運動も、バックボーンはニーチェ精神だった。



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個々の著作の概要

『悲劇の誕生』

初期の著作には、『音楽の精神からの悲劇の誕生』(なお、1886年の新版以降は『悲劇の誕生、あるいはギリシア精神とペシミズム』と改題されている)がある。これは、哲学書ではなく、古典文献学の本である。

ニーチェにしてみれば、厭世的と見られていた当時の古典ギリシア時代の常識を覆し、アポロン的―ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読するという当時の古典文献学の手法からすれば、暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さを欠く著作として受け取られ、ヴァーグナーや友人のローデを除いて、学界からは完全に黙殺された。

また、師匠のリッチュルも、単にヴァーグナーの音楽を賛美するために古典文献学を利用したと思い、「才気を失った酔っ払い」の書と酷評したため、リッチュルとの関係が悪化した。この書の評判が響いて、発表した1872年の冬学期のニーチェの講義を聞くものは、わずかに2名であった(古典文献学専攻の学生は皆無)。満を持してこの本を出版したニーチェは、大きなショックを受けた。

古典文献学者の中でほぼ唯一、ニーチェの考えを積極的に受容したのがイギリスのケンブリッジ儀礼学派の祖ジェーン・エレン・ハリソンであった。ハリソンは1903年の著書『Prolegomena to the Study of Greek Religion』において、ディオニュソスとオルフェウス教の密儀によって古代ギリシア人のオリンポスの神々への信仰が「宗教」と呼べるものに転換していったと主張した[11]。

そして、ニーチェは、自身の著作が受け容れられないのは、現代のキリスト教的価値観に囚われたままで古典を読解するという当時の古典文献学の方法にあると考え、やがて激しい古典文献学批判を行なう。そして、『悲劇の誕生』で説いたような、悲劇の精神から遊離し、生というものを見ず、俗物的日常性に埋没し、単に教養することに自己満足して、その教養を自身の生にまったく活用しようとしない、当時のドイツに蔓延していた風潮を、「教養俗物」(Bildungsphilister)と名づけ、それに対する辛辣な批判を後の『反時代的考察』で展開していくことになる。

『反時代的考察』

これは、ヨーロッパ、特にドイツの文化の現状に関して、1873年から1876年にかけて執筆された4編(当初は13編のものとして構想された)からなる評論集である。

「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(1873年):これは、当時のドイツ思想を代表していたダーフィト・シュトラウスの『古き信仰と新しき信仰: 告白』(1871年)への論駁である。ニーチェは、科学的に、すなわち歴史の進歩に基づく決然とした普遍的技法によって、シュトラウスの言う「新しい信仰」なるものが文化の頽廃にしか寄与しない低俗な概念に過ぎないことを喝破したばかりか、シュトラウス本人をも俗物と呼んで攻撃した。
「生に対する歴史の利害」(1874年):ここでは、単なる歴史に関する知識の蓄積をもってことが足りるとする従来の考え方を退け、「生」を主要な概念として、新たな歴史の読み方を提示し、さらにはそれが社会の健全さを高めもするであろうことを説明する。
「教育者としてのショーペンハウアー」(1874年):アルトゥル・ショーペンハウアーの天才的な哲学がドイツ文化の復興をもたらすであろうことが述べられる。ニーチェは、ショーペンハウアーの個人主義や誠実さ、不動の意志だけでなく、ペシミズムによって、この有名な哲学者の陽気さに注目している。
「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」(1876年):この論文では、リヒャルト・ワーグナーの心理学を探求している。当時のニーチェの心の中では、ワーグナーへの心酔と疑念が入り混じっていたため、対象となっている人物との親密さのわりには、追従めいたところがない。そのため、ニーチェはしばらく出版をためらっていたが、結局はワーグナーに対して批判的な文言の控えめな状態の原稿を出版した。にもかかわらず、この評論はやがて訪れる二人の決裂の兆しを見せている。

『人間的な、あまりにも人間的な』

1878年に初版を刊行、1886年の第2版からは『さまざまな意見と箴言』(1879年)と『漂泊者とその影』(1880年)をそれぞれ第2巻第1部および第2部として増補、題名も『人間的な、あまりに人間的な ―― 自由精神のための書』と改めた。本書はニーチェの中期を代表する著作であり、ドイツ・ロマン主義およびワーグナーとの決別や明瞭な実証主義的傾向が見て取られる。

また、本書の形式にも注目する必要がある。体系的な哲学の構築を避け、短いものは1行、長いものでも1、2ページからなるアフォリズム数百篇によって構成するという中期以降のスタイルは、本書をもって嚆矢とする。この本では、ニーチェの思想の根本要素が垣間見られるとはいえ、何かを解釈するというよりは、真偽の定かでない前提の暴露を盛り合わせたものである。ニーチェは、「パースペクティヴィズム」と「力への意志」という概念を用いている。

『曙光』

『曙光』(1881年)において、ニーチェは、動因としての快楽主義の役割を斥けて「力の感覚」を強調する。また、道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判が完成の域に達した。この明晰で穏やかで個人的な文体のアフォリズム集の中で、ニーチェが求めているのは、自分の見解に対する読者の理解よりも、自らが特殊な体験を得ることであるようにも見られる。この本でもまた、後年の思想の萌芽が散見される。

『悦ばしき知識』

『悦ばしき知識』(1882年)は、ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続きアフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルは思索法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)。

たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである。

永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張であろう。

『ツァラトゥストラはかく語りき』

『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの主著であるとされており、またリヒャルト・シュトラウスに、同名の交響詩 を作曲させるきっかけとなった。なお、ツァラトゥストラとは、ゾロアスター教(拝火教)の開祖ザラスシュトラの名前のドイツ語形の一つであるが、歴史上の人物とは直接関係のない文脈で思想表現の器として利用されるにとどまっている。




その他

『善悪の彼岸』

『道徳の系譜』

『偶像の黄昏』

『ヴァーグナーの場合』

『アンチクリスト』(『反キリスト者』;独語Der Antichrist)

『この人を見よ』

『ニーチェ対ヴァーグナー』

『力への意志』(ニーチェの死後、遺稿を元にエリーザベトが編集出版したもの。長らくニーチェの主著と見なされていた。)

作曲

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ニーチェ:フリードリヒ・ニーチェの作品集

NIETZSCHE: Music of Friedrich Nietzsche

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ニーチェは、専門的な音楽教育を受けたわけではなかったが、13歳頃から20歳頃にかけて歌曲やピアノ曲などを作曲した。その後、作曲することはなくなったが、ヴァーグナーとの出会いを通して刺激を受け、バーゼル時代にもいくつかの曲を残している。作風は前期ロマン派的であり、シューベルトやシューマンを思わせる。彼が後にまったく作曲をしなくなったのは、本業で忙しくなったという理由のほかに、自信作であった『マンフレッド瞑想曲』 をハンス・フォン・ビューローに酷評されたことが理由として考えられる。

現在に至るまで、ニーチェが作曲家として認識されたことはほとんどないが、著名な哲学者の作曲した作品ということで、一部の演奏家が録音で取り上げるようになり、徐々に彼の「作曲もする哲学者」としての側面が明らかになっている。彼の作品は、すべて歌曲かピアノ曲のどちらかであるが、四手連弾の作品の中には『マンフレッド瞑想曲』交響詩『エルマナリヒ』など、オーケストラを念頭に置いて書かれたであろう作品も存在する。また、オペラのスケッチを残しており、2007年にジークフリート・マトゥスがそのスケッチを骨子としてオペラ『コジマ』を作曲した。

著作

『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』(『悲劇の誕生』)(Die Geburt der Tragodie aus dem Geiste der Musik,1872)
『反時代的考察』(以下の論文所収)(Unzeitgemasse Betrachtungen, 1876)
「ダーヴィト・シュトラウス、告白者と著述家」(David Strauss: der Bekenner und der Schriftsteller, 1873)
「生に対する歴史の利害」(Vom Nutzen und Nachteil der Historie fur das Leben, 1874)
「教育者としてのショーペンハウアー」(Schopenhauer als Erzieher, 1874)
「バイロイトにおけるヴァーグナー」(Richard Wagner in Bayreuth, 1876)
『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches, 1878)
『曙光』(Morgenrote, 1881)
『悦ばしき知識』(Die frohliche Wissenschaft,1882)
『ツァラトゥストラはかく語りき』(Also sprach Zarathustra, 1885)
『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Bose, 1886)
『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral, 1887)
『ヴァーグナーの場合』(Der Fall Wagner, 1888)
『ニーチェ対ヴァーグナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888)
『偶像の黄昏』(Gotzen-Dammerung, 1888)
『アンチクリスト』(あるいは『反キリスト者』)(Der Antichrist, 1888)
『この人を見よ』(Ecce homo, 1888)

遺稿集には

『力への意志』(遺稿。妹が編纂)(Wille zur Macht, 1901)
『生成の無垢』(遺稿。アルフレート・ボイムラー編)(Die Unshuld des Werdens, Alfred Kroner Verlag in Stuttgart, 1956)

日本語訳

※「全集」は、白水社版(第1期全12巻・第2期全12巻)と、筑摩書房「ちくま学芸文庫」(全15巻、元版は理想社)。ただし、白水社版は第3期(多くの遺稿集がある)が未刊行で、大半は版元品切。なお文庫版全集は、上記全作品の他に別巻4冊(書簡や遺稿集を収録)が刊行されている。

『ツァラトゥストラはこう言った』、『悲劇の誕生』、『道徳の系譜』、『善悪の彼岸』、『この人を見よ』などの主要作品は、岩波文庫・光文社古典新訳文庫などに収録されている。


生の哲学

歴史主義

外部リンク