ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)Ⅰ | mitosyaのブログ

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個人誌「未踏」の紹介

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ファブリ
世界の名画集 25
平凡社版

 

ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)

 

 

新規矩男

 

 

ドラクロワは「誰の弟子でもなくて、こうも力強い絵の描ける、こんな人っているものだろうか。これこそ革新者だ。また革命家でもある。先例もなく、突然現れた人だ」といったという。またアングルは、「自然は自分がつくったいちばん美しいものを、自分の手で台無しにすることになった。自然はこの青年に並はずれた才能を与えた。ほかの人にはめったに得られない素質をもって生まれ、その素質は、最初の一筆から花の咲くように現れ出る。そしてこれが序曲となって、一種挑戦的な態度で、もっとも難しい点を克服した見事な作品ができ上がるのであるが、残りのもの、すなわち芸術がまったく抜け落ちている。彼はあんなにたくさんなものを受け取っておきながら、自分のものは何一つ与えていない。なんという無駄なことだろう。なんというもったいないことだろう。まことに驚くべきことで、また嘆かわしいことだ。構図もなく、素描もない。あるものといえば、茶化しといってもよい誇張だけだ。この男は一個の眼だ。彼は互いに等質的な実在物を、ありきたりの色調の調和の中に、自分ではっきりと知覚して眺める。そして筆をとると、見たところでは真実よりもはるかに力強い自然が、たちどころにできてしまう。しかし、彼の提供するものはぜんぜん無価値なものである。このもうひとりの革命家は、危険な実例になるだろう」

 

 

ギュスターヴ・クールベ(クルベ) (Gustave Courbet, 1819年6月10日 - 1877年12月31日)

 

 

生涯

 

 

1819年、スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の山の中の村、オルナンに、裕福な地主の子として生まれる。
1831年、オルナンのカトリック系中学校に入学し、そこで基本的なデッサンを学ぶ。
1837年、王立の高等学校に入学する。そのかたわら画家フランジューロのもとで学ぶ。
1840年、21歳の時にパリへ出てソルボンヌ大学法学部に入学するが、本人を法律家にさせたかった父親の意図に反し、彼自身は画家を目指してアカデミー・スイスに通い、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写した。
1844年、『黒い犬を連れた自画像』がサロンに入選しているが、これは当時の画家としては非常に遅いデビューである。
1845年、『ギタレロ』がサロンに入選。
1846年、『革のバンドをした男』がサロンに入選。
1849年、『オルナンの食休み』がドミニク・アングル、ドラクロワの二人に評価され、それがもとで国家が買い上げることになり、リール市立美術館に所蔵された。
1851年、『オルナンの埋葬』を出品するが、批判をうける。
1853年、サロンで批判をうけた『水浴びする女たち』、『眠る糸紡ぎ女』が美術愛好家のアルフレッド・ブリュイヤスに購入される。以後、彼はクールベの後援者となる。
1855年、パリにおいて世界で2番目の万国博覧会が開催された。クールベは、この万国博覧会に大作『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』を出品しようとする。しかし他の作品は審査を通過したにも関わらず、これらの大作は落選してしまった。そこでクールベは後援者ブリュイアスに資金を仰ぎ、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立て、1855年6月28日から公開した。当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だと言われている[誰によって?]。また、この個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。「レアリスム宣言」において、クールベは「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」と言っている。
1858年、ドイツに数カ月滞在し、『フランクフルトの夫人』などを制作する。
1870年、パリ・コミューンに参加し、反乱に荷担したことで投獄される。
1873年、スイスに亡命する。
1877年、亡命先で58歳の生涯を閉じた。なお、オルナンの生家は現在クールベ美術館になっている。
 
代表作『オルナンの埋葬』と『画家のアトリエ』
オルナンの埋葬 1849 オルセー美術館
画家のアトリエ 1854-55 オルセー美術館
中央で描画している人物がクールベと言われている

 

 

今ではクールベの代表作とされている、大作『オルナンの埋葬』も、発表当時の評判はさんざんであった。この絵にクールベが付けた題名は『オルナンの埋葬に関する歴史画』というものだった。当時のフランスの人々にとって「歴史画」とは、古代の神々、殉教者、英雄、帝王などを理想化された姿で描いた格調高い絵画のことであった。これに対し、オルナンという、山奥の田舎町の葬式に集まった名もない人々という主題を、まるで歴史上の大事件のように扱い、このような巨大な画面(縦約3.1メートル、横約6.6メートル)に表して「歴史画」と称するのは当時としては常識はずれのことだった。

 

 

もう一つの代表作『画家のアトリエ』も大作である(縦約3.6メートル、横約6メートル)。この作品には「私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意」という長い副題が付せられている。「寓意画」とは、たとえば「愛」「真実」「信仰」「死」のような目に見えないもの、形のないものを擬人化したり、静物画で表したりする、西洋絵画の伝統的な主題の一つであるが、クールベは、アトリエで制作する自分自身の姿と、周囲に集まる30人ほどの人々を描写したこの絵を「寓意」だと言っている。画中に描かれた人物たちは、全員が何らかの「寓意」を表しているとされ、知人で作家のシャンフルーリに出した手紙でこう説明されている。

 

 

舞台はパリの私のアトリエです。画面は二つの部分に分かれています。真ん中で私が描いています。右側は株主たちすべて、つまり友人たち、労働者たち、芸術界の愛好家たちです。左側は野卑な生活の別の世界で、民衆、悲惨、貧困、富、搾取者、被搾取者、死によって生きる人々です。

 

 

クールベは、上記2作品のようなグループ肖像画のほか、森の中の動物を主題にした風景画や、官能的な裸婦像などにも傑作を遺している。

 

 

代表作
ウィキメディア・コモンズには、ギュスターヴ・クールベに関連するメディアおよびカテゴリがあります。
 
『オルナンの埋葬』(1849年)(オルセー美術館)
『画家のアトリエ』(1855年)(オルセー美術館)
『世界の起源』(1868年)(オルセー美術館)
『出会い(こんにちは、クールベさん)』(1854年)(モンペリエ、ファーブル美術館)
『女とオウム』(1866年)(メトロポリタン美術館)
『石割り人夫』(第二次大戦中ドレスデン爆撃で焼失)
 
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